月の光
ベルは上も下も無い奇妙な浮遊感の中で微睡んでいた、ずっとこのままで居たいそんな心地よさに包まれていた。
やがて少しずつ意識が覚醒していく、だが慣れ親しんできた堅い地面と敷布の感触も、粗末な木のベッドの感触も無かった。
中に浮いているような上も下もない頼りない浮遊感に包まれたまま、彼女はおそるおそる瞼を開ける。
虚空に浮かぶ彼女は一糸まとわぬ全裸だったが、不思議とそれを受け入れていた。
そこには何も無く、ある方向から光だけが差し込んでいる。
「僕は死んだの？」
あの光のある方向に天国でもあるのだろうか？
（明るいし地獄ではなさそうだね）
などと呑気な思いに耽っていると、その光の方向に徐々に体が流されていく、その光は例えるならば巨大な鏡の様な丸い平面から放射されていた。
いつの間にかベルの周りに小さな光の珠が浮かび、それは徐々に数を増していく。
やがて小さな光の珠が渦巻きベルの体に入っていった、満たされた安らぎに包まれて行く。
鏡が手の届くところまで流されると、なぜか躊躇いもなくそれに手を触れた、その瞬間その光は失われた。
光が失せた鏡は奇妙な風景を映し出していた。
起伏にとんだ草原がどこまでも広がり、その遥か彼方に森林と大山脈と何か大きな建造物らしき影が遠望できた、草原には奇妙な樹木が疎らに生え、空は黄昏時の様に薄暗く、霧が立ち込めた様に太陽も月も星も見えない。
その景色に嫌な既視感を感じた、思い出したくもない神隠しの時に見た黄昏の世界の風景にとても似ていた。
その世界全体から僅かに遠近感を狂わせる歪みを感じた。
その草原の上を黒い影が移動していく、それは二人の人の影だった、だが影の主の姿が見えない、二つの影だけが地表を這うように移動していく。
その影に不吉な何かを感じた、その影には良く見知った人の特徴があった、それは自分とルディの特徴を良く示している。
周囲の風景は極僅かずつ変化していた、丘や樹木が少しずつ動き形を変化させていく、時々得体の知れない理解しがたい何かが視界を走り抜けた。
その這い進む二つの影はとても親しげだった、小さな影が大きな影に寄り添い、大きな影が小さな影の腰に手を回した。
そのベルとルディに良く似ているが、何かが違う二つの影、その影の動きが妙に淫らで艶かしく、でも・・・
ベルの顔が熱くなり何かを叫ぼうとした。
その時ベルの意識が覚醒した、そして五感が蘇る、湿った土の上にズブ濡れのまま横たわっている自分に気がついた『足が冷たい』足元を見ると両足が水に浸かっている。
少し起き上がると焦げ臭い空気が鼻を突いた、なんとか重い体を起こしフラフラと立ち上がると周囲の様子が次第に見えてくる。
森の樹木が半径５０メートル以上に渡ってなぎ倒され吹き飛ばされ、おまけに火災も発生している、眼の前に直径数メートル程の大きな穴まで生じていた。
その時ベルの記憶が甦った。
「ルディ！！」
周囲を見回すと、すぐ近くで池に下半身が浸かった状態の幼馴染を発見した、慌てて走りより上体を起こした。
「大丈夫か！！ルディ！！」
脈がある事を確認し安心したが、何とか池から引きずり上げようとしたが重い、そこで思い出す『力』を意識したとたん、今度はいとも簡単にルディを引きずり上げる事ができた。
「起きて！！」
頬をペチペチと軽く叩く。
やがてルディの意識が戻り目を覚ました。
「ベルか？無事なようだな」
「動ける？」
「なんとか」
周囲の森の惨状を確認したルディが大体の状況を察したようだ。
「これは酷い、あいつの仕業か？」
「あいつが爆発したんだと思う」
「派手な爆発に火事まで起きたか、ここにも追手がくるな」
「ルディ、キャンプまで戻ろう、そこで休息を取らないと、このままでは戦うことも逃げる事もできない」
「火事は大丈夫なのか？」
「東南からの風だ、火事は北西に向かいそうだね」
ルディは愛剣を探していたが、近くに沈んでいるのを見つけ鞘に戻す。
「池の深いところに落ちなくて助かった」
本当に心の底から安堵している風情だ。
「こいつは俺の三本目の腕の様なものだ」
ベルはボルトの街の下品な荷物運びの冗談を思い出して微妙な気分になった。
「おお、良かったね」
疲れ切った二人はノロノロとキャンプ地に向かう、ルディの消耗が酷くベルは時々後ろを振り返る。
公都からの逃亡と追跡部隊との交戦、バーレムの森を長時間移動、召喚精霊との激闘をくぐり抜けた。
睡眠も休息も十分とは言えずその疲労は頂点に達していた。
途中で敵の切れた尻尾を見つけたが、ベルはこれは便利そうだと持ち帰る事にした。
グリンプフィエルの猟犬の襲撃に踏み荒らされたキャンプに戻り、ベルはふたたび火を起こす、歪んだハンガーを何とか組み立て直して湯を沸かし始めた。
「焚き火に当たって、体が冷えるとまずい」
ベルはロープを焚き火の上に張り始めた。
「追手が来る危険は無いのか？」
「僕たちは今日の２時前には狩猟小屋から出た、暁方にボルトの街から部隊を出したとして、かなりの距離が開いているはず、それにもう限界だよ今は休息を取るべきだ」
「今はとにかく休息をとるか」
「服を乾かすから服を脱いで、乾くまでこれに包まって」
ベルは野営用の敷布をルディにわたす、今日の戦闘で更にボロボロになった上着をベルに渡し、敷布に包まった。
「下も乾かすから脱いで」
ルディは驚いたが、敷布にくるまりながら、大人しくズブ濡れの長パンツを渡す。
「とにかくそのまま横になって休んでいて」
ベルはさっそくロープにルディの衣服を吊しはじめる。
「ベルと出会わなければ死んでいたな、ありがとう」
ベルは照れたがその顔を見せたくなかった、ルディに背中を向けて手を動し続ける。
そして今度はベルが着替える番だった『こっちみるなよ』と軽口を叩こうとしたが、何時の間にかルディは寝転がったまま向こうを向いていた。
それでも気恥ずかしく、近くにある大きな木の後ろ側に隠れて服を脱ぎ始める。
狩猟にはスカートは不便なので、ベルは膝下までの短パンツに長い革ブーツを組み合わせていた。
それらを下着を含めて総て脱ぎ去る。
僅かに木々の隙間から差し込む月の光が全裸のベルを照らし出していた。
彼女は自分の顔が浅黒い事を密かに気にしていたが、その体は月の光の下で青白く輝いていた、そのくびれたウエストからヒップへの柔らかな曲線はもう彼女が少女では無いことを主張している。
だがそれを眺めていたのは夜行性の小動物と樹液に集まる甲虫だけだった。
替えの下着を履き敷布に包まりながら、焚き火にもどってきた。
「お待たせ」
ロープに自分の衣服を吊るし始める。
「さてそっちの傷を見よう」
だがルディから返事がない、一瞬驚いたが覗き込むとルディは既に眠りに墜ちていた。
ベルはしばらく焚き火の前で体を温めながら、先程見ていた不思議な夢を思い返し、向こう側を向いて眠りに落ちている幼馴染の背中を見つめていた。
やがて不覚にも彼女もまた眠りに墜ちていった。
再び目が醒めたのは、焚き火の炎が消え、肌寒さを感じ始めた時だった。
