小さな波紋
ハイネの露天掘り炭鉱近くの繁華街も昼間は人通りも少なくてうら寂れた空気が漂っていた、この街が目覚めるのは自由民の鉱夫達や製鉄所の職工達の仕事が引けた夜になってからだ。
その街を一人で歩く三編おさげの凡庸そうな町娘がいる、だが彼女の薄青の瞳の眼光がその凡庸さを裏切っていた。
娘は何事か独り言を呟く。
「金髪に染めようかな?少し憧れていたんだもの・・・」
その呟きを聞いた者がいたならばそれは彼女の秘められた深い想いだと理解できたかも知れない。
その娘こそ服装と髪型を大きく変えたベルだった、ルディはハイネの古地図と現在の街を比較しながら調べたいと先程別れたばかりだった。
彼女は途中で買った頭巾をかぶりますます町に溶け込んでいる、肖像画から少しでもはずれようと努力を惜しまなかった。
そして先程遭遇した黒塗りの馬車を思い返していた、力を解放し馬車の中を探ったあの瞬間の出来事を思い出す、予想に反してそこには誰もいなかった、いや何も無かったと言うべきか、神話で語られる地獄の入り口を覗き込んだ様な、そこにあったのは暗黒の奈落の虚無の底だった。
彼女の体がまた僅かに震える。
「あれは何だったんだ?」
ふと気が付くと何時の間にか妖しい雰囲気が漂う魔術道具屋の前に立っていた、そこはお馴染みの『精霊王の息吹』だ。
「さてついた・・・」
「こんにちわ~」
ベルは元気いっぱいに扉を開け放った、店番のカルロスが顔を上げた、彼の顔には煩い奴だと書いてある。
だがそれも一瞬の事で商売人の顔に早変わりした。
「何の御用でしょうかお客さま?」
カルロスの顔がまた訝しげに変わる、だがそれもすぐに消えた。
「娘さん、ここは初めてですか?」
「はい、はじめてですわ」
店主にはまだ何か引っかかる事があるようだった。
その間にベルは店内に素早く視線を巡らせ、やはり奥の部屋を仕切るカーテンに目を留める。
ベルは店に入ってから周囲の生命力を探っていた、力を放出するのは危険すぎるから生命が発する気配を探る。
この方法では狭い範囲しか知る事はできないし精度が落ちる、だが発見される恐れが無かった、ベルは店の下の方向から幾多の命の感触を感じていた。
「髪を金髪に染める薬を探しているの」
「おお、ちょうど毛染め薬なら入ってきたばかりだ、それも金色だよ」
ベルはあまり信用できないと思ったが、それが顔に出ていたようだ。
「疑っていますねお客さま、ここに試供品があるのでお見せしましょう」
カウンターに小さな乳鉢と水で満たされた木製のカップを置くと試供品の瓶の薬液を乳鉢に注いだ、それは赤錆び色のドロリとした液体だ、ベルにはとてもこれが金色になるとは思えなかった。
それにカルロスが小さな毛髪の一房をつけ込んだ。
「こうしてしばらく漬けますと」
ベルは興味を感じて体を乗り出した。
「そして取り出して素早く水で洗います」
水で満たされた木製のカップで赤錆びた液体まみれの毛髪を洗う、とりだすとそれは見事な黄金色に輝いていた。
ベルの両目が見開かれる、金髪になった自分の姿がベルの脳裏に描かれた。
「いいね!!」
それは一本の毛染め薬が売れた瞬間だった。
店から出たベルは『精霊王の息吹』を振り返った。
「地下にかなりの人がいる、いずれ調べるか」
それは誰にも聞こえないほどの小さな声だ。
そして近くの小道に潜り込む、しばらく店を見張る事に決めたのだ、誰でも良いので死霊術師を追跡するつもりだ、だが他にもいろいろすべき事が多い、どのくらい見張ろうか思案を始めた頃、見覚えのある女性の魔術師が店から出て来た。
彼女はかなりいそいでいる様子で、手入れの悪い髪をなびかせて足早に歩き去っていく、彼女のやつれた顔に銀のモノクルが輝いていた。
「運がいい、あの女の人だ!!」
さっそくベルは尾行を開始する。
彼女は南に向かってしばらく進みそして左折した、ハイネの旧市街の西門に向う通りをどんどん進んでいく。
この道は新市街で一番人通りの多い通りだ、ベルは人混みにまじりながら彼女を追跡した。
彼女はある狭い小道に右折し入っていった、そこの街の雰囲気はかなり悪い、面倒な事にならなければ良いがとベルは僅かに眉を顰める。
だが通りに入ってすぐ近くの古い朽ちかけたアパートの一室に彼女は入って行った。
「なんか今にも潰れそう、幽霊屋敷みたい」
その朽ち掛けたアパートを見上げたベルは呆れた様にため息をついた、茸が生えてシロアリが柱をかじっていそうなアパートだ。
野生児として修練を積んだベルだが不潔な環境は大嫌いだった、とてもここに住める自信はない。
ベルは気を取り直してまた生命力を探る、彼女の部屋からは一人分しか感じられない、それどころかそのアパートに一人しか人がいないようだ。
まさかとは思うがどこかの部屋に白骨死体があるかも知れない。
「これは酷いよ・・・」
だがこれで何時でも彼女を誘拐する事ができる、彼女しか住人がいないなら更に好都合だ、それに誘拐しなくても彼女の部屋を調べればアゼルを手助けできる様な物がきっとある。
いずれにせよ実行するかどうかはルディとアゼルと相談して決める。
彼女の部屋の前に忍び寄ると、何かが焦げた様な薬臭い臭いがかすかに漂ってくる。
ベルはその朽ちかけたアパートの場所と彼女の部屋を覚えると逃げるようにその場を離れた。
目的を予想より早く達成したベルは上機嫌で街を南下して行く、こんどは新市街の南の外れの聖霊教会の周囲を探るのが目的だ、聖霊教会の周辺は人口密度が高く、子沢山が多いのか子供達の喧騒と泣き声で非常に騒がしい。
その人混みに紛れ思い切って力を解放し広範囲を走査する、魔術士がいれば力を使った者がいるとばれる危険がある、だがこちらも魔術士が範囲内にいる場合それを見分ける事ができる、魔術師は基本的に精霊力の漏れが大きい。
「よし、魔術師はいない」
ベルはそれを確認すると不審人物を探る為に積極的に力を使い始めた。
挙動が怪しい者を見つけ出す必要があるが、これは非常に難しい、特に人口密度が高い場所はなおさらだ。
ベルは直感で人の視線に込められた感情や意思の力を漠然と感じる事ができた、だがそれで誰かを特定できるわけではない。
テオの尾行を見破る事ができたのは、彼がまだベルの危険性を十分理解していなかった為に彼女に近づき過ぎたからだ。
「そうだ、やってみるかな」
ベルは良い考えを思いついた。
聖霊教会からそう離れていない少し開けた場所に二軒ほど露店があった、ホロ布を木の柱で支えて屋根として木箱を商品の陳列棚にしていた。
その上に野菜などがところ狭しと並べられていた。
もう少しすると夕食の買い出しをする客が集まる、だがその時間にはまだ早かった、その店先に30代程に見える女主人が筋肉質の太い腕を組んで辺りを睥睨していた、大柄と言うわけでは無いがなかなか貫禄のある女性だ。
「女将さん、ちょっと良いでしょうか?」
ベルはその女性に近づいた、まるで荒削りの岩のような厳つい容姿の女性だった、何の用かと目をぎょろりとさせてベルを見る。
「なんだい?」
「人を探しているんです」
「あんたもかい?」
ベルの内心では期待がどんどん立ち昇っていく、それは真夏の入道雲のように。
「私が探しているのは、貴族のお屋敷で働いているお友達なんです」
「それって、黒い長髪で高級使用人の制服を着たあんたぐらいの歳の娘だろ?」
まさしく的中だった。
「なぜご存知なんですか?」
「同じお屋敷で働いている、洗濯女とでかい体の庭師の見習いがその娘を探していたよ」
「まあ、私も知ってるかもしれない方々ですわね、お名前は聞きましたか?」
「いや、特に名乗らなかったね」
彼らとベルが同僚ならばルディやアゼルはどういう関係で調べているのか気になる。
いずれにせよ、何者かが聖霊教会からさらった子供達を運ぶ輸送隊を壊滅させた犯人と、自分達との関連性を洗おうとしている可能性が高まる。
「それで私のお友達は見ましたか?」
「数日前にそんな娘を墓地で見たよ、親戚が亡くなって火葬にしていた時だね、墓地に場違いな黒いドレスの黒い長髪の娘が来ていたよ、何か調べている様子だったね、そいつらに教えてやったよ」
「まあ、あの娘何をやっているのかしら?」
ベルはあのドレスを結構気に入っているが、大商人の訳あり高級使用人の設定としては悪く無いが少々目立ちすぎた様だ。
さらにルディやアゼルを目撃している者も居るはずだ、すでに聖霊教会と自分達の関係を疑われている可能性が高い。
「いろいろありがとうございました」
ベルは女将に会釈をした、その女性は僅かに表情を緩める。
「その娘がみつかるといいね」
「ハイ!!」
見つかるも何も本人である、ベルはその場から立ち去ると、話に聞いた洗濯女と庭師見習いの大男を警戒しながら慎重に歩く。
ベルはその場から立ち去ると、付近の住人に高級使用人の友人とその同僚の洗濯女と庭師の行方をたずね始める。
そして洗濯女達が接触した住人が他に数人見つかった、その中に黒い高級使用人のドレスを着た娘が聖霊教会に入って行くところを見た者、孤児たちが誘拐された日にサビーナが頼った見知らぬ魔術師を目撃した者がいた。
「聖霊教会のサビーナ達が危ない」
外から監視するだけでは間に合わない、一日中見張る必要がある、そして今は暗器しか持っていない。
ここからならばセナ村まで全力で走れば数分で戻れる、アゼルに事情を伝えてから聖霊教会に戻るのにさらに数分あれば可能だろう、夜になったら聖霊教会に潜入して腰を据えて見張る事にする。
ベルは郊外に足早に移動した、周囲を見渡してから一気に力を解放し全力で走り始めた、しだいに伝令騎兵よりも遥かに早い速度にまで加速していく。
もしベルの姿を目撃した者がいたならば、三編おさげの地味な町娘が馬を遥かに超える速度で走り去る姿を見た事だろう。
『精霊王の息吹』の地下にある魔術ギルド『死霊のダンス』は混乱の最中にあった、ギルドに所属している死霊術師の一人が死亡し、一人が行方不明になったからだ。
それもギルドにとって貴重な中位の術士が同時に二人も。
ジンバー商会に派遣中のクランは熟達の中位の死霊術士で非常に優秀な男と見なされていた。
もう一人のオットーは先日下位から昇格した中位の死霊術士で経験は浅いが将来を期待されている、少々軽率で軽薄な処があったが将来性は確かだった。
死亡が確認されているクランはともかくオットーの姿が見えない、昨晩の新人募集任務に出てこなかったので仕事をさぼったと思われていた。
その彼が朝から姿を見せなかった、親友を彼のアパートに向かわせたが昨晩から帰っていない事が判明した。
「おい、オットーがいそうな場所が解かる者はおらんか?」
ギルドマスターのベドジフが怒声を上げた、彼は今最高に機嫌が悪い。
上位死霊術師の自分を除いて下位死霊術師しか居なくなってしまったのだから。
そこに『精霊王の息吹』側の扉が用心棒の手により開かれた、そこからひっこりピッポが顔を出した、彼はどこか疲れた様な顔をしていた。
「騒がしいですな、何かありましたか?」
「ちょうど良いところに来たな、お前に聞きたい事がある!!」
ベドジフが口泡を飛ばしながらピッポの方に向かってきた。
「はて、何事でしょうかな?」
ピッポはオットーが消えて騒ぎになってると予想していたので動じない、すでに質問されるであろう事に対する言い訳も用意していた。
残念ながらオットーが灰も残さず消滅したのを知ってるのはピッポと犯人のテヘペロだけなのだ。