戦乱の予兆 ~ エピローグ
混迷が続くテレーゼの東南端にあるアラセナ盆地、クエスタとエステーベ連合軍にアラセナを支配していた傭兵団が滅ぼされた凄惨な事件からまだ日も浅い。
セルディオを始めとした傭兵団の幹部が瞬時に抹殺されたおかげで大規模な戦いは起きなかったが、アラセナ各地に傭兵団の暴政の後が残る、だが一見しただけでは美しい田園からその痕跡を伺う事はできなかった。
だが観察力のある者が見れば放棄された農地が櫛の歯がぬけたように寒々とした姿をさらしているのを見とてる事ができるだろう。
そして整備を放棄された街道や橋が修理もされずに放置されていた。
傭兵隊長達の暴政があと1~2年続いていたら誰の目にもアラセナの荒廃が解かる様になっただろう。
ルディガー公子の追方劇がブラス達のアラセナ占領を決断させたとすればなんとも皮肉な話である。
日が昇り盆地の底に淀んでいた薄い霞が徐々に晴れて行く、その中をアラセナ城からアラセナ盆地西端のマルセナ峠に向かって騎馬を走らせる集団があった。
総勢30騎ほどの軽騎兵の集団だが、その隊列の中央にクエスタ家の棟梁ブラスの姿があった。
その騎兵の集団に西方から一騎の伝令騎兵が向かって来る、騎兵部隊は先頭の指揮官の指図で停止した。
「ブラス様伝令です」
部隊の先頭にいた先導の指揮官が伝令を伴い部隊の中ほどを占めるブラスのところにやって来た。
「サカリアス様からの報告です、マルセナ、マドニエ方面に逃れた残党は、現地の領主軍と農民によりほぼ掃滅されました、また傭兵団の家族達もほとんどが殺されるか捕虜になりました」
クラスタ家の密偵頭サカリアスはこの先のマルセナ峠に腰を据えテレーゼ方面の情報収集と工作を行っていた。
ブラスの視察は急な話だったのでサカリアスの出した伝令とぶつかってしまったのだ。
「やはりそうなったか、奴らは着の身着のままでアラセナから脱出した、行き先で奪略するしか道がない」
傭兵団の頭を叩き潰した直後にテレーゼの近隣領主達に警告を発していた、アマンダが利用したアラセナからマドニエに抜ける裏街道があるのだから、足手まといを連れた残党より先回りする事ができる。
彼らは近隣で奪略し食料を確保しあわよくば小領主でも乗っ取って足場にしようとしていたようだ、だが機先を制せられ地元の領主連合軍と農民に狩り立てられた。
残党はあれから二日ほど彷徨いテレーゼの森と大地に消えていった、生き残りは奴隷に売られ女と子供は運がよければ新しい人生を歩めるかもしれない。
「サカリアス様は次の任務に移行すると仰せです」
次の任務とは近隣諸侯に対する宣伝でアラセナ伯に縁のある人物を担いだアラセナの旧臣が中心となり難民をまとめて傭兵団を追放し革命を起こしたと言う物語を流布する事だ。
表向きはアラセナ伯家の復興の形をとりあえずは取る、その仮面を脱ぎ捨てるのは足場が固まってからだ。
ブラスは伝令をいたわりアラセナ城に向うように促すと、ふたたび前進を命じた。
「行くぞ!!」
ブラスの下知を受けた先導の指揮官が再び前進を命じた。
「前進!!」
アラセナ城を出て二時間ほどでマルセナ山地が目の前に迫って来た、大した高さの無い山地で平野部から400メートル程の比高差があるだけだ。
それでも往来の大きな障害となり、テレーゼ奥地とアラセナを壁の様に分断していた。
一行は傾斜がつき始めた街道を昇りはじめていた、蛇行しながらマルセナ峠を目指して昇っていく。
ふとブラスが眼下を見ると豊かなアラセナ盆地を見下ろす事ができる、農地と集落と点在する森、その彼方にアラセナ城市が遠望できた。
数年前までここはテレーゼの中でももっとも安定し平和な大地だった、家臣達も新しい領地になった豊かな盆地を感慨深げに見下ろしている。
「ブラス様まもなくです」
脇をかためていた重臣のリコが声をかけてきた、ブラスが前を向き直るとその先にマルセナ峠が見えてくる、あの峠を越えるとテレーゼの大平原が眺望できるはずだ。
リコは初老の中肉中背の男で短髪で髪の色は黒、薄い灰色の瞳をしていた、日に焼けた頑健な男で彼は先代からクラスタに使えた重臣でブラスの信頼も深い。
「あれがマルセナ要塞の跡か」
街道のすぐ両脇にある古い石造りの廃墟を見てブラスはおもわずつぶやいた、要塞跡は峠を挟むように山の峰にそって細長く広がり、街道を門が塞いでいたのだろうか巨大な門の後があった。
だが今はその門も失われ瓦礫の山があるだけだ。
ブラス達は馬を降りて馬を休ませる、従兵が馬の世話を始めた。
「サカリアス達はどこだ?」
「ここからは見えませんが廃墟の近くの小屋におります」
それにリコが答える。
ブラスはその古い要塞を眺めてため息をついた。
「やはりこの要塞は大きすぎるな、大軍を入れる事を前提にしている」
「もともと緊急時に4000の兵を詰める事が可能だったようですな」
またこの要塞はアラセナ方面からテレーゼ奥地に侵攻してくる敵に備えた作りなのだ、その逆ではない。
城門跡の向こう側には兵舎や倉庫らしき跡が見えた。
「やはり直接見に来て正解だった」
ブラスは周囲の地形を見渡している、砦を築く場所を策定しているのだ。
まずは丸太などで応急に砦を築き、本格的な砦は時間をかけて建設していく計画だった。
まず戦いよりも人の出入りをコントロールしたい。
「ブラス様サカリアス殿です」
護衛の騎士がサカリアスと彼の部下が徒歩でこちらに向かって来るのに気づいた。
かれは長身の細面の30代程の男だが、見かけは文官に見える優男だった、薄いブラウンの髪を掻きながら街道上のブラス達のいる方に向かってくる。
「お館様、急なご来訪で」
「サカリアスすまないな、どうしても見ておきたかった」
ブラスは苦笑した。
「マルセナ要塞ですか?」
「それもある」
ブラスは付いて来いと一行を促し街道を進んでいく、そのあとを家臣たちが従う、しだいにテレーゼの大平原が彼らの視界に入ってくる。
家臣達のなかからどよめきが上がった。
ブラスは立ち止まる。
「これを見ておきたかったのさ」
地平線の彼方まで広がるテレーゼの大平原が眼下に開けていた、平野は豊かな濃い緑に覆われている、人口の激減で多くの農地が放棄され林へ森へと還った結果だ。
近くに見えるのはマルセナ城市、遥か北に見えるのはマドニエだ。
マルセラから北西に伸びる街道を進むとテレーゼ王国の旧首都ハイネに至る、ハイネまで歩いて4日程の距離だ。
ブラスは側にやってきた密偵長にふと語りかけた。
「例の道化はどうした?」
「アマンダ様のおっしゃられた男でしたらすでに確保に動いております、しかしそれでよろしいのですか?家中の者を立てても良いでしょうに」
「アラセナ伯が没落して気がふれてしまった気の毒な遠縁の親族にちょうどよい、アラセナ伯の一族は殺され尽くし生き残りがいない」
「わかりました」
「サカリアスよ不便は無いか?」
「今は石材盗掘人の小屋らしきものを接収して使っておりますれば雨露は防げます、近隣の者がここから石材を手にいれていたのでしょうな」
「石材盗掘!?そうかここの石材を使えば楽に砦を建設できるぞ」
要塞の石材を流用できれば大幅に費用と工期を短縮できる。
「お前の仕事が一段落したら城に戻ってもらうぞ、かわりに警備兵をここに送る」
「傭兵共の消滅を見届けました、後は道化を回収したら私は城に引き上げます」
サカリアスは笑いながら応じる、今のところは順調だった。
「リコ、ここに兵を置ける砦を建設する、もっともウルム峠の様に完全に封鎖するには難しい地形だがな」
「私も同様に思います、丸太でかまいませんから、小さな砦を街道脇に立てましょう、いずれ本格的に峠を封鎖する砦を再建するとしてもです」
「それで行こう、規模は小さくて良い、我々の手勢から考えるとな」
砦は敵を防ぐよりも密偵や偵察の拠点として活用する予定なのだ。
しばらく巨大な要塞の廃墟をブラスは眺めていた。
「リコ、帰ったらすぐ砦の建設を手配してくれ、俸給に食料を提示し難民共を適度に使え」
グラビエなどに逃れていた難民はもう今年の耕作には間に合わない、彼らは農地の復旧に回す予定だが、それでも野菜類なら栽培可能な種類があるが穀物が不足するのは確実だった。
「この案件は冬までまてない」
「かしこまりましたお館様」
彼らを労役に動員しついでに食料を配布する、領地の再建をいそいで進めなければ来年の春に間に合わない、そして来年の収穫期までは持ち出しになる、傭兵隊長達が溜め込んでいた富だけでは足りなかった。
そんな状況で小さな砦の建設を進めようとしていた。
「エミディオは元気にしておりますか?」
サカリアスがブラスに話しかけた。
「やつは一週間休みをもらい大いに喜んでいたぞ、ははは」
エミディオは傭兵隊長セルディオにオルビア王国密使アマディオとして接近し傭兵団を壊滅に導いた功労者であった。
「さてサカリアス俺はすぐに戻らねばならん」
「ではお館様おきをつけて」
サカリアスは一礼した、ブラスは密偵長に軽く頷くと馬達のいる場所に戻っていった。
ブラスは視察を終えてアラセナ城に戻るべく帰路を急ぐ、多くの仕事が残っていてアラセナ城を長くは離れることができない。
現在アラセナ各地に部下を送り治安の維持や人心の安定を計っていた、アラセナの人々は当初は新しい侵略者に恐慌状態に陥っていたが、今は傭兵団の滅亡を喜び歓迎する空気になりつつある。
彼らは侵略者の掲げる大義名分よりひたすら安定を望んでいるのだ。
グラビエから徴募した輸送隊はすでに帰路につかせた、その数は1000名ほどだが輸送隊も物資を消費するので運び込んだ物資を彼らに消費されては意味が無い。
そして彼らは農民であり長く耕作地から引き離しておくわけにはいかない。
クラスタとエステーベの家臣団と徴集兵500程がアラセナに残っている。
遺された徴集兵は若い者が多く、将来家臣に引き立てるべく目をつけている者が多い、彼らも領地が安定しだい一部を残しグラビエに戻す予定だ。
アラセナを掌握するためには家臣団を領地に見合った数まで増やす必要があった、それは徐々に行われていくだろう。
エルニア人がほとんどのクラスタ家も少しずつ変わって行くことだろう。
ブラスは家族をアラセナに招くのは何時にするか考えた。
そしてブラスはまだ誰にも明かしていない野心と計画をふたたび検証し始めた。
エルニア公国の公都アウデンリートその中心に聳え立つ大公家の居城、そこはエルニアの行政の中心でもある。
その城に昨晩から各地の密偵や大使館からの急報が集まり、外交を担う宰相府は早朝から緊迫した空気に包まれていた。
その宰相室に隣接した会議室でギスランと総務庁長官のヴェンデル=ヘルトが密談をしていた。
「最大の案件としてはグディムカル帝国の内戦が20年ぶりに収束した事だ、皇太子派が完全に帝国内部を掌握したと見るべきだ、これは帝国と敵対していたアラティア王国にとっても脅威となる」
宰相のギスランはヴェンデルの返答を待つ。
「アラティアはルーベルト殿下との婚姻を積極的に進めてくるでしょうな」
「アラティアも背後を固めたかろうよ」
彼らの前にはグディムカル帝国の大使館からの公式の報告と密偵からの情報が共に並べられていた。
「さて次はテレーゼだ、ハイネを中心にハイネ通商同盟が結ばれた、通商同盟と称しているがそれだけとは誰も思わん、そしてこれは我が国とも近い」
「グディムカル帝国の内戦の終わりを見越していたと思えますな、テレーゼの北は帝国と接しておりますれば」
「儂も同意見だ」
「ハイネ通商同盟に非公式な外交窓口をおくぞ、アラティアやセクサルドあたりは積極的に接触をはかるだろう」
両国がハイネ通商同盟と連携してグディムカル帝国を封じ込めようと動くのは火を見るよりも明らかだった。
「やはり大使館はおけませんか、テレーゼの他の派閥が煩いですからな」
「そう言う事だ」
隣室の宰相室の執務机の上の報告書の山の中に、テレーゼの一伯爵領で起きた小さな政変に関する数行の簡潔な報告書が埋もれている、繰り返される政変にそれは『またか』とうんざりした様な、憐れむような目を注がれたままそこに置かれた。
それはまもなく宰相府の資料室に送られる、それがふたたび脚光を浴びるのはかなりの時がたった後の話となる。