神の器
その部屋はコッキーが閉じ込められている隠し宿の二階の一室だった、昼食を差し入れに来たピッポが仕事に出かけて、コッキーはまた一人で部屋に残された。
簡単な昼食を食べ終わるとすぐ眠くなる、そのままベッドの布団の上に飛び込む、どうせしなければならない事など無い。
「運動不足であの人みたいになりそうです」
転がりながら体に布団を巻きつけロールする、巨大な巻物がベッドの上に生まれた。
「おやすみなのです・・・おかあさん」
だがすぐに目を見開いた。
「またですか!?」
またトランペットがコッキーを呼んでいる、彼女の体の奥底から湧き上がる欲望が雲のように湧き上がってきた、そしてまた口が魂がそれを求めた。
「ラッパが呼んでいるのですね?すぐに吹いてあげますよ!!」
くるくると逆回転して巻物から解き放たれてベッドの下のひらべったい背嚢に手を伸ばした、金色に輝く小さなトランペットを取り出す。
「また変なのです、でも吹きたいのです」
戸惑いながらもその目は潤み呼吸も激しく鼻息も荒い、彼女の舌が無意識に唇を舐め回した、そしてまた尊い物を捧げ持つかのようにトランペットに口付けする。
それはまるで何かの儀式の様な不思議な仕草だ、だがコッキーにはその自覚は無い。
ふたたびマウスピースに魂の欠片が吸い込まれるような僅かな空虚を感じると、その隙間を埋めるかの様に無形の蛭か蛞蝓のような何かが喉を下って行く。
マウスピースから口を話したコッキーが陶然としながら呟いた。
「私が吸い込まれて、何かが入ってくるのですよ、それが幸せで気持ちいいのです」
うっとりと恍惚とした瞳の底に黄金の光が灯った、そして再びトランペットに口付ける。
トランペットに息を吹き込んだ、妖しげな奏者の痴態にも関わらず、奏でられる曲と演奏はこの世のものではあり得ない程のものだった、現世の音楽家が聴いたならこの少女を天才とみなしたであろう。
だがコッキーは本能と衝動でただ吹き鳴らしているだけだ。
その不思議な曲は力となり広がり、テヘペロが施した防御結界を揺るがしはね返る、その力の波動を彼女は視る事ができた、それは両目で見ると言うよりも、何か別の視点がその波動を見ているような不思議な感覚に彼女は捕らわれてる。
そして前よりもその揺るぎが大きくなっている様な気がした、そして曲がかわる度にその力の性質が変わるのだ、だがそれが何を意味するのかは解らなかった。
(これはなんでしょう?でも綺麗ですね)
そして何曲演奏しただろうか、時々ふと休みたくなり休む、だがすぐに力が湧き上がり演奏を始めてしまうのだ。
いったいレパートリーは何曲あるのだろう?
(いそげ・・)
ふと奇妙な言葉が頭の中で紡がれた、そこで曲が途切れコッキーはわずかに首を傾けた。
だが演奏を再開しようとしてそれが止まる、なぜか部屋の扉が気になる。
すると扉のノブが動き始めた、こんな事ができるのは防御結界を施したテヘペロが許容した人物だけだ。
扉が開かれ一人の男が入ってきた、それはコッキーにも見覚えのある男だ、たしか名前はテオ=ブルース。
部屋を見渡したテオはかなり疲れ果てた顔をしている、コッキーの手元のトランペットを目にして僅かに怪訝な表情を浮かべた。
「お前しかいないのか?」
「テヘペロさんも、おじさんも外にでましたよ」
「そうだ、ああ、お前が知るはずもないか・・」
テオは去ろうと扉に向かう、そして扉を閉めようとして手を止めた。
「そうか、お前に伝言は残せないか」
テオは皮肉に笑って扉を閉めて去って行った。
「ベルさん達見つからないのでしょうか?まさか諦めてどこかに行ってしまった・・・」
見捨てられるのでは?そんな不安も僅かにある、でも魔剣と自分が幽界帰りなので簡単には見捨てられないと思っていた。
そんな打算をする自分に少し嫌悪感をいだく。
でも私が普通の特別な事のないただの女の娘だったらどうだっただろう?
孤児のコッキーを誰が心配してくれるのだろうか?私を心配してくれる人達はリネインの孤児院にいる、家に帰りたくなった。
「あそこももうすぐ出なければならないのですよ、その後どこに行けばいいのでしょう、街の誰かのお嫁さんになるのかな?」
それもこの幽閉から抜け出してからの話だが。
今は不思議なことにコッキーにはあまり焦りも不安も無かった、トランペットを手にしていると心が落ち着き力が涌いてくる。
だが先程のようなトランペットを吹き鳴らしたいと言う強い衝動は過ぎ去っていた、トランペットを背嚢に戻してベッドに腰掛ける。
「本でもないですかね?でもあの人は難しい本しか持っていないですよ、きっと絵本なんて無いですよ」
コッキーはため息をついた。
窓から射し込む日差しもかなり傾き部屋の壁に日が当たり始めていた。
その時ふたたび防御結界から僅かな揺らぎを感じた、だれかが部屋の扉の前にいる、コッキーは部屋の扉を見つめた。
そしてやがて扉のノブが動き始める、コッキーはそれがテヘペロだと直感的に感じた。
「あら、おとなしくしてた?」
部屋に入ってきたテヘペロの顔は紅潮して上機嫌だった、そして大きな布に包まれた荷物を抱えていた。
荷物を解くと清潔そうな小さな白い袋を取り出しそれをテーブルの上に置く、その下から商家の婦人風の衣装と家庭教師か学校の先生の様な衣装が出てきた、それを彼女のベッドの上に無造作に積み上げる。
「これは顔を隠すのにはいいけど、別な意味で目立つのよねー」
誰ともなく語りかける、どこか浮きたつようなテヘペロの雰囲気にコッキーはどう反応すべきか困惑した。
「良いことがあったのですか?悪いことが上手くいったのですね?」
「ええ?大変な発見をしたのよね」
「大変な発見ってなんですか?」
心の中に暗雲が広がり始めた、心を冷静に保たなければとコッキーは身構えた。
「とりあえず、お茶にしましょう」
テヘペロが備え付けの簡素なポットを魔法道具で加熱しはじめた。
そしてテーブルの椅子に座ると反対側の椅子に座るようにコッキーを促す、コッキーはベッドから腰を上げるとしぶしぶとその椅子に座る。
テヘペロはどこから話そうかと悩んでいたようだがやがて語り始めた。
「あなた『風の精霊』の近くでジンバー商会の連中に誘拐されそうになったわね」
「なぜ知っているのですか?テオって人が近くにいたんですね」
「いい線いっているわね、お馬鹿じゃないのね」
コッキーはテヘペロを睨みつけた。
「そんな怖い顔をしないでよ、アハハ、あなた誘拐されて閉じ込められているのに堂々としているわね感心するわ」
「あなたはジンバー商会と関係あるのですか?」
「私達はあそことは関係ないわ・・・話を戻すわよ?」
「あなた達その店で変な錆びた潰れた金属の塊をけっこうな値段で買ったわね?」
「お店の人に聴いたのですか?」
「またそんな顔をして、ええそうよ親切な人でいろいろ聞かせてくれたわ、いろいろとね」
「それがどうかしたのですか?」
「貴方、その金属にかぶりつきそうな勢いだったらしいわね」
「そんな事ないです!!!」
顔を赤くしてコッキーは怒る、だがそこには恥ずかしさも多分にあった。
「あなたのトランペットを見せていただけないかしら」
「ラッパはおとうさんの形見なのです!!」
「とったりしないわ、私の予想が当たっていたら、貴女のトランペットは貴女以外には何の意味も無い物だからよ、取り上げても無駄ね」
「それはどう意味ですか?」
「教えて上げるから、さあ」
コッキーはあのトランペットについて何も知らなかった、そして好奇心が警戒心に勝った。
ベッドの下の薄い背嚢に手を伸ばし小さなトランペットを取り出してテーブルの上に置く。
テヘペロはそれを食い入るように凝視している、その目は普段の彼女からは想像もできない真剣な目つきだった。
これは魔術師としての顔だった、手を近づけるが触れようとはしなかった。
「ほんとピカピカね、錆びて潰れた金属の塊がこれになったんでしょ?」
そしてコッキーを直視した。
コッキーはトランペットについて知りたかったが、この女にそれを教えたくはなかった、テヘペロはそのコッキーの表情から何かを悟ったようだ。
「貴女の顔はホント馬鹿正直ね」
怒りと恥ずかしさで赤くなったコッキーを無視して、テヘペロはトランペットの観察に夢中になっている。
「魔術道具の気配はまったく無いわ、それに新品と同じで綺麗ね、あなたのお父さんの形見といっても信じられないわよ?」
「テヘペロさんこれは何なのですか?」
テヘペロは少し驚いた様に顔を上げた。
「本当に錆びた潰れた金属の塊がこれに変化したのね?それが解らなければ確かな事は言えないわ」
コッキーは悩んだ末につい頷いてしまった、テヘペロは大きなため息をついた。
「いったいどうなっているのかしら?幽界帰りが二人とこれか・・・」
「そうね、たぶん神器かも、貴女には難しいと思うけど、幽界やもっと高次の世界の何者かが何かの目的で現世に送り込んでくる道具の可能性があるかな」
「わけがわからないです」
「貴女の手元に入るのもきっと決まっていたのよ」
「ますますわからないです」
「これが本当に神器なら、貴女が誰かにこれを奪われてもかならず貴女の元に戻ってくるわね、でも試そうとするのはやめた方がいいわ、私の頭がおかしくなったみたいな顔をしているわね?」
「なにを言っているのかわかりません・・・」
「ゲーラの魔術道具屋たしか『精霊の椅子』だったわね、あの時とてつもなく強大な存在が降りて来たのを感じたわ、あれは最上級の大精霊よ、貴女も近くにいたでしょ?」
コッキーはアマリア魔術学院から黄昏の世界に行った記憶をたどる、幽界からかえってきた直後に魔術道具屋の近くで何か大きな力を感じた、今ならもっとはっきりと感じる事ができるかもしれない。
たしかテレーゼの土地女神様だとお爺さんが言っていた事を思い出した。
だがコッキーは頭を激しく横に振った。
「そう、あれ程の存在感にはもう一生出会えないかもしれないわね、あれがなければ神の器の事なんて思いつかなかったかな」
テヘペロはまた食い入るようにトランペットを凝視している。
「この前これに触ったような気がするけど、知っていたら触らなかったわね」
「ねえ、貴女ならこれを演奏できるのではなくて?」
「鳴らないのです」
それは嘘ではなかった、力が湧き上がって来た時だけ奏でる事ができるのだから、今演奏しても音は鳴らない。
それにテヘペロの前で演奏したら幽界帰りである事がバレるかもしれない、今は時間稼ぎをしたかった。
力が少しずつ強くなってきているのだ、あとは自由に使いこなさせる様になれば魔剣を奪い返して逃げる事ができるかもしれなかった。
「ねえゲーラで何が起きたのかしら?仲間があなた達をアマリア魔術学院の廃墟まで尾行して見失っているのよ、あの時はあまり気にしなかったけど今は違うわ」
その時ポットが沸騰し音をたて始めた。
「まあいいわ、お茶にしましょう、お菓子もあるわよ」