大精霊の愛娘達
コッキーは尊い物を捧げ持つようにトランペットに口付ける。
マウスピーズに魂の欠片が吸い込まれるような僅かな空虚を感じた、その隙間を埋めるかの様に無形の蛭か蛞蝓のような何かが喉を下って行く。
それは胃の奥で背に向い、そして二つに別れ背骨の中を這いずりながら昇り、一方は尾骨に向って下っていく、それを感じた時に全身に戦慄が走り総毛立った、そして遥か大地の深きところから大いなる力が湧き上がり彼女の体を満たしていくそんな感覚に襲われる。
「ふー」
大きなため息を吐く、コッキーの瞳の奥が得体のしれない光を帯びはじめていた。
そしてトランペットに息を吹き込む、先日の夕刻にハイネを見下ろす丘の上で演奏して以来だった、まず試しに音を鳴らしてみた、そして感じたのだその音が力を帯びて広がって行くのを、コッキーはそれに子供の様に歓喜した、もはや力に対する不安は完全にかき消えていた。
コッキーは思ったテヘペロが音精遮断をしているこの部屋なら思う存分吹き鳴らす事ができると。
だがここにアゼルがいたら何が起きるか予想できないからと辞めさせたに違いない、アゼルはこのトランペットが並の魔法道具とは一線を隔した神器と言ってもよい未知の不確定要素の塊だと知っていた。
上位聖霊の中でも更に高位のテレーゼの土地神エンヤと縁がある遺物と知っていたのだから。
それは黄昏のハイネの東の丘の上の演奏会で奏でられた曲目と同じだった、この世界の人々が聞いたこと無き不思議なそれでいて魂を打つ旋律だった、自分がなぜそんな曲を知っているのか、なぜ演奏できるのかは解らない。
だが次から次と新しい曲が始まりその独奏会はいつまでも終わらなかった。
その総ての音が力を秘めていた、その音は防護魔法にぶつかり波を打たせ、そして防護魔法の形までもがそれではっきりとわかる。
その力の一部が反射し戻ってくる、その力が心地よくコッキーは微笑んだ、悩みも心の苦しみもどこかに消えていくそしてさらなる力が湧き上がってきた。
だが突然それは終わった、トランペットから前触れもなく力が去ったのだ。
「どうしたのですか!?」
慌てたが何が起きたのか理解できなかった、まるで体の一部が消えた様な、見捨てられた様な深い喪失感に襲われた、コッキーの心は悲しみに満たされてあふれた。
その時防護魔法が揺らぎそしてドアが開く。
ドアの隙間から顔を覗かせたのはピッポだった、彼は木のトレイにパンと火で炙った干し肉と水の入った木製のカップを載せている、彼はコッキーの昼食を持ってきたのだ。
そしてコッキーの頬を滂沱と流れ落ちる涙に気が付いて訝しげな表情を浮かべる。
「私も今から外出しますので、良い子にしているのですぞ?」
トレイをテーブルに置くとそのまま出て行く、最期にコッキーを振り返り何か言いたげだったがそのまま出ていった、そして静かにドアは閉られた。
コッキーは閉じられたドアから力の波が広がり防護魔法の形をなぞるのをただ眺めているだけだった。
ハイネ城の西側の広大な敷地を占めるのはハイネ魔術学園だ、かつてはゲーラのアマリア魔術学院が周辺地域では最高峰の学問の府だったが、今はアルムト帝国の帝国中央魔術学院にその座を明け渡している、この学園はそのアマリア魔術学院の後継と言う事になっていた。
その前を通る通りは通称学園通りと呼ばれる街路だ、ちなみに正門から南に向う街路沿いには魔術道具屋などが集まるが、そこは通称魔術街と呼ばれている。
その学園通りを魔術学園の正門に向って東に歩む二人がいた、それはルディとアゼルの二人だ。
「思ったより立派な研究所だったな」
「殿下、私的な魔術研究所としてはハイネでもっとも充実しているそうですね」
今日はセザール=バシュレ記念魔術研究所を外から眺めただけだ、今回は場所を把握するだけで深入りはしない。
「さて魔術街でハイネの地図でも買おうか?」
「中古で良い地図があれば良いのですが、はてあそこに店がありましたか?」
「なに?」
そこには奇妙な古い建築様式の魔術道具屋が佇んでいた、これほど目立つ建物を見逃していたとは俄に信じられなかった。
「来る時にあれに気がつかなかったのか?」
「あれは100年以上昔の建築様式ですね」
アゼルの肩の上のエリザが小さく震えた。
二人はその魔術道具屋の前に立ち店を見上げた。
ルディは突然に緊張を強めアゼルに警告した。
「まて、アゼル廻りをよく見ろ!!」
アゼルが言われるまま周囲を確認する、たしかに通りに人がまったく居ないのだ。
先ほどまで多くはないが往来には人がいた、それがまったく影も形もない。
「これは!?」
「近くにあった人の気配が急に一人を残し消えた・・」
「私以外に誰かいるのですか?」
「そうだこの店の中だ」
二人は改めて周囲を観察する、人がまったく居ない無人と化した街、だがそれ以外は何も変わっていなかった、昨日までの薄曇りから一転して青い空に白い雲が高い。
眩しい陽射しが魔術学院の緑の樹々に映えている、だがそこにはまったく生き物の気配がしなかった、先ほどまで聞こえていた小鳥のさえずる声も絶えそこにはただ静寂があるだけだった。
二人はしだいに不安と忍び寄る恐怖を感じはじめていた。
「中に入ろうアゼル、何か答えが得られるはずだ」
「わかりました」
奇妙な古い建築様式の魔術道具屋を改めて見る、店の軒には風格のある看板が下がっていた。
『大精霊の愛娘』と銘をうたれている。
ルディは店の扉を押し開くが特に旋条もされておらず抵抗もなく開きドアが僅かに軋んだ。
そしてお馴染みの魔術道具屋の臭いが入り口に押し寄せる。
一歩中に踏み込んだがそこで止まる、予想に反して店の中に丸テーブルが置かれ、そこに非常に歳長けた魔術師の老女が座っていた。
「よく来たな、ある意味まっておったと言えるかもしれぬわい」
彼女は意味が掴みきれない言葉を発した、その魔術師の老女の声は予想に反し力強く力に満ちている。
テーブルの廻りには椅子が無いため二人は立ちっぱなしだ。
「あまり時間はとらせんから立ったままそこにおれ」
アゼルは少しむっとした、自分はともかくルディガー公子だけでも座らせたかったのだ。
「坊や、懐の中の例のものをだすのじゃよ」
「貴女は何者ですか?」
アゼルは当然のように無礼な魔術師の老女を誰何する。
その老魔術師は特に代わり映えのしない魔術師のローブを纏っているがお約束の三角帽はかぶっては居なかった。
そのローブも見るものが見れば時代遅れどころか古風な様式の魔術師のローブだと理解できる、それも極めて身分の高い者が身につける事が許される様な特殊な材質のローブだ。
背はそれほど高くない、髪は白髪になっており肩で綺麗に切りそろえていた。
だがその濃い青い瞳は強い力に満たされ、鼻筋や顔の線などから若い頃は美しかったかも知れない。
ルディとアゼルはこの老女がかなり強力な魔術師である事は感じ取っていたが、どれほどまでの力があるかまでは解らない。
「いいか耳をかっぽじって良く聞きやれ!!」
何か著名な大魔術師の名前がでるのかとルディとアゼルは身構えた。
「ワシはなあ、はて・・・・忘れたわい」
悪戯ぽい笑みを浮かべて老女魔術師はふざけた答えを返した。
気不味い沈黙を払うように老魔術師は咳払いをした。
「刻は無限では無い、はやく懐の中の物をだすのじゃ」
アゼルはその時何かに気が付いた様にその表情に驚きの色を浮かべた。
懐に手を入れて魔術の力を封じ込めた繊維で編まれた布を取り出す、それをテーブルの上に置いて開いた。
「それは俺とベルが見つけたダガーでは無いか!?」
その中からラーゼでルディが見つけた黒いダガーが現れる。
「どこの馬鹿がこうしたのかは知らぬが、この様な形になっておったとはの」
感慨深げに老魔術師はそれを手に取り上げた。
「それはいったい何なのでしょうか?」
アゼルの態度からその老魔術師に対する敬意が感じられた。
「幽界と現世を繋ぐ橋、道でもかまわんが、その踏み台になりうる物じゃよ」
彼女の言葉は二人にもしかしたらと思っていた推理に確信を与える内容だった。
「お主らにはどうやらいろいろ思い当たる事がありそうじゃな?」
ルディが大きくうなずいた。
「これがあれば、精霊召喚を容易にできる様になると言うことでしょうか?」
アゼルは乗り出すように老魔術師に迫る。
魔術師の本能か貴重な知識の入手の機会にめぐりあえて興奮しているのだ。
「太古の時代には幽界の住人が現世に今より遥かに容易に顕現できたのじゃ、魔術師共がその秘密を明かそうと2000年にわたって追い求めてきた」
「この物質が太古の昔には今より多く存在したと言うのでしょうか?」
「まあ、そんな理解でもよい、こいつは他にもいろいろと使いみちがあるのじゃ」
「しかし貴女は名のある魔術師なのではありませんか?」
アゼルが老魔術師に向って身を乗り出して迫る。
「むむ!?ところでお主なかなか良い男じゃの?」
再び気不味い沈黙を払うように老魔術師は咳払いをした。
「そうじゃった、こんな事で時間を潰してはおれん、お前達を呼んだのは見せて起きたい事があったからでな、他の者も呼びたかったが贅沢は言えん、わしは今はいろいろ不自由な身でな、僅かな機会を造ったのだ」
その老魔術師は立ち上がりテーブルの上のダガーを手にとった。
「僅かな機会とは?」
「この黒いダガーを踏み台にして結界を繋いだ、すでにこいつが僅かに欠けているじゃろ?こいつを消費しつくす前にお前達に見せておきたい事がある」
老魔術師は店の奥に向かい、二人について来るように手招きする。
そして奥の風格のあるレリーフで飾られたドアを開く。
ルディとアゼルはその廊下の奥を見て息を飲んだ、その薄暗い謎の光で照らされた廊下は遥か彼方まで伸びていたのだ、そのはては見えない。
「これを持っていけ、これが無くなる前にここまで戻って来いよ」
その老魔術師はその黒いダガーをアゼルに渡した。
「これを持つのはお主の方が良いじゃろう」
「俺の剣が必要になるという事か?」
ルディは何かを感じたように老女を見つめた。
「まあ、そうなりそうじゃな、そのナマクラで何とかするのじゃ」
腰に佩いたベルが買ってくれた長剣に目を走らせる、良品だが魔術道具ではない普通の剣だ、ルディは何か嫌な事を聞いてしまった様な顔をした、だが直ぐに気を取り直した。
「しかし貴女はいったい?」
「すまぬのう真名はいろいろあって教えられん『大精霊の愛娘』とでも呼んでくれ」
ルディとアゼルは愛娘と言われる齢では無いだろうと心の中で突っ込みを入れたがそれを顔に出したりはしなかった。
ルディとアゼルは顔を見合わせると廊下に一歩踏み出した。