白と灰色の世界
ルディとアゼルはその深い通路に踏み出した、だがアゼルはふと後ろが気になり振り返る。
「殿下!!あの魔術師が」
ルディもつられて振り返って驚いた、あの魔術道具屋の部屋の中から老魔術師の姿が消えていたのだから、そしてドアがゆっくりと閉じられて行く。
思わずアゼルはルディを見やった。
そしてアゼルは小声で何か詠唱を唱え始めた。
「・・・『風精の小さき御盾』」
「どうしたアゼル!?」
「魔術が使えるか調べました、下位の物理防御の術です、むしろ精霊力が強くなっています」
「そうか進もう」
「そうですね、進むしかありません」
アゼルの肩の上のエリザが怯えて震えている。
「エリザベス私から決して離れないでください、いいですね?」
アゼルは優しくエリザを撫でてその小さな生き物を落ち着かせた。
ルディは真っ直ぐ前を向いて歩きながらアゼルに語りかけた。
「あの御方はかなりの高位の術者のように思える、我々の事を随分と良く知っている様子だった」
「そうですね」
「あの愛娘殿はまさかな?」
「ええ、もしかしたら、もしかしますかね殿下」
「正体を明かしたく無いようだがな・・・」
その時、なにか大きな虫が羽ばたくような音が鳴り響き、親指程の大きな甲虫が二人の廻りを跳び始めた。
「なんだ!?ゴキブリか?」
ルディが迷惑そうにそれを追い払おうとした。
『馬鹿者!!玉虫じゃ!!』
二人はその声に驚き固る、その甲虫はそんなアゼルの胸に悠々と止まった。
「まて今の声は!?」
「先ほどの大精霊の愛娘なお方の声に似ていますね殿下」
二人は歩みを止めてその奇っ怪な甲虫を詳しく観察する。
アゼルの胸に止まったその甲虫は磨き上げた金属の様に美しく緑色に輝いていた、僅かに見る角度が変わるとまるでオーロラの様に色が変わる。
その甲虫は通路の正体不明な光を受けてそれは不思議な光沢を放っていた。
「美しい虫だな、こいつの殻を使った宝飾品があると聞く」
ルディは感じ入った様に称賛した。
「たしかに美しい虫ですね」
『そうじゃろ、そうじゃろ』
「この声はやはり愛娘様ですか?まさか虫に变化できるとは!!」
『そんなおおそれた事など儂でもできんわ!!玉虫を使ってお主達を監督するのじゃ』
「なるほど玉虫になったわけではないのか」
ルディは深く感じ入った様に玉虫を観察している。
『儂は時々こちらを見に来る、お前たちも早く進むんじゃ、ではまたの』
「愛娘様!?」
アゼルが呼びかけたが虫はもう語る事は無かった。
「アゼルよ行こう」
諦めた様にルディとアゼルは再び通路の奥に歩みだす。
その通路は果てしなくどこまでも続いていた、周囲の様子が変わらないので同じところを回っているだけなのではないか?そんな不安が次第に膨れ上がっていく。
「いったいどこまで続くのだ?」
「殿下、我々は本当に前に進んでいるのでしょうか?」
「恐ろしい事を考えるなお前も、まあ俺にも似たような経験がある」
「もしや神隠しですか?」
「そうだ」
アゼルは後ろを振り返り進んできた通路の奥を確認した、玉虫は先ほどから沈黙を保ったままだ。
「いやアゼル、前の方に何かが見えるぞ?」
ルディが言うとおり遥か先の通路の先が白く明るくなっているのだ。
「ええ、たしかに、あれは出口でしょうか?」
「まだわからん」
それでも単調な旅に変化が生まれた事で不安が和らいで行く。
二人はその白い光に向って確実に進んでいく、やがて長い通路が終わり二人は外の淡い光の中に踏み出して行く。
「なんだ、ここは!?」
ルディは呆然として周囲を見渡した、アゼルもまたその眼前の光景に声も出なかった。
地面は白い硬質な滑らかな石材の様なものが敷かれていた、幾何学的に切り揃えられた石組みは極めて高い技工を思わせる。
その先は広大な雲海になっていた、その雲海は地平線まで広がりまるで大洋のようだ、だが雲海の下に谷があるのか川があるのかまったくわからない。
そして目の前に巨大な吊橋の柱がそそり立つ、その柱の巨大さはハイネ城の四本の塔の数倍の高さがあるだろう、吊橋の幅は馬車が20台並べられる程にまで広い。
その吊橋は全くたわまずに遥か彼方の対岸まで水平にまっすぐ伸びていた。
よくよく観察すると対岸は雲海に浮かぶ大きな島のような陸地だと理解できる、そして空には薄い霧がかかっていて青い空も太陽も見えなかった、まさしくそこは白と灰色の世界だった。
ふと灰色の空を見極める為に真上を見たアゼルが叫ぶ。
「殿下!!真上を見てください!!」
灰色の雲が丸く切り取られた様に大きな穴が空きその彼方が見えたのだ、もし青い空か星空が見えたのならば驚きはしなかっただろう。
そこに見えたのは空でも宇宙でも無かった、灰色がかった緑の大平原と点在する林と森、黒い水を湛えた池や湖そして山と山脈、そこには大きな建造物や都市のようなものすら見えたのだ。
それは高い空から鳥が地面を見下ろしたかの様な壮大な光景だった。
ルディが声を飲む。
「黄昏の世界、あれは幽界だ!!」
「あれが幽界ですか・・・ではここは?」
『やっと通路を出たようじゃな』
そこに割り込むように再び玉虫が話し始めた。
「愛娘殿か?あれは幽界だな?」
ルディは灰色の雲が丸く切り取られた様な穴の向こうの世界を指した。
『お主は話がはやいその通りじゃ』
「ではここは幽界なのか?」
『ここは現世と幽界の狭間の世界じゃよ』
そしてアゼルは尋ねる。
「この先には何があるのですか?」
アゼルは広大な雲海の彼方の橋の対岸を指差した。
『お前達に見せたい物があるのじゃ、うむ時間切れじゃな、またくるぞ』
「あの愛娘様!?」
アゼルが呼びかけるがもう玉虫は何も答えない。
「アゼルよ橋を渡ろう、先に進むしかあるまい、この先何が起きるかわからんがな」
アゼルはそれに無言で頷いた。
だがルディは直ぐに足を止めた、ルディは吊橋の巨大な柱を見たまま動かない。
「アゼルあの柱の影を見ろ」
吊橋の二本の巨大な柱の影がそれぞれ別の方向を指している、まったく別方向ならばすぐ気が付いただろうが、それは微妙に狂っていたのだ、そしてアゼルは自分の影が気になりつい足元を見てしまった、二人の影もまた微妙に方向が狂っていた、そしてなぜかその影に例えようの無い違和感を感じた。
「たしかに影の方向が違いますね、バラバラですが光源はどこにあるのでしょうか?」
太陽は見えず霞か雲に覆われた空、その霞の向こうは幽界の大地のはずだ、どこから光が来ているのかすら理解できない。
「そうだ例のダガーを見てくれ」
アゼルが懐から取り出したそれは、だいぶ刃こぼれが進んでいた、それでも全体の五分の一も失われてはいないだろう。
「残りに注意を払う必要がありますね」
「頼むアゼル」
ルディが後ろを振り返ると二人が出てきた通路が見えた、巨大な灰色の岩を通路の形に撃ち抜いた様な作りだ、いかなる匠がこれを成し得たのか見当もつかなかった。
「とにかく行こう」
二人は雲海に架かる巨大な橋を渡り始める、雲海の下に何があるのか確認しようとしたが、雲の隙間すら見当たらなかった。
その橋は磨き上げられた硬質の石材の様な物質で造られていた、近づくと路面には小さなゴミの様な物がいくつも落ちている事に気づく、それは黒い漠然とした形をした物体で輪郭を把握する事ができなかった。
見極めようと凝視すると却って輪郭が掴めなくなるのだ、だが視界の隅に寄るとそれが不吉な何かの形を成そうとする、まさか視界の外で形を成しているのではないか?ルディはそれに思いつき例えようのない不安を感じた。
「アゼル、あのゴミには触れるな、意識もするな」
「殿下もですか・・・・・わかりました」
二人はいつしか路面のゴミを意識しないように努めていた。
ルディは先ほどから無言で進んでいる、アゼルは彼が神経を研ぎ澄ませ異変に備えている事が良くわかっていた。
その時雲海のはるか向こうで何か黒いものが矢のように雲海を突き抜け空に登っていくのを見た。
空を見上げるとその何かは真っ直ぐに凄まじい速度で登って行きやがて見えなくなった。
ルディとアゼルは思わず顔を見合せる、だがそのまま二人は無言で橋を進む。
「またです!!あそこです」
アゼルが指差した場所から同じ様に黒い何かが矢のように空に向って登って行く。
「確かに、しかしあれは何だ?」
「遠くてわかりませんね」
二人の中で知らないほうが良いと直感が警鐘を鳴らしていた。
その時、橋のすぐ近くからその黒い何かが飛び出したのだ、それも同じ様に矢のように空に向って登って行く。
二人からはもはや言葉も無かった、その黒い何かは人の形をした半透明の黒い霞のようなわだかまりだったのだから。
「急ごう!!」
ルディは一刻も早くこの橋を渡りたかった、アゼルも同様にここからできるだけ早く去りたかった。
二人は足早に進み始める、その間にも雲海から黒い影が飛び出しては空に向って矢の様に登っていく。
「あれは登っているのではない、落ちているのでは無いか?」
ルディが誰ともなく呟いた、アゼルはその推測が正しいのでは無いかと密かに賛同した。
ここは上下逆さまの世界なのではないか?二人はそう理解しはじめていた。
橋は常識を越えるほど巨大で長かった、対岸までどのくらいあるのかも定かではない、それでも対岸の岸が大きく見え始めている、橋の終わりが近づいているのは確かだった。
その時突如ルディが警告を発した。
「何だあれは!?アゼルあれがわかるか?」
その言葉から彼の緊張が伝わって来た、アゼルもその異型の物に直ぐに気が付いた、二人からかなり離れた橋の上にそれは居た。
ルディはここに来て初めて剣を抜いた、そして剣が『無銘の魔剣』で無い事を悔やんだ。
それはゆっくりと橋の上を二人の方に向って来る。