森の逃亡者
黄昏の森を一人の男が息を切らせながら駆ける、その後ろから武装した追手達が追いすがる。
逃げるのは長身で頑強な戦士らしく鍛え上げられた男、手傷を負っているのか肩で息をし苦悶の表情を浮かべている、だがその目を見る事ができるなら今だに闘志と希望の光を失っていない事が判るはずだ。
普段着のまま飛び出して来たのか、元は上等な仕立てであろう平服は血で汚れぼろぼろになっている。
走り続けていた男が突然足を止めた、追手の一人がそれに誘い込まれ飛び込んできたところを、その剣を躱しながら長剣で一気に切り捨てる。
その剣筋は流れるように流麗で美しい。
「グワッ!!」
追っ手の一人は短い断末魔の叫びを上げ倒れ伏す、男は返り血を浴びながら再び走り始めた、だが突然目の前が開けあたり一面の花園にとびこんでしまった、その奥に透明な水面が見える。
森の泉の周辺が開けて花園になっていたのだ、そこは残陽に照らされ幻想的なまでの美しさを湛えている、こんな状況でなければ美しさを堪能できたかもしれない。
「まったくついてないな」
思わず男は舌打ちをした、開けた場所では多人数を相手に戦うには不利なのだ。
だが体力的にももう限界が近い、男は池を背に背水の陣を取りここで戦う覚悟を決めた。
エルニア公国の西端の国境も近いバーレムの森の中、花園の戦場からそう遠く離れていない場所、倒木を背に一人の少女が休息をとっていた。
捌いた野うさぎの皮を2匹ほど腰からぶら下げ、狩猟用の短弓を立てかけている、どこからどうみても猟師にしか見えない身なりで、細身だが鍛え抜かれた肢体をだらしなく伸ばしている。
そして黒い美しい長い髪を背中に流し、瞳は強い意思を感じさせる明るい青、顔は陽に焼けて浅黒いがなかなか美しい顔立ちだ、年齢は15歳以上だろうか?
磨き上げれば美しくなるかもしれないが、ここでは獣や鳥ぐらいしか彼女を眺める者がいない。
彼女はあくびをして伸びをした、無作法だが不思議と猫のようにしなやかで品があった。
「そろそろ暗くなるね」
辺りは巣に帰る鳥達が仲間に呼びかけ会う鳴き声でうるさい。
だるそうに帰り支度をはじめようと立ち上がったその時、微かな剣戟の響きが聞こえてくる、それに下草を踏み鳴らし木の枝をへし折る音が混じる。
だらしない表情が戦う者の顔に変わる、そして迷いなく音のする方角に全速でかけだした、この一帯は彼女の狩猟場でねぐらの小屋もそう遠くない。
まず何が起きているか確認しなければならなかった。
「これは泉の方向だな!?」
騒音の元はすぐ見つかった。
森が開けた天然の花園で男が泉を背に武装兵の集団と戦っていた。
「そこだ!!後ろに回り込め!!」
一人の大柄な男と統一された装備の集団が対峙しているのを視認した。
武装集団はエルニア公国の国境警備隊の装備と同じ、動きやすい軽装歩兵の装備と瞬時に把握した。
すでに兵2名が倒され花園を赤く染めている、そして残りは7名、これだけの人数に囲まれた状態で戦える男の手練は並ではない、だが今だに形勢不利なようだ。
ここで少女に迷いが生じだ、心情的に男に味方したいところだが、公国に正面から喧嘩を売るのは流石に躊躇う。
面倒な事には巻き込まれたくないので日和見しようと思ったが、泥まみれでボロボロな大柄な男に妙な既視感を感じ不注意にも立ち呆けていた。
そしてそのまま数歩前に進み出てしまったのだ。
男は戦いながらも目ざとく少女を見つけ出したようで。
「そこにいるのはベルサーレ嬢ではないか?」
修羅場に関わらずよく通る力強い落ち着いた声で少女に話しかけてきた、それはとてつもない迷惑行為、たしかに少女の名はベルサーレ、これで関わり無いでは済まされない。
兵の何人かが驚いた顔で少女をガン見している。
余 計 な 事 を す る ん じ ゃ な い ! !
と心の中で絶叫したが、男の声には懐かしくも聞き覚えがある、すでに男の正体もはっきりとした。
「お前もこいつの仲間か!?」
「関係ないただの通りすがり」
「とぼけるな!!こいつはお前を知っているぞ!?」
「少し冷たいじゃないかベル?」
「とにかくこいつは俺たちで抑える、2人でその女を先に始末しろ!!」
「勝手に巻き込むな!!」
一応抗議したがもはや逃げる気はない。
森の平和な暮らしを壊した男の名は、ルディガー=イスタリア=アウデンリート、よりによってエルニア公国の第一公子だ。
そしてベルサーレとルディガーは幼馴染で付き合いも長いが、ここ2年程はベルサーレは森に籠もりきりでルディガーと会ったことがない。
詳しい状況はわからないが、とてつもなく厄介な問題に巻き込まれた事だけは確か。
兵が二名ほど間隔を広げながら小走りに向かってくる、戦うにしても狩猟用の弓と短剣二本しか武器が無い、弓と獲物を地面に置き右手に短剣を構えた。
左右から挟み撃ちにする気なのだろう、ベルサーレはその瞬間圧倒的な瞬発力で左側の敵に向かって突進した、敵兵は信じられない物を見るかのように目を見開らき、硬直した敵の首筋を斬りつけそのまま走り抜けた、頸動脈を一撃で断ち切られたその兵は血を吹き出しながら絶命する。
そして生き残りに素早く向き直り両手に短剣を持ち構える。
もう一人は仲間が倒されたにも関わらず落ち着いて剣を構えた。
「その女に油断するなよ!!」
少し慌てたように敵の指揮官らしき男がベルが対峙する敵兵に呼びかける。
「ベル、地獄で女神だな助かる」
修羅場であるにもかかわらず緊張感の無い太い声、その声がベルの感情を逆なでしたが、胸に懐かしい温かい何かが広がる。
「後でいろいろ聞きたい事がある」
まずはこいつらを倒したら奴をしばき倒そうと決意した。
足元の小石が一瞬視界に入る、すかざす石を敵に向かって蹴り上げる、敵は無意識に剣で石を払ったがそれだけで十分だった。
そのまま地面を踏み込み自慢の加速で突進、敵がすばやく剣を戻し振り下ろしかけたが、敵の目が驚きで見開かれた。
ベルの左手の短剣で剣をブロックされた上に、それが岩に叩きつけたような重い抵抗感、短剣はそのまま鍔まで滑りそこで止まった、その時には彼女は敵の懐深くまで飛び込んでいた、敵兵は体勢を崩され、そこを正面から短剣で喉を突き上げられた、そこまでの流れが一瞬だった。
敵は血を吹きながらうめき声を上げ崩れる。
その間に男は敵兵を二人倒していた、男の剣は正統的な王道の剣、それは重く強く早くそして無駄が無かった。
頑強な身体から生みだされる速度と力で敵をねじ伏せていく。
残る敵が二人になった時、敵が撤退しはじめた、パニックになったわけでも恐れを為したわけでもない、文字通り引いたのだ。
「これはマズい、ベルたのんだ!!」
声から若干の焦りを感じる、一人で多人数を相手に戦い続け疲弊し負傷までしている、敵を追走する体力がないようだ。
「僕がやる」
ベルサーレは倒した敵の剣を拾い後を追いはじめた、敵は俊敏に撤退していくが、野生動物並みの脚力を活かし追いつき後ろの一人に背中から切りつけた、敵は背後から迫る気配を察していたのか振り返りざまに剣で受け止める。
金属の響きと共に火花が散る。
彼女は速度と鋭さを活かしフェイントを織り交ぜながら敵の急所を狙っていく、女性剣士としては合理的な剣なのだが、敵がそう思い込むと命取りになる、彼女の剣はそれでいてやたら重かった。
「くそ、この化物が!!」
もう一人の兵は仲間を助ける様子もなく逃げていく、情報を持ち帰る事を優先しているのだろう、誰も逃してはならなかった、誰も帰らなければ明日にでも捜索隊を出すだろう、だが追手を送り出した者たちが状況を把握するまでの時間が稼げる。
目の前の敵はそれでも数合耐えたが胸を突かれ倒れた。
(粘られた、かなり離された)
すぐに残り一人の追撃を開始する、だが森の中で見通しが悪く敵の姿がなかなか見えてこない、敵は来たのと同じ獣道をたどっているようで、獣道は踏み荒らされていて足跡が判別しにくい。
だがしばらく追撃して違和感を感じた、彼女は森を庭としている、俊足で持久力もある彼女が全力で追撃したのに敵の姿が今だに見えない。
敵もかなりの精鋭とはいえルディガーを追いかけながら戦いかなり消耗しているはずだ。
立ち止まり周囲の音と気配を探りはじめた、遠くを進む足音も茂みをかき分ける音も聞こえない。
慎重に道を引き返しながら周囲を観察すると、左側の小さな茂みに乱れを見つけた、人に踏み荒らさらた痕に見える、そして道から離れた下草に目ざとく足跡を見つけた、敵はこのあたりで道から外れ追撃者をやり過ごそうとしたのだろうか?
ニヤリと捕食動物の様な笑みを浮かべると森に静かに踏み込む、周囲に同化するように気配を殺すと、巣に帰る鳥の鳴き声と虫の歌だけが聞こえてくる、やがてその野生動物並の察知力が前方の大木の影に乱れた人の気配を感じとる、敵はどうやら息を整え疲労回復に努めていた様だ。
倒さずに捕虜にしようと作戦を切り替えたが、その欲が祟ったかベルは僅かに油断した。
ミチッ!!
一歩踏み込んだ時、足元の小さな朽木を踏み抜き砕く、その小さな音に敵が反応し、人影が飛び出し素早い速度で襲いかかってきた。
内心敵兵の反応に感心したが、その剣を受け猛然と反撃に転じた、そして数回打ち合った後に剣を跳ね飛ばした。
「イノシシ女に捕まるかよ」
兵は嘲り短剣を抜き突いてきた、彼女はその手首を掴みひねり上げた。
「いでで、なんて馬鹿力だ!!」
少女は身を半回転させながら肘を敵兵の鳩尾に叩き込んだ。
「誰がイノシシだ!!」
残念ながらその抗議を聞く意識は敵兵に残っていなかった。
さっそく気絶した捕虜を革紐で拘束しはじめる。
その時ベルサーレは凄まじい力で後ろから抱きつかれ、そのまま高く持ち上げられた。
「ベルひさしぶりじゃないか、元気そうで良かった」
「キャーーーーーーー」
つい柄にもない悲鳴を上げて足をバタバタさせるしかない。
ルディガーは気を完全に殺しベルサーレの鋭い感知エリアを易々とすり抜け後ろから接近していたようだ。
「やはりお前か!?驚かせないで、苦しいから緩めて、あと降ろして」
少し泣きが入った、オーガ並と言われた剛力に締め上げられたのだ、手加減していたとはいえ苦しい。
「こうするのも久しぶりだな」
「ふざけるな!!こんな事をやっている場合か?あとお前なぜ追われていた?」
やっと解放されたベルが捕虜をつま先で小突く。
「こいつから何か聞きたい事はある?」
「まあ敵の大本はすでに解っている、はっきり言うと義母だ、知りたい事もあるがこいつが知っているとは思えん」
「そういう事か!?よくも面倒な事に巻き込んでくれたな!おい!!」
ルディと義母である大公の正夫人が絡むとなると大公家のお家騒動以外の何物でもない。
「すまん、お前に出会うとは思っていなかった、お前は広大なバーレムの森の狩猟小屋を巡り歩いているから探しようがない」
「偶然なのか?じゃあなぜこの森に入ったんだ?国境を越えるつもりだったのか?」
「アゼルに会う為だ、今アゼルはエドナ山塊に隠遁している」
「あいつ奥の山にいたのか」
森で暮らし毛皮を売りに町に出るだけの生活を送っている為か世間の情報にすっかり疎くなっていたようだ。
エドナ山塊はこの森のさらに奥にあり、エドナ山塊の峰が隣国テレーゼとの国境になっている、広大なバーレムの森はその中腹まで広がっていた。
ベルは影の薄い若い秀才を思い浮かべた、あいつも二年前からそう変わって無いだろう。
「とりあえず僕の小屋に戻り傷の手当だ、詳しい話はそこで聞かせてもらうから、明日の日の出と共に離れた方が良いな、コイツラが戻らないとなると間違いなく朝一番で捜索隊を出してくる」
「ベルこれはどうする?」
「無抵抗な奴を殺す気はないよ、尋問が終わったら小屋に押し込んで放置、運が良ければ一日二日で発見されるかも」
「俺とお前が会った事を知っているぞ?」
「それでも」
彼女は森の暮らしも今日で終わりだと感じていた、そろそろ潮時だとは思っていたのだ。
「僕の狩猟小屋はこっちだ」
ルディは軽々と捕虜を担ぐとベルの後を追った。