命の炎
ハイネの北の小高い丘の上に建つ煉瓦造りの瀟洒な舘の窓から美しいハイネの夜景が眺望できた。
眼下に火の粉を撒いた様にオレンジと赤い光の粒が敷き詰められている。
その舘の一室は灯り一つ無く朧気な月明かりが窓から差し込むだけだ、その窓辺に深紅のドレスを纏った女性が微動だにせず立ち尽くしている、先程からハイネの夜景をずっと見詰めていた。
「エルマは遊びにいったの?」
そして突然口を開いた。
「はいドロシー様、エルマ様はおでかけに」
若い気品のある女性の声がそれに答える、部屋の隅の暗闇の中に声の主はずっと控えていたらしい、その声は丁重だがそこから彼女の緊張がつたわってくる。
「そう」
それっきり彼女の主人は口を開かなかった。
満足したのか不満があるのか分からない、それがこのやっかいな主人の気性だった。
「すこしでかける」
「かしこまりましたドロシー様」
どこに行くのか何をするのか彼女に尋ねる者などこの舘にいなかった、だが彼女は暴君ではなく邪魔さえしなければ極めて無害な主人だ。
使用人に特に何も求めず彼らが失敗しても気にもしない。
それでも人を無造作に死にいたらしめる力を秘め、そして存在自体が人の本能の底に眠る原初の恐怖を呼び覚ます、舘の者は皆彼女を深く恐れていた。
彼女は深紅のボンネットを自らの手で被る、貴族の子女ならば使用人に任せるところだが彼女はそんな事は気にもしない。
二階のバルコニーのガラス戸を開けて外に出ると月を見上げる。
次の瞬間彼女の姿がバルコニーからかき消えた、先程の使用人が部屋の隅の影から出てくるとバルコニーのガラス戸をうやうやしく閉じる。
その舘の屋上の小さな尖塔の先の鋼鉄の避雷針の上に人影が立つ、深紅のドレスを纏い同じ色の深紅のボンネットを深くかぶっていた。
ルビーの様な深紅のヒールで避雷針の上に危なげもなく屹立していた、両腕を愛らしく軽く広げて片足を軽く曲げバランスをとる。
エナメルの艷やかなヒールの質感は彼女の唇を思わせた。
今夜は風が強い、風が木々をきしませ木の葉が舞った、そして雲が飛ぶように流れ去っていく。
彼女はふたたび大きく跳躍し丘の大樹の枝の上に飛び移った、そこからは所々松明で照らされたハイネ城と城壁が良く見えた、ゆっくりと城壁の上を移動して行く光は巡回兵の灯火、そして月の光に煌めく水面がそれらを写し出していた。
彼女は目を細めて無邪気に微笑む。
枝の上からその姿が消えたあと風のざわめきだけが残っていた。
バルコニーのガラス戸を閉めた使用人がいつもの場所に戻ろうと振り返った時、思わず彼女は呻いて縮こまった。
「ひっ!?」
彼女の後ろに小さな男の子がいたからだ、高級使用人のその女性はそれにまったく気が付かなかった。
その男の子は細身で年齢は7~8歳程であろうか、薄い金髪で巻きげの髪だがその瞳は赤く潤んでいる、
肌の色はやはり血の気のない白で青みがかる、貴族の子弟のような衣装を纏っていたが、彼は美しい少年で繊細でもしかしたら良家の血を引いているのかもしれない。
「そんなにおどろかないでよポーラ」
「ヨハン様失礼いたしました!!」
ポーラは平身低頭するばかりだ、そんなポーラを不満げにその少年は眺めていた。
「二人は勝手に遊びにいったんだ?僕には行儀良く大人しくしてろと言っていたくせに」
ポーラはどう答えたらいいのか困惑する。
「ぼくも散歩してくるよ、朝までにはもどる」
「かしこまりましたヨハン様」
ポーラは深く一礼した、ヨハンはガラス戸を開きバルコニーに出るとすぐその姿が消えてしまった。
ポーラは再びバルコニーのガラス戸をうやうやしく閉じる、だが今度は使用人控室に引き上げていく。
彼女が大きく息を吐く音が薄暗い部屋に響いてやがて扉が閉じる音がした。
そして部屋には今度こそ誰もいなくなった。
ハイネの旧市街の東北部を占める大聖霊教会の前の通りは通称礼拝殿通りと呼ばれている、その周辺はハイネの上層の人々の邸宅が集まる住宅街になっていた、あのハイネの野菊亭がある商店街もここからそう遠くはない。
その住宅街の一角に一際目立つ古風な様式の美しい邸宅がある、旧テレーゼ様式の邸宅はセクサルド帝国時代の貴族の舘の状態を今に良く遺していた。
その邸宅は今は豪商にしてテレーゼを支配するコステロファミリーの首領、エルヴィス=コステロの本邸となっている。
その二階の私室でコステロは溜まった決済の処理に追われていた、コステロ商会として、コステロファミリーとして、そして私的なコステロ家に関わる決済の山、それらはすでに動き出す直前であとはコステロがサインを入れるのを待っていた。
コステロはうんざりしながら書類を処理して行く。
コステロは帽子こそ外していたが、頑なに遮光眼鏡を外さない、部屋を照らす魔術道具のオレンジ色の薄暗い灯りしかない部屋でまともに物が見えるのだろうか?
その時コステロの手が止まり、バルコニーに続くガラス戸に目を向けた。
部屋のカーテンが僅かに揺らめいている、部屋の空気が動き冷たい夜の外気が部屋に流れ込んできた。
「お前かそこにいるのか」
「そう」
その声はカーテンの向こう側から聞こえてくる。
「中に入れ」
カーテンをかき分ける様に視界を深紅が覆う、そう感じさせる程に印象的な強烈な深い血の赤で彼女は統一されていた、そのせいで彼女の他の特徴がぼやけるほどだ。
いつしか彼女は深紅の令嬢と呼ばれる様になっていた、もっとも彼女の存在を知る者はごく一握りだったが。
数歩部屋に踏み込むとそこで止まる。
「よんでもこない」
「俺は仕事が溜まっていると言っただろ?」
「やつらの事をはやくしらせたかったから」
「例の連中の事か?」
「あなたはあいつらが何者か知っているの?」
「ほう?バルタザールやキールは聖霊拳の使い手か人工の狂戦士と見ているぜ、国外の密偵だとさ」
ドロシーの口が嘲る様に歪んだ。
「きょうお屋敷のふもとで一人とすれ違った」
「なんだと?奴らとか!?」
ドロシーは頷いた。
「あいつは幽界の神々の手先、神隠し帰りと人が呼んでいるモノ、わたしたちの悠久の昔からの敵」
「神隠し帰りだと!?それはお伽噺の話だとおもっていたが」
さすがのコステロも愕然としている。
「まて他の連中はどうなんだ?」
「たぶん神隠し帰り」
「おいおい、何が起きているんだ?何か知っているのか?」
「冷凍ミイラのせい」
「それはセザールかよ?」
ドロシーは頷きそれを無言で肯定した。
「しかし冷凍ミイラね」
コステロはくつくつと笑いだした。
「冷凍ミイラが魂のりんねをせき止めている」
「そうだ奴はそれを蓄積し武器にしようとしている」
ドロシーは何かいいかけたが口を閉ざした、その瞳の色は深く赤く沈んでいく。
「でもじゃまはさせない」
彼女はいきなりドレスを脱ぎ捨て始めた、コステロは僅かに驚くがそれを楽しげに眺めるだけだ。
ドレスを脱ぎ捨て下着を外しそして一糸まとわぬ全裸となってしまった、その非人間的なまでに完璧な肢体はアラバスターの彫像のように見えた、肌の色は青白くとても血の通った肉体には見えない。
彼女はコステロに近寄りくるりと美しい形の良い尻を向けると、そのままコステロの膝に乗せて腰掛けてしまった。
「あなたもいそがないと」
ドロシーはコステロの手を取ると自分の胸に彼の手の平をあてる。
「はやくなってきたでしょ」
「ああ」
彼女の青白き肌に血の雫を落としたように徐々に薄桃色に染まり始めた、アラバスターの彫像に命が吹き込まれていく。
「温かくなってきたな」
「わたしのいのちを燃やしているから」
コステロは頷くとドロシーを後ろから抱き寄せた、ドロシーが笑うと彼女の口の中から鋭い犬歯が頭を覗かせる。
部屋を照らしていた魔術道具の灯りが落ちた。
セナ村の外れにある屋敷は静まりかえっていた、子供達は寝静まりコッキーもさきほど眠りについた。
だがアゼルは一人研究室に閉じこもり、中断していた使用済み触媒の分析を進めている。
壊れた花瓶の破片から元の形を再現するように、その術式を推理しようと奮闘していた、だが術式の解析を進めるほど漠然とした疑念がアゼルの中から湧き上がって来る。
「どうやら時間がたつのも忘れていましたか」
机の上の告時機が夜も更けている事を示していた。
部屋に繊細な鈴の音が響き渡る、それは部屋の隅の小さな机の上に置かれた精霊通信盤から聞こえてくる。
「通信が来ましたか!!4日ぶりですか」
アゼルは急いで精霊通信盤に駆け寄る。
アゼルはなぞなぞの様な通信文を解読しある意味のある言葉を綴り出したがそこでまた困惑してしまった。
『アラセナ占領』
その文字にアゼルは混乱した、クラスタとエステーベ一族が潜んでいるグラビエ湖沼地帯から西のウルム峠を越えると、その先はテレーゼ南東端のアラセナ伯爵領に至る、そのアラセナを占領したとでも言うのだろうか?
アゼルはアラセナに関する知識を総動員した、アラセナ伯爵が家臣に倒されアラセナ伯爵を名乗るが僭称伯と呼ばれる様になって四年、ふたたび傭兵隊長の反乱で僭称伯が倒され混乱に陥ったのが約一年前の事だ。
アラセナは四方を山に囲まれ攻めにくく守りやすい、土地は豊穣で農業が盛んだが石材以外の金属資源に乏しい。
アゼルはアラセナの生産力から推測すると、クラスタやエステーベの旧領と比較しても四倍程度の生産力があるだろうと計算した。
「まさかこう出るとは予想していませんでした」
山地に囲まれ要塞の様なアラセナ盆地を脳裏に描く、そしてウルム峠の東のグラビエ湖沼地帯には半要塞化された自由開拓民の村々が散らばる。
テレーゼは混乱の極みで大軍を動かせる勢力こそあるが、アラセナにわざわざ派兵する余裕など無かった。
アゼルはエルニアの現政権が大きな失政か予想外の変事でもないかぎりルディガー公子の復権はありえないとアゼルは思っていた。
ブラス達は持久体勢を整えて機会を待つつもりだとアゼルは読む。
「私の口からは言えませんが、現状では殿下がエルニアで復権できる可能性はありません」
精霊通信ではどうしても情報量に限界が会った、今はそれがもどかしい。
誰かが説明の為に派遣されてくるのではないか?
アゼルの脳裏にアマンダの姿が映し出された、個として人として最強の域に達し身分も有り交渉事もできる、彼女は密使に最適の人材だった。
その時アゼルが屋敷の周囲に敷設した魔術の警戒線を越える者がいる、だが反応は敵ではなかった。
「殿下のお帰りですね」
アゼルは椅子から立ち上がった。