聖女アウラの帰還
テレーゼの南の玄関口と呼ばれる都市リエージュ、そこはテレーゼ王国の王家の流れを汲むベンブローク公爵の本拠地でもある、晴天に恵まれ風光明媚で山脈からの川の流れが大地を潤し豊かな農地が広がっていた。
ここも内乱状態のテレーゼの中では比較的安定し平和だった。
ここから南エスタニア山脈を越えアルムト帝国の帝都ノイデンブルクまで続く街道が延びていた、ノイデンブルクまで馬車の旅で五日程の行程になる。
そのリエージュの聖霊教会でテレーゼの巡見使の大任を終えた聖女アウラの一行が旅の疲れを休めていた。
聖女アウラはリエージュ教会の貴賓用の特別室をあてがわれていた、貴賓室は王族や高位の貴族や聖職者を宿泊させる為の部屋で使われるのは数年ぶりらしい。
華美を抑えていたが質の良い調度で整えられた部屋はアウラを落ち着かせた、最近彼女は贅沢な部屋に慣れてきたが庶民出の彼女には心が休まる。
アウラは城郭の様な聖霊教会の貴賓室からリエージュの町並みを見下ろす。
「いやだわ、またいやな世界に戻っていくのね」
その言葉を聞くものはここにはいない。
初めてアルムトから最初にテレーゼ入りしたのもリエージュだったが、この時はベンブローク公爵の居城に招かれて盛大な接待を受け城で宿泊した、だが政治的な配慮から帰路はリエージュの聖霊教会に宿泊する事になった。
ベンブローク公爵は大任を果たした巡見使を城に迎え入れたかった様だが、もう一つの有力勢力のヘムズビー派への配慮からこのような形になったとアウラはご師匠様から説明を受けていた。
「アウラ様よろしいでしょうか」
アウラの物想いを打ち切る様に貴賓室の扉が軽く叩かれ、続いて若い少女の声が使用人控室の扉の向こうから呼びかけてきた。
「おはいりなさい」
部屋の中に静かに入ってきたのはアウラの身の回りの世話をしている若い修道女のファナだ。
「アウラ様、送迎使節のサンダリオ司祭様がご挨拶にまいられたいそうです、お会いになられますか?」
「サンダリオ司祭様ですか?・・・わかりましたお会いするとお伝え下さい」
「かしこまりました、そうお伝えいたします」
どうやら聖霊教会の送迎使節から使いが来たらしい、リエージュにはノイデンブルクの大聖霊教会から聖女アウラを迎える為の送迎使節が来ていた、アウラは帰路は彼らと共にノイデンブルクに帰還する予定だった。
送迎使節の代表のサンダリオ司祭とは昨晩この聖霊教会で顔合わせをすませていた、だが昨晩は公式的な型通りの挨拶を交わしただけで巡見使団の者はそのまま休息をとっていた。
テレーゼ巡見使の大任を果たした今、いよいよアウラを大聖女に押す運動が本格化していくだろう、その動きがさっそく始まった予感からか気が重くなる。
僅かにアウラの表情が曇った。
すぐにファナが戻って来る。
「ご使者にお伝えしたしました、これから整えいたしますので失礼を」
「ありがとうファナ」
ファナがさっそくアウラの身だしなみを整え始めた、聖女は貴族の令嬢ではない、華美な装飾品も衣装もないが最低限身なりを整えなければならない。
修道女は本来聖霊教の聖職者だが技能を持ったものを聖職者として仮に召し抱える事もある、ファナもアウラのような特別な身分の女性の聖職者を世話するために、本職の高級使用人から準修道女として召し抱えられた一人だ。
今は非番だがファナともうひとりの世話役の修道女がアウラにつけられている、もちろん彼女達は聖霊教の修道女としての基礎教育を受けているのだ。
今日は来客の対応で隙間なくスケジュールが決められていたはずだが、サンダリオ司祭はアウラの僅かな休息時間に割り込んできた、うんざりした表情をアウラは浮かべたが彼を無碍にもできない。
「アウラさまお支度ができました」
「ごくろうさまですファナ」
ファナは丁寧に頭を下げた。
そこに別の修道女がサンダリオ司祭の来訪を告げた。
「せわしないお方ですね」
ファナが独り言の様な小さな声で呟いたのをアウラの鋭い耳はひろっていた。
やがて貴賓室のドアがファナにより開かれると、送迎使節団のサンダリオ司祭が扉が開くのを待ちかねていたかのように部屋に入ってきた。
アウラはそんな彼を立って出迎える。
サンダリオ=シメネス司祭は将来を渇望されている若い優秀な男で、痩せぎすの神経質そうな長身で、黒い髪と浅黒い肌をしていた、醜男ではなかったが平凡な容姿で目立たない、だがその目が高い知性を物語っていた。
だがアウラを前にするとその目の輝きが変わる、アウラはその意味をあまり理解していなかったがファナは僅かに警戒を強める。
「アウラさまこの度の巡見使大任のご成功、我が身の事の様に喜んでおります、アウラ様の声望がさらに高まる事と存じます、本教会の枢機卿の方々もアウラ様が大聖女としてふさわしい事を認めざるをえないと愚考いたすところです、私は」
サンダリオは挨拶もそこそこに話が止まらない。
アウラはまだ一言も言葉を発していない、アウラの眉が僅かにハの字になる。
「サンダリオ様もお久ぶりです、昨晩はほとんどお話はできませんでしたが・・・お元気そうでなによりでした」
「いえ私ごときにはもったいないご配慮、アウラ様の困難な巡見使のお役目にくらべれば、私のこの度の任務など子供の遊びにすぎません」
アウラは僅かにため息をついた。
「私が大聖女になるなんて、まだそれにふさわしい実績も上げておりませんのに」
アウラの本心としては聖女すら本当は成りたくなどなかった、学問と研究とに人生を捧げたかったのだから。
そして自分が聖女にふさわしくはないと常に思っていた。
許しを得たかったのはアウラ自身だったと言うのに、聖霊教の頂点ともいえる三柱の聖柱の一たる大聖女など畏れ多すぎる。
「いいえアウラ様が大聖女におなりにならずば、あの破廉恥なる狂女のアンネリーゼが大聖女に」
「口を慎みなさい!!!」
アウラが大きな声で叫んだ、アウラがここまで強い言葉を使う事など今まであっただろうか?
ファナが驚きに目を見張り固まった、非常に優秀でお人好しでそれでいてどこかせこくて抜けたところもあるアウラをファナは好きだった、天才的な魔術師にして絶世の美貌の彼女の身近にいると彼女の素顔に触れる機会も多いファナにしかわからない事だ。
そのファナもここまで激しい態度をとったアウラを見たのは初めてだった。
サンダリオ司祭も興奮のあまり軽率では済まされない発言をした事に気付きその顔色がたちまち青くなる。
「司祭!!それがいやしくも聖女に対する言葉ですか?」
「もうしわけありません言葉が過ぎました、ですが」
アウラが更に厳しい視線を送るとサンダリオは口をつぐむ。
アウラはまだ会った事の無い聖女アンネリーゼを想った、聖霊拳の達人で幽界への道を開いた史上最強の女性と謳われる聖霊拳のグランドマスター。
数多くの逸話を残し凶悪な犯罪者や暴君から善良な良民を救い、庶民からの圧倒的な人気と知名度を誇っていた、わずか20代半ばにして生ける伝説だった。
それだけならばまだ良かった、普段の彼女は聖霊拳の古式にのっとり最小限の物しか身に着けていないと言われている、それゆえ彼女の異名の一つが『裸の聖女』だった。
破廉恥とはその事を指しているとアウラにも理解できた、拳で悪を懲伏し武神と言われるまでの行動をして狂女と呼ぶ者たちがいる事も知っていた。
だが破魔の聖女の顕現と見ている人々も多く、それが彼女の人気をさらに押し上げていた。
破魔の聖女は聖霊教唯一の公認のエロスなのだ。
当然それが気にいらない者も多かった、だがそんな者たちも彼女を目の前にすると圧倒され威圧され何も言えなくなると言う。
肉体美の極地に到達したその美と彼女の覇気に打ちのめされてしまうらしい。
アウラは周囲が勝手にライバル視している聖女アンネリーゼに会ってみたくなった、狂女ではなくとも奇人には違いないとアウラも思う。
「私は未熟な若輩者、長らく研鑽を積んだ末にそう認められるのでしたらともかく、あまりにも軽率な発言と考えますわ」
「もうしわけございません、ですが多くの心ある者達の心に秘めた思いなのです」
そこにファナが割って入った。
「アウラ様、そろそろお客様がお見えになられるお時間です」
「サンダリオン司祭、もうしわけありませんが、来客の時間ですお引取り願います」
まだ何かを言いたげだったが彼は貴賓室から退去していった。
ふたたびアウラはため息をついた。
「ファナお客様はたしか?」
「まもなくリエージュの商工会議所の会頭さまが見えられます、20分後でございます、アウラ様しばらくお休みくださいませ」
「そうだったわね・・・」
今日一日隙間なく来客がここを訪れる、そして夜は公爵の館で晩餐会の予定だった。
アウラにとってはテレーゼの巡見使の任務の方が遥かに気が楽だった。
アウラにとってベンブローク公爵もヘムズビー公爵も不愉快な俗物で信用も好意も抱けなかった、それでも彼らは足が地についていたと思う。
テレーゼは無数の悪や善に満ちていたが、そこには命をかけた人々の営みとその凄みに満ちていた。
アウラは古き大国アルムト帝国の象牙の塔の中枢に戻らなければならない、聖霊教の中枢である大聖霊本教会が聖女アウラの帰りをまっている。