蒼き妖精
テレーゼ最南端の南の玄関口と称される大都市リエージュ、そのコステロ商会支店の執務室にリエージュ商工会議所の会頭が顔を出していた。
その男の名はガエタン=オフレ、商工会議所は複数の職工ギルドや商業ギルドの合議制で運営されているが、その会頭ともなると下手な貴族より強い権勢があった。
「ところでコステロ殿は聖女様にはお会いにならないのですかな?」
ガエタン=オフレは50代ほどの柔和な容姿の初老の男で、人当たりの良さと商才で1代でのし上がった男だった、その表情は本心をなかなか現さない事で知られていた。
ちなみにハイネには商工会議所のような組織は無い、そもそもハイネは有力な豪商や各種ギルドの代表や官僚貴族が列席するハイネ評議会に支配された共和制の都市国家だった。
「俺はああいうのが苦手なんだ、暗いところが好きでね、聖女様は眩しすぎるぜ」
それに苦笑しながらコステロが応じる。
これを冗談ととった会頭は笑った、コステロ商会が裏社会の覇者コステロファミリーの表の顔であり、コステロがその首領である事を自ら揶揄したと思ったからだ。
もっとも聖霊教会側でテレーゼの事情に詳しい者がいたならば聖女アウラにコステロを合わせようとはしないだろう。
「聖女様は美しく清らかなお方でした、あの御方の銀の髪は美しく輝いておりましたな」
それにコステロは肩を竦めただけだった。
「しかしコステロ殿はその遮光眼鏡を部屋の中でも外さないのですかな?」
この時コステロの背後に立っていた、長身で整った顔立ちに冷酷そうな鋭利な顔つきの男が鋭くガエタンを睨みつけた。
その残忍で凶暴そうな眼光に会頭は一瞬動じたが、すぐにそれは心の読めない曖昧な表情の中に沈んで行く。
そんなガエタンを睨みつけたのはコステロの右腕とも呼ばれるリーノ=ヴァレンティノだ。
「最近、光に過敏になってな部屋の中でも外さないんだよ」
金の縁の遮光眼鏡に軽く指で触れながら、コステロはにやりと笑いガエタンの疑問に答えた。
「なんと、良い医者に見てもらった方が良いでしょうに」
「それは心配ない治療はしているさ」
「それはよかったですな、しかし珍しい病気で」
「ああ、いろいろめんどうだぜ、昼間は動きにくくなったからな」
コステロは執務机の上に並べられた、煙草の試作品のサンプルの山に目をやった。
そもそもガエタンとの会談はこの新しい嗜好品の事業について双方の頭が話し合あう為だった。
ガエタンは商工会議所の会頭だが自分の商会も経営していた、近年リエージュの山岳に近い地域で煙草を栽培しはじめたが、この男はその事業の中心にいてそれを推進している。
煙草は大陸西方で近年栽培が始まった物だがその出処は不明な点が多い、噂では他の大陸から来たとさえ言われているのだ。
最近コステロ商会はこの煙草の栽培にも手を伸ばそうとしている、各国でソムニの果実への風当たりがきつくなっているため、将来の保険にしたいのだ。
何しろコステロ商会はソムニの果実から生成した物質を諸国の犯罪組織に流し厖大な利益を得ていた。
ソムニの果実は医薬品や触媒などの原料として広く利用されているが、人がそれに手を出すと快楽を得られる代りに深刻な習慣性と中毒作用により廃人になる事から大きな問題になっていた。
このソムニの果実も同じく遥か大昔に他の大陸から渡ってきたと言われている。
コステロ商会はソムニの果実の利権の一部をガエタンのオフレ商会に譲ることで新事業に参画していた。
「いろいろな楽しみ方が考案されておりまして、このような小さな器具に詰めたり、大きな葉を巻いたりなど試行錯誤が進んでおります」
「俺も試して見たがなかなか癖になる」
コステロは紙で巻いた試作品の一本を指でつまんだ。
「そうでございましょうコステロ殿、疲れた時や眠くなった時に良いようで」
「例の物と違い毒性はほぼ無いようですが、習慣性がありますからひとたび普及すれば確実に利益が見込めますよ」
「大腕をふって扱えそうな商材だな、だがな栽培方法はいずれは広がる、流通や加工や販売を抑えないとあっという間に儲からなくなる、こりゃ工夫が必要だぜ」
「それだからこそコステロ殿のお力を・・・」
コステロは葉を巻いた試作品を指で転がした。
ガエタンとの会談も終わり彼は帰っていった、コステロは執務室の椅子に深く腰掛けくつろぐ。
彼の机の上にはいくつかの煙草のサンプルが残されていた。
「たしか午後の予定は?」
リーノの後ろに控えていた秘書官が進み出る。
「午後からの予定はベンブローク公爵のポロ競技の観戦です」
「ああ、おれは一度部屋で休むドロシーを呼べ」
リーノは扉の両側に待機していた侍従二人に目線を投げかけると、侍従の一人が扉から出ていった。
コステロは立ち上がり執務室に隣接する私室に繋がる扉に向う。
彼の私室の中は分厚い黒いカーテンが締めきられ、部屋全体が昼間なのに夜の様に暗かった、魔術道具の照明が赤味がかった黄色い光で室内をほんのりと照らしている。
暗すぎて室内の様子はわかりにくいが、あまり洗練されておらず派手で豪華な調度品で埋め尽くされているようだ、金や銀の金属が薄暗い照明の光を鈍く反射していた。
コステロは私室の壁際の豪奢だが小さなテーブルの前の椅子に腰掛けた。
しばらくすると部屋の扉がノックされる。
「ドロシーです」
どこかそっけない感情に乏しい声が扉の向こうから聞こえてきた。
「入れ」
部屋の扉が静かに開かれ一人の女性がうつむき加減に入ってきた。
その女性は赤い古風なドレスを軽く膨らませたスカートに、赤いつば付きのボンネットを深く被り、黒いレースのベールで顔を隠しているせいで彼女の顔は見えない。
背は女性としては高めだがほっそりとしていた。
「午後から外出する」
コステロが語ったのはただそれだけだった。
「ベンブローク公爵のポロ競技の観戦ね」
答えた声は若い女性のものだがやはり無感情で気だるげだった。
「そう言う事だ」
「わかったわ脱いで」
コステロはスーツのポケットに入っていた物をテーブルの上に投げ出し、スーツを脱ぎシャツも脱ぎ捨て上半身裸になって椅子に座り直した。
鍛え抜かれたコステロの半身が薄暗がりの中あらわになった、体には古い刀傷や刺し傷が幾つも残っていた。
その間にドロシーも赤いボンネットとベールを取り去りっていた。
ボンネットとベールをとりはずした彼女の顔は、暗がりの魔術道具の灯りの元でも肌の色が病的なまでに白い、それは白を通り越して青味すら帯びていた、そして繊細なまでに細く筋の通った鼻、切れ長の目とその瞳はルビーのような赤い輝きを帯びていた。
彼女の年齢は10代後半に見える、髪の色は黒で髪型はボブカット、その芸術的なまでに均整のとれた美貌はアラバスターの人形の様に作り物めいていた。
そしてなによりも目を引くのは彼女の両耳が細く先が尖っている事だろう。
もし伝説に詳しい者が彼女を見たならば太古に滅んだ堕落した妖精族そのままの容姿だと叫んだに違いない。
ドロシーは部屋の戸棚から小さな素焼きの壺を取り出し蓋を開け、しばらく中を覗き込んでから呟いた。
「残りがすくない、私のをわけるわ」
「また奴につくらせるさ」
ドロシーは壺をかかえコステロの側に寄る、テーブルに壺を置くと片手を中に突っ込み軟膏のような白い中身をすくい上げた。
そしてそれをコステロの背中に塗り始めた。
「残りが少ないなら、日に当たる所を重点的にやってくれ」
ドロシーは妖しく微笑むと、コステロの手を握り指や手の甲に軟膏を摺り込み始める、手首から先が終わるとコステロの正面にまわり、コステロの首筋から顔全体に軟膏を擦り込んでいく。
「だいぶ進んでいる」
コステロの頬に軟膏を塗りながらドロシーがささやいた。
「そりゃけっこうだな、お前の手の冷たさが気にならなくなった」
ドロシーは顔をコステロの顔によせる。
「もう後戻りできない」
「わかっているさ」
コステロは手を伸ばしドロシーの頬に触れる、ドロシーは半眼になると舌でコステロの手の平をなめた。
その時彼女の口から白く輝く鋭い犬歯が頭を覗かせる、まるで凶暴な肉食獣の牙のようだ。
それはドロシーの作り物めいた美貌にはあまりにも似つかわしくなかった。
「公爵のポロ観戦に聖女もくる」
「おまえが気にすることじゃねえ、離れているからだいじょうぶさ」
コステロはドロシーの口にテーブルの上にあった紙巻き煙草のサンプルを一本だけ突っ込むと、小さな魔術道具で火を付けた。
少し驚いた顔をした彼女は口をもごもごと動かした。
「辛い」
ドロシーは小さくつぶやいた。