ノー・スモーキング!京都三条制札事件
この小説は、二〇一五年「文学界」新人賞に応募したものを再編集した作品です。
本文中、一部に過激な表現・セリフが存在しますが、
特定の国家・民族・思想・信条・宗教などを貶めたり
犯罪行為の助長・奨励をするものではありません。
◇
――ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあら……ぶえーくしょい! あー、風邪ひいちまったよ、やれやれ。(『方丈記』鴨長明)
◇場面一 大坂城大本営・慶応二年十月十五日
慶応二年十月というから、幕末も押し迫った頃である。一年後、幕府は大政奉還をし、明治が始まる。だがこの時点ではまだ、誰もその未来を知る者はいない。
この年、幕府は長州征伐軍十五万の兵を戦地に送り込むとともに、
「禁煙令」
というのを出した。今後、一切の喫煙行為を禁止するというものである。
なぜなのか、何も説明はなかった。とにかく煙草は駄目だという。
その理由はながらく謎であったが、近年、大坂城での会話を録音した盗聴テープが見つかり、制定のいきさつが明らかになった。
会話の相手は、京都守護職を担当している会津藩主、松平容保(肥後守)である。
「我が国日本を、世界に先んじた一流国家にしたいものだなあ」
諸事につけ、気宇壮大なことが好きな三十一歳の幕府宰相・一橋慶喜は、この時期まだ最後の将軍として知られる地位には就いていないが、徳川家茂の後見人として、すでに実質的な首相であった。松平容保は、その慶喜政権を支える忠実な警察長官といった風の男である。
「そうではないか、肥後守?」
「結構でございますな。私も非才の身ながら、国家のため身命を賭す覚悟であります。して、どのような方策で世界を驚倒せしめましょうや」
慶喜は答えた。
「禁煙だよ!」
「はあ?」
「世界の列強に先んじて、我が国が禁煙先進国となり、世界のマスコミに注目され、知識人どもにもてはやされ、国連とハリウッドにも招待されたいのだ」
「そ、それも結構と存じますが、なぜ禁煙なのですか? ほかにすることがあるのではないですか?」
「カッコいいからに決まってるだろう!」
慶喜は自己顕示欲が強く、英雄願望を持った君主である。
「欧米のリベラル・インテリ連中の間では、禁煙は今もっとも『クール』な流行であると安房守(勝海舟)も申しておったぞ。余が国の先頭に立って禁煙を命ずることで、クールなジャパンを世界に印象付け、カッコいい余のイメージが広がり、歴史に残るではないか。全国の諸侯に禁煙に命ずる余の姿が教科書に載り、英明なイケメンとして未来永劫記録されるのだ。ああ、カッコいい余……」
「分かりました、早速取りかかります」
「英明なイケメン」が自己陶酔する間、警察長官は忠実に仕事をした。そして翌日の朝には、京都三条大橋の袂に一本の高札が掲げられ、庶民にこの布令が知らしめられたのである。
「禁煙・NO-SMOKING」
徳川家の葵紋章とともに刻まれたその黒々とした筆文字が、やがて血みどろの惨事を巻き起こすことになろうとは、まだ誰も考えてさえいない。だがこれが、いわゆる<京都三条制札事件>の引き金になったのは疑う余地のないところである。
◇場面二 京都三条大橋・検問所 慶応二年十月十六日
洛中全土が禁煙令の対象範囲となったその朝、通勤者でごった返す三条大橋には幕府の検問が設置され、奉行所支配の禁煙指導同心が町民の持ち物検査を行った。検問所の前には行列ができ、一人ずつ役人のボディチェックを受けてから、通される。
「よし、次の者、来ませい」
御用提灯を背にした上役の同心が、顎を上げて行列に命じた。白鉢巻に白襷をかけ、短袴を穿いた捕り手が、AK47自動小銃の銃把で先頭の者を突き出し、同心の前に押しやる。白いゲバ文字で「反戦・倒幕」と書かれたヘルメットを被った若い武士だった。
「本日お上は、全国に禁煙の布告を発せられた。役儀によって取り調べる。持ち物を全部、この台に出せい」
武士は台の上に、AK47一挺、同三十発入りマガジン四個、トカレフ自動拳銃一挺、火炎瓶二本、RPG7ロケットランチャーとその弾頭十個、梱包爆弾四個、自爆用ベスト一着、長州藩・吉田松陰の著作一冊を積み上げた。
「ふん……、本当にこれだけだろうなあ?」
同心は口元を曲げて意地悪く笑い、澄ましている武士の顔を下から覗きこんだ。
「煙草を隠し持ってるのと違うんかい!」
同心が鞭を振り上げて台を殴打すると、その武士は羽織を脱ぎ捨て、袴の帯を解いてそれも脱ぎ、町民が大勢見ている前で、まわし一本の姿になった。役人たちが面食らう中、彼はそれすらも取って全裸になり、大の字に腕を広げて、股間の一物を外気に曝け出した。
「もっと調べるか!」
「わ、わかった、わかった」
同心は手のひらを挙げて、服を着るように言った。
「通っていいぞ! よし、次の者……」
「お役人様ーっ」
列の真ん中の方から、町民の叫び声が挙がった。その辺りの人々もざわざわとしている。
「こいつ、煙草を持ってますぜ!」
「なにーっ」
捕り手がすぐに向かい、密告された町民を列から引きずり出し、ボコボコに殴り始めた。
「このやろー、反逆者め!」
「死ね! 謀叛人が」
「勘弁してください、勘弁してください!」
衣服を身に着けた武士はAK47を肩に背負い、リンチの現場を尻目に橋を渡り始めた。
「おーい、ご浪人。忘れ物ですよーっ」
台の上に風呂敷一個が残されているのに気付いた下役の幕吏が、橋上の武士に呼ばわった。だが武士は聞こえないのか、そのまま歩き去って行ってしまう。彼は風呂敷を持ち上げ、口元に手を当ててもう一度叫んだ。
「忘れ物ーっ!」
その瞬間、風呂敷に包まれた高性能爆弾が大爆発した。川沿いに停まっていた幕府のハンヴィー四台も次々と爆発し、町民に殴る蹴るの暴行を加えていた捕吏二人も、焼夷弾を浴びて町民と一緒に燃え上がり、焦げ付いた焼肉の臭いが充満した。
「うっぎゃあ! だれか頼む、火を消してくれーっ」
「みんな静かにしろーい! 気にするな、単なるボヤだよ。あー、ほかに煙草を持ってる奴はいないかー? すぐに名乗り出ればお上にもお慈悲があるぞーっ」
同心は腕を振って群衆の混乱を取り静め、検問を続けた。橋を渡り終えた武士は、袴の中に手を突っ込んで、尻から取り出した煙草に火をつける。
「はーっ……」
京の秋空に紫煙が立ち昇る。空に飛行機雲。幕府空軍のB52戦略爆撃機が、長州に向けて編隊を組み、飛んでいくところであった。
◇場面三 西本願寺・新撰組屯所 慶応二年十月十九日
当時の新撰組に、「ごろんぼう左之助」と呼ばれる男がいた。原田左之助、二十五歳の男である。「ごろんぼう」とは、暴れ者、とか、とんでもない奴、といった意味である。
新撰組結成当初からの古参隊士で、近藤勇がまだ江戸牛込に試衛館という戦闘訓練キャンプを開いていた頃からの知り合いである。やがてその近藤が新撰組局長に就任すると、原田は幹部になり、十まである実戦部隊の一隊長になった。新撰組は縁故主義の組織だったが、もしそうでなかったとしても、原田はそこまでのし上がったかもしれない。それだけの実力がある男だった。
幕府が禁煙令を出して間もない、ある日のことである。「ごろんぼう」は副長土方歳三の部屋に呼ばれた。
「原田君、服を着たまえ」
部屋に入ってきた原田のなりを見て、土方はまず、苦々しげに顔を歪めた。原田左之助はまわし一本の裸体であった。前近代、人はよく裸になった。明治になり、欧米思想が入ると、裸体になることはなくなった。
「いやあ、今朝早く、洗濯に出しちまいましてなあ」
原田は頭をぼりぼりと掻いて、黒々とした腋毛を覗かせた。土方はまた、嫌な顔をした。
「服を全部かね?」
「ああ、そういえば隊服はありますぜ」
原田はそう言うと部屋をいっぺん出て行き、裸体の上に新撰組の制服・浅葱色だんだら模様の羽織だけを纏って戻ってきた。土方の嫌そうな表情は変わらなかった。
「……まあいい、実は問題が持ち上がった。それを片付けてもらいたいのだ」
「ふむ、なんですか」
「糞は下へ向かって流れ落ちる。この意味が分かるかね?」
土方の細い目が、生来の皮肉屋な色合いに光った。
「例の禁煙令とかいうやつだ。ばかげた話だよ。塹壕の兵から煙草を奪い取って、どうやって戦争に勝つつもりだ? だが、おれが言っても仕方がない。公儀は禁煙令を出したのさ。そして我々は不幸にも、法を守らせる立場にあるというわけだ。……さて、ではこのビデオを見てくれ。監察の山崎君が撮影した映像だ」
土方は文机から小さなリモコンを取り上げ、二、三回ボタンを押した。窓の暗幕が自動的に引かれ、室内が暗くなる。天井の羽目板がスライドして開き、その内部から小型のプロジェクター装置が下がってきて、光を発した。スクリーンに「新撰組監察部」というロゴクレジットが映し出され、波濤が岩肌に打ち寄せる背景へ被さる。やがて本編の映像が始まると、原田は丸太ほどある両腕を組んで、画面の内容に見入った。小型の仕込みカメラで撮影したものらしく、画面がぶれている。駅の構内らしい音も聞こえてきた。
「ふーむ、これは典型的な地下鉄駅の上りエスカレーターですな。ほうなるほど、ここでカメラに角度をつけて情報を収集しようと……」
「すまん、原田君。ビデオを間違えたようだ」
土方は涼しい顔のままリモコンを操作し、ハードディスクの中から別の映像を選択した。また例のロゴ画面が出たあと、今度はより面白みのない画面になった。深夜の往来を町屋の二階から見下ろして撮っている。夜風に柳がそよぎ、街灯の明かりに羽虫がたかっている。
「場所は三条大橋の西詰めだ。橋の袂に立っている札が見えるか?」
原田は目を細くし、身を乗り出して見た。土方は文机の端末を操り、その部分のみ範囲指定してズームさせてやる。なるほど、原田は頷いて姿勢を戻した。
「あれが公儀の制札。つまり、禁煙の立て札というわけですな」
「そういうことだ。しばらく続きを見てくれ」
土方はトールサイズのカップに入ったポップコーンを原田に手渡した。原田はそれをムシャムシャ食べながら、動きのない画面を見守る。スクリーンの中では、制札を警備する町方の役人二人が、なにか談笑しながらドーナツを食べていた。
やがて、大型空冷エンジンのくぐもった音がぶんぶんと聞こえはじめ、黒いレザージャケットを纏ったモヒカン頭の勤王浪士十数名が、ロードモデルの大型チョッパーに乗って現れた。
「ひゃっはーっ! おれたちは勤王だーっ」
「ヒューッ! 外国人をぶっ殺せ!」
「御用金だあー、攘夷御用金を出しやがれーっ!」
改造バイクに「鬼畜米英」「尊王最高」という旗竿を立てたモヒカンの浪士たちは、その付近の適当な商家の前に来ると、エンジンを空ぶかしさせ、奇声を挙げながら、バイクをぐるぐる回し始めた。攘夷御用金とは、外国との戦争(攘夷)をするための費用として金を出せというもので、要するに体のいいゆすりであった。
「聞こえてんのかこのやろー、出て来いや、テメー」
「売国奴! 御用金をよこせ!」
浪士たちは叫びつつ、攻城に使う木槌で商家の戸をバンバン叩き始めた。堪りかねた商家の主人がすぐ表に出てきて、浪士たちに頭を下げ、奉公人に千両箱を運ばせはじめる。金が全部出ると、浪士たちは火炎瓶に火をつけ、
「よおーし、攘夷の火祭りだあ。国賊の家は燃やせーい!」
「ヒョオーッ、天皇陛下万歳!」
浪士たちは松明のように明るく燃え上がった商家から金と女を掠奪し、「天誅」「尊王攘夷」と書いた黒い改造バンに戦利品を積み込んで、バイクをぶんぶん唸らせ、AK47を空に乱射しながら、フレームの外に去って行った。
町方の役人二人は特に何もせず、相変わらず笑いながらドーナツを食べている。彼ら役人は制札を守るのが仕事であり、絶対ほかのことはしない。穏やかな平和な夜であった。商人の家は燃えたが、火災保険に入っていれば問題ない。妻子も誘拐されたようだが、結婚はまたすればいいし、子供は産めばいい。
「副長、このへんはいつもと同じようですな」
「そうだな……。少し早回しにするか」
土方はビデオを三十二倍速にし、一夜の出来事がめまぐるしくスクリーンの上を流れていった。早回しの映像の中で、さっきと似たような勤王浪士の集団が二、三回登場し、別の商家に同じ行動をして去っていくのが見られた。幕吏二名はまだ安全に制札を守っている。
「ふむ、このへんかな」
土方は画面の頃合を見て、再生速度を標準に戻した。橋の袂あたりにテクニカル車輌(機関銃など重火器を取り付けた改造車)が登場し、黒い覆面をした勤王浪士数名が降りてくる。大半はAKやRPGを持っているが、ビデオカメラを手にした者が一名おり、記念撮影のようにみんなで一列に並び始めた。一般的な記念撮影と異なり、麻袋を被せられた人間が一人、手を縛られて中央に座らされている。やがて覆面の浪士のうち一人が、折り畳んだ書状をカメラに向け、ばさりとそれを開いて読み上げ始めた。被せられていた麻袋が取り払われる。
「斬奸状、これなる人間は幕府の犬として活動し、神国日本の国威を辱め、君側の奸として……」
原田はそこで異変に気付き、画面を指差して身体を前のめりにした。
「あっ、副長、あれは!」
「うむ、あれだよ。問題なのは」
勤王浪士が斬奸状を読み終わり、「よって、天誅を下す!」と締めくくった。政敵や外国人の処刑動画をインターネットに公開するのは、文久年間以降の彼らの流行りであり、日本刀を使って斬首するのが一般的な方法である。画面の中の彼らもAKを背中側に掛け回し、刀の鯉口を切って抜き連れた。刀身が振り上げられる。
「天誅!」
「天子は偉大なり!」
「天誅だ!」
「天子は偉大! 天子は偉大なり!」
血しぶきが噴き、首が鞠のように跳ね飛んだ。処刑人たちは気勢を挙げ、AKを空に撃ち、死体をバラバラに切り刻んだ。剛毅で知られる原田もそのとき口元を押さえ、
「なんということだ……」
と押し殺した声で呻いた。冒涜的な行為は画面の隅で起こっていた。一人の酔っ払いが橋の袂に現れ、禁煙を命じた幕府の制札に堂々と小便を掛けていたのである。原田も土方も、その酔っ払いの挙動に釘付けになり、土方は露骨に顔をしかめていた。
「おっとっとうーっ」
酔っ払いは小便の後よろめいて倒れかかり、局部を露出したまま制札に抱きつき、そのまま川の下へ転落した。「禁煙」の札は根元から折れ、酔っ払いと一緒に消える。役人二人は背後で起こった異変に気付かず、ドーナツを食べる機械のように、ひたすらドーナツを消費している。
「なんて奴らだ、あれでも役人か」
江戸っ子の原田は町役人の怠惰な根性に腹が立った。民衆に布告を知らしめる制札は、その内容がどんなに下らないものであろうと、幕府権力の象徴には違いない。それを守ることもせず、呑気に菓子を食っているとは何事か。土方も頷いた。
「公儀も今回の件では面目を失ったらしい。町方の手では守れぬということで、会津候は今日、近藤さんに電話され、制札の護衛に全力を尽くすよう、我々新撰組に要請してきた。で、私は君の部隊が良いだろうと近藤さんに言っておいたのだ」
「なるほど」
原田は理解した。糞は下へ向かって流れ落ちやがる。
「十番隊の戦力で充分だとは思うが、一応、増加要員として大石君をつける。装備部に行って支給品を受け取れ。作戦は追って指示する。出動は本十八時。以上だ、何か質問は?」
「はあ、ひとつだけ」
「なんだね?」
「映像の最後あたりで、首を斬られていたのは誰ですか」
「なに、そんな奴がいたか? 君はよく見ているんだな。……あー、これか。そうだな、誰かは知らんが、まあ問題はないだろう。見れば分かるが、あの辺の治安は非常に安定している。遠足みたいなものだ。リラックスしてやれ」
「はい。それと副長、実はもうひとつ言うことが」
「なんだ?」
「おれ、明日結婚するんですよ」
「なんだって。それはおめでとう。新撰組全体でお祝いするよ。君が出かけている間、我々は全員パーティーの準備だ。非番の者も予備の部隊も全員動員するぞ。明日は素晴らしい結婚式になる。期待しててくれ。今日の任務は、まあ適当にやればいい」
「感謝します、副長」
原田は礼をして、室を下がった。境内では、射撃訓練の銃声に混じって、遠雷が鈍く聞こえだしていた。秋雲が天を暗く閉ざしている。回廊を折れたところで、原田は容姿の良い身奇麗な大男と鉢合わせた。帯に「甲子憂国」と華美な彫刻が入った拳銃を差している。近藤勇の参謀で、国士を標榜している伊東甲子太郎である。
「おお、原田さん。なぜ裸なんです?」
「やあ伊東さん。裸じゃあないよ、まわしをしてるだろう? 裸ってのは……」
「いや、それ以上脱がなくて結構。それより土方君と随分話し込んでいたようですが、何か事件でもありましたかな。いや、私で協力できることがあればと思いましてな」
伊東は微笑の中の目を細めて、原田を見た。原田は何気なく「おお、そうだよ」と答えた。
「ちょいと野暮用でね。今夜特殊作戦がある。三条大橋の警護につくんだ。うちらの隊が出るんでね」
「三条大橋……?」
伊東は視線を横にして少し思案し、土方が「狐」と呼ぶ通りの表情になった。
「あんなところに重要なものがありましたかな」
「それがあるのさ。非常に重要な代物が。町方の奴らには任せられないんでね」
原田はすれ違って行きかけたが、二、三歩行ってすぐに立ち止まり、
「あ、そうだ伊東さん」
「はい?」
「煙草持ってます? ないんだよね」
振り返った原田は銜え煙草に火をつけ、空になった紙箱を握り潰したところだった。
◇場面四 相国寺二本松・京都薩摩藩邸
この時期、薩摩藩京屋敷は、禁裏に北面する相国寺との中間あたりにある。御所とは通り一つ隔てた目と鼻の先で、幕威旺盛なころであれば、外様大名の薩摩藩に許されるような立地ではないのだが、元治元年に勃発した禁門ノ変の際、錦東洞院にあった藩邸が全焼し、かねて懇意であった近衛左大臣家から、この場所を譲り受けたのだった。
その頃の薩摩藩は、表面上徳川家に従う姿勢を取っていたので、幕府もこれを許したのだが、最近になってからは、
――薩摩は信用できない。
というのが誰でも分かるぐらいになったので、幕府もこの付近の警戒を厳重にしていた。
都では逢魔が時とも言う、黄昏の迫るころ、
「やあ、そこの御仁」
パトカーに乗った見廻組が、藩邸の前で一人の侍に声をかけた。見廻組は京都における幕府の警察で、任務は新撰組と似ているが、幕臣の子弟で作られた隊である。誰でも入れる新撰組と違い、ゆったりした性格の隊士が多い。
「どこへ行かれますか? 身分証を拝見」
侍は笠のふちを上げ、見廻組の視線にまっすぐに応じた。育ちの良さそうな涼しい瞳だった。羽織の紐も瀟洒で、どこかの大藩の上士らしく見える。彼は懐から身分証を出し、言われた通りに見せた。
「どうも」
見廻組の隊士はパトカーの情報デバイスに身分証のIDを打ち込み、幕府の犯罪人データベースと照合する。芸州藩・桂小五郎と出る。
「すみません。芸州藩の、桂小五郎殿ですか?」
「そうです」
「一応お聞きしますが、長州の桂小五郎、ではないのですな」
見廻組の彼は、情報端末のディスプレイを回して、侍に見せた。国際指名手配犯、長州藩士・桂小五郎のデータが、容疑とともに画面上に列挙されている。曰く、倒幕陰謀の指揮、国際テロ組織に対する資金提供および殺人教唆、老中暗殺未遂二回、戦争犯罪容疑者、ほか十四件で立件。元治元年八月、幕府特別法廷により一審にて死刑確定。
「違います。別人です」
「でも、名前が一緒だし、この写真の顔もあなたと似ているような」
侍は見廻組に十秒ほど背中を向け、やがて振り向いた。鼻の下に長い髭ができている。
「似てないですよ」
「おお」
見廻組はもう一度、画面の写真と目の前の男を見比べて、丁寧に謝った。
「失礼仕った。さっきは似てると思ったもんですから」
「いえいえ、お役目ご苦労にござる。ところで、お手前はあれをご覧になりましたかな」
侍は、道の向かいに伸びている御所の壁を目線で指し示した。ボロボロのオープンカーでやってきた十数人の小汚い浪士らが、缶スプレーを振って、幕府の宣伝ポスターに塗料を噴射している。
「イエーイ、おれたち最高ーっ、勤王の志士だぜーっ」
「過激な行動しまくるぞーっ! よし、二条城にウンコを投げてやる」
「あっ、またあいつらか!」
見廻組はパトカーのサイレンを点け、パトライトを点滅させて行ってしまった。すぐ、薩摩藩邸から一人の武士が顔を出し、侍に手招きする。
「桂さん、今のうちに早く。なんですか、その髭は?」
「大久保君、どうもかたじけない。幕吏の目を欺くためには何でもしなくてはね」
桂は付け髭を取り、そのまま静かに門の中に入った。藩邸の門内では、いざというときには武力で桂を助け出そうと、ロケットランチャーや機関銃を持った藩士らが大勢待ち構えていた。
「あ、一応言っておきますが、私は長州の桂小五郎です。芸州藩士というのは嘘であって」
「そんなもん分かってますよ! 奥へ来てください、実は今日昼過ぎに情報が入って、それからというもの西郷がちょっと大変なのです。会ってくれますね?」
「もちろん会いますとも。参りましょう」
桂は笠を脱ぎ、自分の荷物をその辺の薩摩藩士へ無言で押しやると、大久保(利通、のち内務卿)のあとについて、すたすた歩いていった。藩邸の庭を抜けて、かなり奥まった場所に離れが建っている。寺院の伽藍のような大きな建物で、エアコンの室外機が十六個ついている。熱が湯気になって白い霧のように辺りに立ち上っていた。
「あそこです。なんせ身体がでかいもんで、特別に建てさせたわけです」
「ははあ」
桂と大久保は離れの壁についている階段を上って、地上十五メートルほどの高さにある一般用出入り口に入った。入ると、熱と湿気、異臭が二人をむっと包み込んだ。薩摩藩の志士・西郷吉之助は、「大西郷」と異名される通り、非常に大柄な人物で、身長は三十メートルぐらいある。座した高さは十七メートル程度で、棟に掛けられた橋の高さが西郷の胸ぐらいの高さになる。西郷は「うっうっ」と嗚咽を洩らしながら、自らの巨根を握り締め、無心に射精していた。西郷は思案に窮すると、他人を近付けず、部屋に引き篭もってひたすら自慰をし続ける癖がある。
「あの通り、もう四時間も射精しているのです」
「ふーむ、それは問題ですな」
桂は特に顔色も変えず、面会用の橋を進んで、西郷の前に立った。
「西郷さん、もういい加減にせんか」
「おお、桂さんか。よく来たな」
西郷は大きな目の玉と厚い唇を動かして、桂を見た。鼻息がつむじ風のように桂の装束に吹き付け、羽織の裾をばたばたと揺らした。桂は動じず、平然と西郷を見上げている。幕末期、この西郷とまともに会話ができた人物は、桂のほかには土佐の坂本龍馬と、幕臣の勝海舟だけであった。
「何があったか、話してください」
「うん」
西郷は頷いて、天幕ほどもある大きさの懐紙で自分の竿を拭い、手についた精子を着物の尻で拭いた。大久保は空調のパネルを操作し、冷房の機能を最強にする。
「実はな、新撰組に潜らせてある鼠、いや、狐というべきか……、まあどっちでもいい、とにかく其奴が持ってきた話によると、今夜新撰組に特別な動きがある。三条大橋で何かがあるらしいのだ。それも『非常に重要』な任務とのことだ。貴公、二年前の池田屋事件は覚えとりますな」
「無論。忘れるわけがないでしょう」
桂はそのとき初めて、口元にちょっと苦い色を浮かべた。元治元年六月、ホテル池田屋のペントハウスで開かれていた勤王派の会談を新撰組の特殊部隊が襲い、虐殺したのである。現在の長州藩の苦境はあのときから始まったと言っていい。
「あれは忌まわしい事件でしたな。新撰組の行動で『非常に重要』との布令が出されたのは、あのとき以来のことなのです。しかも同時に、隊士全員へ屯所集合が命じられたとか。非番の者も含めてです。これは絶対に只事とは思えない」
「それは捨て置けませんな。しかし三条大橋とは……。あそこには特別なものは何もないはずですが」
「そうなのだ、だから分からんのだ!」
西郷の怒号で、屋根板が二、三枚空に吹っ飛んだ。桂も考え込んでいる。
「もしこれが、在京諸藩に対する幕府の弾圧の始まりだとしたら、何としますか。安政の大獄の再来だとしたら、どうです」
「西国諸藩と血の戦争になりますな」
西郷の問いに、桂は明快に答えた。維新後、木戸孝允と名を改めたあとの桂は精神を患い、新政府では大した活躍もできずに死んだが、この時期の彼は、誰もが及ばないほど頭の回転が速く、度胸がある革命家だった。
「まあ、幣藩(長州)にとっては今更ですが。防長二州はすでに徳川との聖戦を宣言し、戦っております。薩摩もその覚悟を固めるのですな」
「桂さん、その物言いは心外だ。長州に武器弾薬を提供してるのは我が薩摩ですぞ」
大久保は桂の言葉から、暗に「薩摩は臆病」と謗られたように感じ、詰め寄った。
「危険を冒してるのは長州だけでない」
「そうです。薩摩は武器弾薬を流し、長州人は血を流す」
桂は大久保を横目で見、西郷にも目を転じて言った。
「当面、それはそれで宜しい。しかしいつまでもそうでは困るのです。幕威衰えたりと言えども、徳川の力は強大です。今のところ、長州は国境の幾つかの戦いで幕府軍を破り、戦線を維持しているが、それは緒戦の勝利に過ぎないと私は思う。徳川が全力を注いでくれば、国力の差でジリ貧になり、こちらは不利になる」
「まだ、伺っておりませんでしたな」
大久保は、桂が何を言いたいのかある程度察しつつ、改めて桂に訊ねた。
「あなたは今日、何の用で参られたのですか?」
桂の答えは、ここでも明快だった。そして、大久保の予想した通りであった。
「第二戦線を作ってもらいたいのです。長州だけで耐えるのは不利でもあるし、徳川打倒が成就したのち、長薩の禍根にもなりかねないと思いましてね」
「薩摩に開戦せよと仰るのですか。それは……」
「それが可能であれば一番ですが、大久保さん。そこまでの要求をするつもりはありません。薩摩は薩摩の意志で、開戦時期を決めるのが宜しいでしょうから。私が言うのはより即効性のある、すぐに起こせるような騒動を幕府の後方で起こしてもらうことです。例えばこの京都、などの場所で」
「なるほど」
大久保はちょっと思案する顔をした。彼もまた天下に幾人といない智謀の士である。話が開戦のような不可能なことから、騒動という程度の現実味のあるものに変わったので、真剣に考えるようになった。
「出来る限り派手に、ということですな、桂さん。そうすれば、京大坂にある幕府軍主力が、長州との戦線に加わることは不可能になる」
「そうです」
桂は頷いた。やはり、この大久保という人物は頼るに足る同盟者らしいと確認できた喜びがある。
「長州に来る幕府兵を、百人でも十人でも減らしてもらいたいのです」
「そういうことなら話は早い」
西郷の重々しい声が、二人の上に降りてきた。
「三条大橋の新撰組だ。奴らが何のために出動するのかは分からんが、とにかく幕府にとって重要な何かがあるわけだろう。いま京都には諸国の浪士数千人が集まり、革命のときを待っておる。彼らに命じて、今夜一気に襲わせ、新撰組を皆殺しだ。その上で、奴らが大事に守っている『重要な何か』をぶっ壊すのだ」
「さすがは西郷さん。素晴らしいですな」
桂は賛意を示し、大きく頷いた。ふと、煙草が吸いたくなる。桂が煙管を出すと、大久保がその手を制した。
「おっと、桂さん。申し訳ない、ここは禁煙でしてな」
「ふむん……」
場面五 三条大橋周辺・及び京洛各地 十七時半
「草莽の士よ時が来た。武器を取れ」(薩摩藩地下放送)
この日、京都は夕刻より雲が空を覆い、雷が閃くようになった。
三条西詰の検問所は、帰宅を急ぐ車の列でごった返したが、「隠れ喫煙者」を一人でも多く見つけ出し、獄にぶち込もうと頑張る幕府役人のために、渋滞はまったく緩和されなかった。
「いい加減にしろーっ、おいクソポリーっ、さっさと橋を通せーい!」
タクシーの運転手が窓から顔を出し、中指を立てて怒鳴りながらクラクションを鳴らしたが、並んでいる全部の車がすでにクラクションを鳴らしているので、音を聞くこともできなかった。運転手は諦めてシートにもたれ掛かり、乗っている三人の観光客たちに不満を洩らした。
「まったく。ここ最近、いつもこうなんですよ。例の禁煙令ってやつですか。ふざけた法律ばっか作りやがって。世の中おかしくなる元ですよねえ」
観光客たちは全員侍だった。みな、静かである。しかしそのうちの一人が口を開いた。
「すぐ、天朝の御世が来る」
彼は腕を組み、運転手に言った。
「将軍も老中も叩ッ斬る。幕府の犬は皆殺し、外国人も全滅だ。そうすれば天下は良くなる。新しい時代になるのだ」
「ははあ、天子さまの御世が。でも、それで世の中どう変わるんですかねえ。葵が菊に変わる、それだけなんじゃないですか」
「なに!」
後席の一人が激昂しかけたが、もう一人が手を伸ばして制した。彼は運転手に言った。
「運転手、貴様は考える必要はない。考えるのは我らがやる。我ら勤王の士がな」
「へえ、これはどうも……。いやしかしホント、今度の御法には参っちゃって。この三条大橋だけじゃなく、ほかの橋でもやってるから、迂回も出来ないし」
「あ、ここが三条大橋か?」
「ええ、ここがそうですよ。広重の画にもあるでしょう。あのアーチ型の」
「そうか。よし、ここで降りる。勘定は薩摩様につけてくれ」
「薩摩様でございますね?」
「三条橋で降ろしたと言え。そうすれば分かる。みんな降りろ、行くぞ」
観光客たちはタクシーから、吹き付ける雷雨の中に降りた。全員、手に武器を持っている。ある者はAK47に弾を装填し、またある者はロケットランチャーRPG7の弾頭を発射機に装着する。タクシーのトランクが開けられると、中の重機関銃を武士二人が担ぎ上げ、もう一人が三脚を持って、その辺の適当な商家に入っていった。
「えっ、ちょっと!」
突然入ってきた武装集団を、家の主人が泡を食って出迎える。重機の先端を担いでいる武士が、段梯子を登りながら言った。
「主、二階を借りるぞ」
「いや、なんですかあんたたちは、そんなことされちゃ困りますよ!」
その瞬間、三脚を持った武士が拳を固め、その主人の横面を殴りつけた。吹っ飛んだ家主が土間にひっくり返る。
「だまれーい! おれたちは憂国の士だ。騒ぐとぶち殺すぞ」
彼らが商家の二階に機関銃を固定する間にも、観光客たちはタクシーや観光バスに乗り、続々とやってきた。
「へえー、ここが三条大橋かあ」
「おい、写真撮るぜ写真ーっ、イエーイ!」
みな、諸藩から脱藩し、京に上ってきた浪士たちである。今夜この場所で合戦があると聞き、みな具足や剣道の防具を身に付け、AK47を携えて、ぞろぞろと集まってきたのだった。
「ただいまRPG7、無料でお配りしておりまーす! ロケットランチャー、タダです! はい、どうぞーっ、あなたもどうぞ、どうぞどうぞどうぞーっ」
観光バスの貨物室からは、薩摩藩の家紋を削り落としたRPG7の箱が何十個も積み降ろされ、その辺の人間に誰でも無料で配られていった。
タクシーばかりでなく、スモークウィンドウをつけた黒塗りの高級車もやってきていた。ドアが開くと、丹精な容貌ながら屈強な身体つきをした四十絡みの武士が、供を連れ、身奇麗な出で立ちを現してくる。陣地構築中だった何人かの古参の浪士は、その人物を知っており、息を洩らした。
「驚いたな、あれは公家侍の田中河内介じゃないか。文久年間の大物志士だ。寺田屋ノ変で死んだと聞いていたが、生きてたのか」
「そういえば、薩摩が身代わりを殺し、鹿児島で匿っていると聞いたことがある。本当だったんだな」
その間にも、京洛の東から西から、伏見から、大坂から、奈良から、大和五条から、十津川郷から、吉野から、勤王を掲げる大軍団が移動しつつあった。それはまことに不揃いで、出身も階層もすべて異なる人間たちによる、奇妙に統一された数千人の動きだった。彼らには藩も君主もなく、社会的には根無し草である。それも、「尊王攘夷」という四文字の言葉と、革命的武力を持つ根無し草であった。低い一点に集まる水のように、根無し草たちは集まっていく。三条大橋。
「汝の部署を放棄せよーっ、聞け、万国の労働者」
武士だけではなかった。町民たちで結成された労働組合のうち、過激派の集団は、メーデー歌を放唱しつつ、太鼓を打ち鳴らし、赤旗を先頭にスクラムを組んで、京の大路をぞろぞろと行進していった。手に角棒やバットを持ち、作業用ヘルメットに「山城国労働組合」「条約粉砕」「世直し」「借金棒引き」などの文字を書いている。
「おっ、なんだなんだ?」
パチンコ屋の軍艦マーチを掻き消すほど、通りの騒ぎが大きくなると、通い詰めていた日雇い労働者や出稼ぎ人足らがパチンコを打つ手を止め、店の前にダンボールを敷いて眠っていた浮浪者なども起き上がった。そのうち、赤い鉢巻を締めた労組員の一人が、列から出て店に駆け込むと、彼らに叫んだ。
「みんなーっ、暴動だあ。暴動が始まったぞ。大坂城炎上だっ」
「なにっ、よおーし」
その場にいた客全員がそれを聞いて立ち上がり、すぐにパチンコの台や机椅子、蛍光灯、水道の蛇口、便器など、店の備品を片っ端から剥ぎ取り、略奪し始めた。七十歳の浮浪者や、「目が見えない病人」と称していた物乞いなども、店の中に躍りこみ、手当たり次第店のものを分捕っていく。
「なにするんだお前ら! おいやめろ、何やってんだ、やめろっつってんだよ!」
奥の部屋で金を数えていた店の主人は、突如暴徒の群れと化した客たちを見て、堪らず飛び出してきた。客たちは景品コーナーに殺到し、黒山のように積み重なった人間が、手に触れたものは何でもいいから取っていこうと、各自二本の腕を伸ばしあい振り回しあい、景品棚を物色する集合体になった姿は、ほとんど一個の未知の怪物のようであった。
「これはおれのだぞ!」
「おれが、先に触ったんだ!」
取る物がもうなくなると、人々はすでに奪った品を引っ張り合い、これはおれのだ、おれのだと喚きあった。店主は怒りのあまり発狂し、景品台の上によじ登って
「お前らうるせーっ! だまれよ!」
と叫んだ。
「この店にある品物は全部おれの財産で、おれのなんだよ! だからお前らが勝手に持っていくことはできんのだ。分かったら盗んだ品物を全部元へ戻せっ。そしたら帰れっ、出ていけ、いなくなれ、消えうせろーっ」
盗品を奪い合っていた人々はその行為をやめ、しばし顔を見合わせ、ざわざわとなった。
「全部あいつのもんだとよ」
「なんだって? そりゃあんまりだ」
鈍い音がして、金属バットが店主の頭にめり込んだ。彼が血を噴いて倒れると、群衆は気勢を挙げてその身体に群がり、服や履き物や金歯を強奪していった。奪い合いがまた再開した。引っ張り合いの勢いで包み紙が破れ、中の物が見えた。
「あっ、なんだこれ煙草か。おれいらねえや、お前いるか?」
「いやー、やめとくぜ。煙草は肺ガンになるからな」
二人は煙草のカートンボックスを放り投げ、ほかの暴徒たちに掴みかかった。騒ぎは拡散され、ソーシャルネットワークサービスの投稿画像欄は、京都市中を覆い尽くす暴徒と赤旗と大塩平八郎の肖像画まみれになった。
「学生の諸君! ここでの集会は禁止されています、直ちに解散しなさい!」
三条大橋を目指し、京都大学を出発した学生の群れが、会津藩兵機動隊とぶつかり、通せ通さぬの押し問答になった。装甲車の拡声器で沈静を呼びかける会津人武士と、このやろう、ばかやろうと罵声を挙げる学生たちの酷い応酬が続いた。学生らの人数はどんどん膨れ上がり、列の前の方ではもう道にいられなくなって、沿道の家々の屋根の上に登ったり、街路樹によじ登って、「尊王攘夷」と叫ぶ者もいる。会津側も次第に腹が立ってきて、怒声を張り上げるようになった。
「お前らはなんだ! お上に盾突きやがって」
「うるせー、会津っぽ!」
学生らは怒鳴り返し、会津武士の濃い東北訛りを冷やかした。
「日本の言葉で喋れ、田舎ヤロー」
「北夷蛮族は京地から去れーっ! よおーし」
興奮した学生の一人が木によじ登り、その場で下半身を露出すると、会津藩の装甲車に小便を浴びせかけ始めた。
「出ていけ、会津っぽ!」
「あっ、こいつ、やりやがったな」
会津藩の放水車が上部の筒先を旋回させ、高圧放水を開始した。木に登っていた学生は放水をまともに食らい、下半身のものを出したまま空中に吹っ飛ぶ。
「おい見ろ!」
「チクショーッ」
乱闘が始まった。学生と会津藩兵が叫びながらゲバ棒と警棒で殴り合い、その上を火炎瓶、レンガ石、発煙弾、放水銃の水などが飛び交っていく。
その頃、西本願寺の新撰組屯所では、十番隊の出動準備が整ったところである。
境内の庭にはUH60ブラックホーク戦闘輸送ヘリ二機と、それより小型のMH6リトルバード一機が並べられ、隊士一同が銃を持って整列している。そこへ、満面の笑みの土方歳三が原田左之助を連れてきて、大声で言った。
「みんな聞いてくれ。原田君は明日、結婚するんだ!」
あらかじめ土方から仕込みを含まれていた大石鍬次郎が、隊士たちに向かってタクトを振り上げ、その場に居た数百名の隊士たちが、原田のために合唱した。
「左之助はいいやつーだ、左之助はいいやつーだ、左之助はいいやつーだー、みんな大好きー」
「やあ、みんなありがとう」
原田は腕を振り、笑顔でみんなに応えた。
「ほんとにありがとう、いや、こんなに祝ってもらえて嬉しいなあ。まあ、副長の言うとおり、おれは明日結婚するが、別にこの世からいなくなるわけじゃない。これからもみんなと一緒に、悪いやつらをドンドン、撃ち殺していこうじゃねえか」
「原田左之助くん、万歳!」
縁側の上で、土方が万歳をした。庭の隊士たちも全員それに倣う。
「原田隊長ばんざーい! 万歳万歳、万々歳」
原田は庭に降り、果てしない万歳の歓呼の声と大量の紙吹雪を浴びせかけられながら、ローターを回している先頭のブラックホークに乗り込んだ。そして機内でも、隊員の祝福を受けた。
「隊長―っ、良かったですねえ」
「ああ、最高だったぜ」
原田はパイロットの隊士にそう答え、副操縦手席のキャノピーから身を乗り出して、土方と隊士たちに手を振った。
「じゃ、ちょっと行ってきますぜ!」
「うむ、パーティーの準備は任せておけ!」
土方もまた、腕を挙げて原田に応じた。風を切るローターの回転音が高まり、原田の一番機から順番に、一機ずつ夕空へ離陸していく。新撰組の戦闘用ヘリコプターは全機黒色の塗装で、機体下部に山型の段々が白く描かれている。原田の機には「誠」の小さなフラッグがあり、隊長機であることを示す。
「さて、我々も出発だ。出してくれ、浅野君」
監察部より派遣の増加要員・大石鍬次郎らは、機関銃搭載ハンヴィーで地上から行く。大石は三千人撃ち殺したという猛者で、土方に深く信頼されている男である。
「ついたら起こしてくれ。おれは少し眠る」
彼は目蓋を閉じ、シートにもたれ掛かって腕を組んだ。エンジンにギアが入れられ、ハンヴィーが動き出す。運転席では毛むくじゃらのチンパンジーがキャッキャッと笑い、三トンの軽装甲車を動かす快感に酔いしれていた。後席の隊士のうち一人が、大石を起こさないよう、低い声で隣の隊士に言った。
「おい阿部、なんで大石さんはサルに運転させてんだ?」
「なんでだと? おいおい島田、お前は無学だなあ。人間じゃないと車を運転できないなんて法がどこにある。これからの新撰組は人種的に自由で、種族を超えた平等と共存を目指してくんだ。大石さんは率先してそれを表現してるのさ」
サルの乗るハンヴィーが勇ましく屯所の門を出て行ったとき、一人の隊士が驚いて便所から飛び出してきた。本来の運転手だった浅野薫は、この日下痢気味で、直前まで便所に行っていたのだった。
「なんだ! おーい待ってくれ! まだ乗ってないぞ」
浅野は左手で糞を拭きながら、走って追いかける。
最終的な出動部隊の編成は、ブラックホーク一機につき十二名、リトルバードとハンヴィーに六名ずつの計三十六名。彼ら新撰組もまた全員が、藩を持たない根無し草であった。その三十六本の浮き草も、やはり三条大橋へ。これで、集まるべき「草」たちは全部出揃ったことになる。
「キー、ウキーッ!」
そう、より正確には、三十六名と一匹であった。
◇場面六 三条大橋西詰・幕府検問所 十八時
三条大橋検問所の幕府役人は、このときまだ喫煙者の取り締まりをやっていた。
「おいっ、窓開けろ、早く開けんか!」
役人は市民の車を拳でガンガン叩き、怒鳴りながらドアを蹴り、鞭で何回もボンネットを叩いた。このような任務につく役人は、市民に対してどれくらい横暴な態度を取れるかということが資質になる。窓がゆっくり開くと、車内から白い煙が温泉のように濛々と噴き出した。
「我々は京都町奉行所の者だ。役儀によって取り調べを……おいっ、貴様は何を吸っとるか!」
役人は車内の若者たちを指差し、目尻を吊り上げた。乗っている四人全員が煙管を持ち、口から煙を吐き出している。
「煙草が重罪だということを知っとるだろうな」
「お役人さん。これは、阿片だよおー。煙草じゃないぜ」
「なにっ。ほんとだろうな」
「おう、ほんとよ、ほんと。試してみたら」
「よし、お前やれっ」
役人は部下の同心一名に命じ、試しに吸わせてみた。一服つけてしばらくすると、急に表情が弛緩し始め、物凄く笑いだした。
「ふふ、あはは、ひゃーははははは、ウオーウオー、阪神タイガース、阪神タイガース優勝です! おめでとう、泣いています、泣いていますねえ!」
彼は服を全部脱ぎ、全力で走り出すと、橋の欄干を乗り越え、真っ直ぐ鴨川に飛び込んでいった。役人は頷いた。
「うむ、間違いないなっ。行っていいぞ!」
「あいよ」
阿片中毒者たちの車が去ると、さっきのとは別の同心が来て、報告した。
「失礼します。定時になりました、引き上げますか」
「おう、そうだな」
「帰ろう帰ろう」
十八時だった。役人たちは定時になり、全員帰っていく。その動きは素早く、寸刻も無駄にすまじという、風の如き勢いである。
「ふー、やれやれ。これで吸えるぜ」
検問に並んでいた車のドライバーたちは息をつき、みな一斉に煙草を吸い始める。そこへ、近付いてくるヘリのローター音が聞こえてきた。ミラーで見ると、白い山型記号がヘリコプターの下側に見える。
「むっ、まずい、新撰組だ!」
ドライバーたちは煙草をすぐに隠し、車のアクセルを踏み込んで、道路の空いている隙間へ、我先にと自分の車を割り込ませていく。橋周辺で混雑していた車列は、蜘蛛の子を散らすように掻き消えた。その無人になった空間の上空に、新撰組のブラックホークが旋回して乗り付け、空中で停止。ローターの風で砂塵が舞い上がり、沿道に波打つ。原田は咽喉マイクに手を当て、機内の全員に呼びかけた。
「よーし、お前たち。じゃあもう一回作戦を確認するぞーっ。今回は簡単な仕事だ。我々はこれから降下し、三条大橋袂の公儀御制札を確保、これをお守りする。不穏な動きをする者がいた場合は、まず撃ち殺し、その後警告、威嚇射撃ーっ」
「隊長、そこ逆です!」
「間違えた。まず警告、そして撃ち殺し、それから……、あーっもう何でもいいや、とにかく、要点は二つある! まず、制札はお守りすること、怪しい人間は撃ち殺すこと。または、怪しい人間を撃ち殺してから、制札をお守りするでもいいぞーっ。分かったなー」
「よーく分かったであります」
「よーし、では秒読みをする。五秒後に降下開始! 五、四、一、九、七、あー、えーっと、まあいいや行くぞ、ゼロだーっ」
「降下開始、降下開始!」
ホバリングしたブラックホークの両側面から、二本ずつのロープが地上に投げ落とされ、AK47を背負った新撰組隊士が降下を始めた。一回の降下で四人、二回目で八人と、矢継ぎ早に隊士らが降り、最後に原田が残った。原田は鉢金を締め、ケブラー繊維の防弾チョッキを羽織の下に着ると、コルトガバメント自動拳銃の遊底をチェックする。
「じゃー、行ってくるぜい」
「隊長、お気をつけて!」
機上に残るパイロットとガンナーらが振り返り、ヘルメットバイザ越しに原田へ笑いかけた。原田も左手を挙げて答える。
「お前らも上空の警戒しっかり頼むぞ、すぐ二番機が来るからな」
「分かってます。隊長、実はこの任務のあと、おれたちも結婚するんですよ」
「なに、お前らもか。相手は誰なんだ?」
前席の二人はがっしりと肩を組み、原田に親指を立てた。
「おれたちです!」
「えっ、あ、ああそうか……。分かった、お幸せにな」
原田は目を左右に動かすと、小さく二回頷き、手早くロープを掴んだ。滑り降りる。
ローターの回転音の中にかすかに混ざるロープの擦れる音を聞きながら、原田は眼下の町屋を見た。すでに日はほとんど暮れ落ち、ヘリから照射される探照灯の明かりが眩く白い。家並みは光の中に浮かび上がり、黒々と濃い影を落としていた。
「なにか変だ」
原田は呟いた。静かすぎる、町屋の住民の動きが一切見られない。
ローターの音が一機分増えた。新井忠雄指揮の二番機は、一番機の降下終了と同時に入れ替わり、降下地点につくことになっている。一番機は上昇、付近の警戒につく。
「お前ら、何も異常ないか」
地面に降りた原田は、先に降りていた九名の隊士に訊ねた。部隊は制札周辺に陣地構築を始め、軽機関銃を据えつけたところだった。
「はあ、今のところ何も」
「そうか。どうも町屋の様子が臭い。見てくるから少しのあいだ頼む」
「大丈夫ですか? 一人で……」
「心配ない、おれには幸運の女神がついてるんだ。もし敵がいたら臭いで分かる」
「なるほど。よーし、蛸壺を掘るぞー」
隊士たちはユンボを操縦し、幕府が立てた「禁煙」の札の前に蛸壺壕を掘ると、その中に入り、一服し始めた。新撰組始まって以来、こんな暇な任務はないだろうと彼らは思った。一晩中ここにいて、この立て札を見てればいいのだ。煙草でも吸わなければやっていられない。
原田は町屋の裏通りに沿って壁を伝い、辻角の酒屋の木戸をゆっくりと開けた。表の十字路では二番機が降下位置につき、探照灯の明かりを辺りに落としながら、降下用のロープを投げ下ろしている。上空で警戒していた一番機が、最初に異変に気付いた。
「RPGを持った奴らがいる」
パイロットの隊士がそれを発見した。
「町屋の屋根上だ、あれを見ろ!」
ミニガンを操作するガンナーは照準用カメラをナイトヴィジョンに切り替えて、パイロットの指差したあたりをサーチ。チェックのネルシャツを着た数人の連中が、何か話しながら固まって移動している。そのうちの一人が、降下作戦中のヘリに向かって、何か細長い箱状のものを掲げた。ガンナーはカメラをズームしてその物体を見る。RPG。
「おっ、あのゲーム、おれも持ってるんだよねー」
「何をやってんだバカ、そっちじゃない、あれだ!」
パイロットは改めて地上を指し示した。なるほど今度は本物である。カラシニコフやRPG7を持った連中が、町屋の二階から這い上がり、ぞろぞろと屋根上に登ってきていた。
「あーよし、今度は見えた。やばいぜ、隊長に知らせよう」
「隊長隊長、聞こえますか。こちら一番、どうぞ」
『隊長だ。一番、どうした』
「あー、屋根の上に変な奴らがいます。覆面の浪士風、十人程度、カラシニコフを装備。RPGで二番を照準中。場所は辻の角、酒屋の上。どうしますか」
『ふむ……、それなら知ってるよ』
原田は答えながら、目を右から左へと動かした。部屋一杯の武装した男たちが、原田を取り囲み、銃を向けている。
「なんでもないと言え」
頭を総髪にした志士らしい男が原田に言った。
「ヘリを引き上げるよう命令しろ」
「やだと言ったら?」
「無論、そのときは死んでもらう」
男は拳銃のスライドを動かして、原田に向けた。原田は銃口を両目で見つめ、「そうか」と呟いて、考えた。
「じゃあ帰れと命令したあと、やっぱり撃てと命じたら?」
「なに? ふむ……。いや、それもやはり、死んでもらうことになる」
一瞬顔を見合わせ、ざわざわとした室内の浪士たちも、男がそう答えたので、みんなそれに合わせて頷いた。原田はさらに訊いた。
「もしヘリを引き上げさせたら、どうなるんだ。こっちの命は助かるのか?」
「いや、それもちょっと。やっぱり死んでもらうことになる、かも……」
「おい、なんだそりゃあ。じゃあこっちの態度がどうだろうと、結果は変わらんってことか?」
「まあ、その、つまりそういうことに……」
「わはは、なるほど。いや、よく分かった。ありがとう」
原田のパンチが男の顔面にめりこんだ。殴られた衝撃で男の拳銃が暴発し、AK47を持っていた浪士の腹に命中する。浪士は自分の腹に大穴が開いたショックで叫び、筋肉が緊張して、AKを横薙ぎに乱射、四、五人の浪士がもんどり打って倒れた。原田は床を転がって拳銃を拾い、こちらに銃を向けた二人を射殺、残る一人に飛び掛って押し倒し、跨って死ぬまで殴りつけた。
「隊長より一番、掃射しろ! 全員戦闘準備!」
原田はよろめいて立ち上がった志士風の男の頭を撃ち、咽喉マイクで命令。何かが降ってくる感覚がした。原田は倒れている敵のAKを奪い、外に向かって走る。家屋の天井が裂け始めたとき、原田は表通りに転がり出た。多銃身高速機関砲の地上掃射で、木造二階建ての酒屋は、粉砕機に掛けられた木材のように木っ端微塵になる。砂の柱が吹き上がり、流れ弾を食った裏通りの長屋も何軒か一緒に消し飛んだ。
「おーいお前ら、敵だ! 町屋にワンサとクソどもがいるぞーっ」
沿道の商家から浪士団が姿を現し、二階屋の障子を開いて、機関銃を撃ち始めた。原田の足元に機銃弾が着弾煙を立てる。
「隊長だ、援護しろ!」
蛸壺壕の中の隊士らが走ってくる原田に気付き、持っている火器で町屋を掃射した。家々の破片が道に飛び散り、弾痕が物凄く刻まれる。家屋の表戸を蹴破って路上に現れた浪士らの数は、数十人から百人以上の規模になり、各々が手持ちの銃を手当たり次第に撃ちまくり、叫喚を挙げながら突撃してくる。
「うおーっ」
「わあ、わあ」
「このやろー、このやろー」
群衆的熱狂の中、人間の知性らしいものが極限まで低まった人々は、まず言語を忘れるようであった。怒りなどの感情を表現するために、もっと手っ取り早い道具を手にしている場合では、なおさらである。
「くそったれーっ!」
明らかに敵の人数が手持ちの弾数よりも多かった。原田は分捕ったAK47の三十発弾倉を撃ちつくし、空になったライフルを敵の群れに向かって投げつける。それが先頭の浪士の額に当たり、昏倒したので、群れ全体が彼に蹴躓き、倒れこんだ。その隙に、いま降下したばかりの二番機の隊士らが原田と合流し、制札の場所まで射撃しつつ後退させた。二番機を指揮していた伍長(副隊長)の新井忠雄が、血相を変えて駆け寄ってくる。
「隊長、何事ですか!」
「新井君、どうも予想と違うことになったみたいだぞ。敵は大勢で待ち伏せていたらしい。奴らは夜になるのを待って……」
原田は「禁煙」の立て札を顎で指し、続けた。
「制札を一気に引き抜くつもりだったに違いねえ。えらいことになった」
「狙いは『禁煙』の札ですか? それだけであんな重武装を?」
「そうだ」
原田は煙草を一本銜え、黄燐マッチを鉢金で擦って火をつけた。目は周囲の地形を見回し、素早く作戦を立てている。口から煙を吐き出し、原田は言った。
「あの『禁煙』の札は公儀の威信の象徴だ。どんな理由があろうと、奴らの手には渡せねえ。絶対、この場所を死守するぞ。いいか、まず十字砲火を作りたい。君はあそこの会所付近に陣地構築しろ。もう全員降下したのか?」
「いえ、まだ二名ほど残ってますが……」
新井が二番機を見上げたとき、滞空中のブラックホークにRPGの弾頭が突き刺さり、轟音を立てて爆発した。オレンジ色の炎が噴き上がり、黒焦げになった残骸が土砂を舞い上げる。千切れ飛んできた肩から先の部分が、原田の足元に落ちた。
「あー、全員降りました。我が方四名戦死」
「よし、分かった」
原田は新井を行かせ、蛸壺に飛び込む。銃弾がピュッと耳元を掠めた。壕の中では、行商の荷物のような無線機を背負った隊士が、しきりに本部を呼び出そうとしている。
「通信、本部出たか」
「いや、応答ありません。機械は正常ですが、何らかの理由で繋がらないようです」
「くそ、一体何をやってるんだ」
原田は口惜しがり、「天誅」と叫んで突っ込んできた浪士一人をついでに射殺、空になった拳銃の弾倉を捨て、交換した。
「まあいい、とにかく呼び続けてくれ」
「はい」
敵の数がさらに増えるような予感があった。原田はとりあえず、リトルバードの隊士四名を橋の東側に降ろし、徒歩で向かうよう命じた。が、敵側がより勢力を増し、数百人規模にまで増えるようなことになれば、防ぎきれるかどうか分からない。早急に増援が必要である。
「本部本部、こちらマル十、敵と交戦中、聞こえますか、応答どうぞーっ」
しかし幾ら呼んでも、西本願寺の新撰組屯所は沈黙していた。まるで眠ってしまったかのようである。いや、現実には屯所は眠るどころではなく、新撰組隊士の全員が出勤し、忙しく立ち働いていた。屯所の無線機は動いていたが、土方の命令で、通信係の者も別の仕事に従事していたのである。
「ケーキの飾りつけだけど、こんな感じでいいのかな?」
「ああ、そんなもんで充分だろ」
「どうせ原田さんのことだ、飾りも何も一口で食っちまうよ」
屯所の中庭には特大のウェディングケーキが用意され、その周囲でだんだら羽織を着た隊士たちが「原田左之助、結婚披露宴」の横断幕をかけている。
「その横断幕、もっと右がいい。あー、そのあたりだ、よし」
土方は庭のまんなかに台を置き、その上に立って配置を細かく指示していた。そこへ、新撰組の小旗を立てたキャデラックがきた。
「おうい、歳さん。こりゃ何の騒ぎだい」
「近藤さん。ゴルフはどうだったかね」
「ふん、最悪さ」
ゴルフウェアにだんだら羽織を纏った新撰組局長・近藤勇は、被っていたハンチング帽を放り投げ、腕を組んだ。彼は池田屋ノ変では自ら先頭に立って突撃したほどの豪傑だが、このごろは新撰組の名が高くなり、諸藩重役との接待に駆り出される日が続いている。天下無双の武士と自認する彼にとっては不本意この上なく、苛々していた。
「お歴々は戦う意欲がない。ゴルフばかり上手く、なっとらん精神の奴ばかりだ。おれはもうむしゃくしゃしたよ。ところでなんだ、原田左之助結婚? おいおい本当か、原田はどこにいる?」
「いま、任務で出てるんだ。帰ってきたら全員で祝おうと思って飾り付けてたんだ。なかなかいいだろう」
「ふむ。しかし何か足りんようだな。物足りん」
「そうかね?」
「歳さん、あんたは隊を運営していく才能はあるが、仲人はやったことないだろう。こういうのはもっとスゲー派手にするのがいいに決まってる。原田はああいう性格だ、その方が本人も喜ぶだろう」
「近藤さん、あんたはやはり、将の器だ。士の心を分かっている」
「わはは歳さん、そう思うかね。実はおれもそう思うんだよ。おい、誰か花火を出してきてくれ、超スゲーでかいやつだぞ」
だが不幸なことに、この命令は誤って伝わってしまった。のちに分かったことだが、この日、花火担当の隊士が風邪をひいて休んでおり、代わりに部署が近い戦略ミサイル担当隊士のところへこの命令がきた。彼は「発射準備」と言われたのを、自分が受け持つ中距離弾道ミサイルSS20のことだと勘違いしてしまったのである。
「なに、発射準備。そりゃ本当の命令か。確かなんだな」
「しつこいな。局長自らそう言われたんだ。間違いない」
「ふん、分かった。いつかはこの日が来ると思っていたんだ」
西本願寺地下にあるミサイルサイロの発射扉が開放され、黄色い警告灯が回転した。戦術核を搭載した尖った弾頭が地表に出現し、ロックされる。
ミサイル発射キーは近藤のもとに送られた。本来は近藤、土方、伊東の三者が同時にキーを回さなければ発射できない仕組みだったが、不便なので改造され、ボタンひとつで発射できるようになっている。
「よーし、発射ーっ」
近藤は発射ボタンを押した。境内裏手から閃光が立ち上り、噴煙とともに円柱状の飛翔体が夜空へと吸い込まれ、まばゆい光が雲の上で輝いた。
「ひゅーっ! やったぜい!」
「おれたち勝ち組だあ! 原田、見てるかーっ!」
近藤たちは気勢をあげ、空に向かって機関銃をばんばんと発砲した。
「あっ、もしもし、薩摩藩邸ですか。実はいま新撰組がミサイルを……ウッ!」
なおこのとき、流れ弾に当たった伊東甲子太郎が死亡した。しかし本編の進行上支障はないため、詳細は割愛する。ミサイルは宇宙空間に達し、地球の周囲をまわり始めた。
「こなくそーっ!」
その間にも、三条大橋での事態は進行している。原田の予感は当たり、十番隊の隊士たちは、押し寄せるバイカー浪士、過激派労組、テクニカルに乗った勤王派民兵らと激戦になった。銃弾とRPGが飛び交い、勤王派の手勢は殺しても殺しても次々と現れてきた。
「うおー、うおーっ」
「畜生どもめ!」
機関銃の銃身が焼きつき、原田は蛸壺壕に群がり寄せる浪士たちに直接銃弾を手づかみで投げつけ、応戦した。彼はこの一時間で千人殺害の新記録を立て、時間あたりのハイスコアを更新した。しかし浪士たちもただの射撃の的ではない。RPG7を佃煮にするほど持っている。
「熱源接近!」
原田の隊を乗せてきたブラックホークは、二番機が撃墜されたあとも上空に留まり、援護を続けていたが、ついに運が尽きるときがきた。
「回避しろ、右だ!」
「誰から見た右だ?」
「バカ! こっちだよ!」
レーダーを見ていたガンナーが横から操縦桿に手を伸ばし、強く傾けた。機は横滑りし、ロケット弾はコックピットの目の前を掠めて飛んでいく。二人の手が触れていた。お互いの視線が絡み合い、彼らは抱き合った。
「もう何もこわくない!」
そのとき一発のRPG弾頭がブラックホークのテイルローターに命中し、機体後部を吹き飛ばした。さらに二発が貨物室に直撃し、四発目がコックピットに飛んできた。
「あーっ!」
一点の紅蓮の炎となって夜空に散華したブラックホークが、地上の原田にもよく見えた。原田らは戦闘の合間に敬礼し、彼らの天国への征途を見送った。
「よし、ホモは死滅したな!」
みんな、彼ら二人に心から哀悼の意を示した。労組の組合員と殴り合いながら、原田は考えていた。こちらには確か、もうひとつ部隊があったのではないか? 大石鍬次郎の率いる一隊である。彼らはどこにいるのだろう? 少なくとも、このあたりにはいないように見えるのだが。
◇場面七 相国寺二本松・京都薩摩藩邸
チンパンジーのモモちゃんが運転する大石隊の武装ハンヴィーは、どこに向かって走っているのか、隊員たち自身にも当然分からなかった。すべてはハンドルを握るサルの一存に任せられている。
「おい阿部、ここはどこなんだ。少なくとも鴨川じゃないという確信がある。あれは御所の壁だぜ。やっぱサルに運転させたのはまずかったな」
「だまれだまれ、この差別主義者め。お前みたいなファシスト的ダーウィニズム的思想が国家の狂気を生むんだ。おれたちはただの権力の犬じゃない。良識ある理性に従え」
「はいはい。しかしどこへ向かっているかくらい教えてくれてもいいじゃないか」
チンパンジーは人語に答えることはなかったが、行き先はやがて明らかになった。ハンヴィーは相国寺二本松にある薩摩藩邸の門を破り、二人の門番を轢き殺し、突入した。
「なんだあーっ」
屋敷に詰めていた薩摩藩の藩士らが、血相を変えてわらわらと現れてきた。「誠」と書かれたハンヴィーが停止し、機関銃手用の上部ハッチが開くと、薩藩士らは騒ぎ出し、警報を押した。
「おいっ、殴りこみだ!」
「全員起きろ、敵だ、敵襲だぞ!」
「おっ、な、なんだ? ついたのか?」
大石は身体を起こし、周囲を見回した。車は銃を持った数十人の薩摩人たちに取り巻かれていた。
「やれやれ、なんてザマだこれは。全員降車、戦闘用意!」
隊士らは銃を取り、車を降りて四方の薩摩人らと対峙した。大石は機関銃の席につき、拡声器で薩摩人らに呼びかけた。
「我らは会津中将様お預かり浪士、新撰組の者である。公務中の我らに銃を向けるとは、公儀に対する反逆となるぞ」
「あっ、なんてことだ」
様子を見て仰天したのは大久保利通である。まさか、浪士らを焚きつけて三条大橋へと差し向けたのがばれたのではないか。彼はすぐ走っていき、藩士らと新撰組の間に割って入った。
「おい、やめろやめろ、新撰組の方々もお待ちくだされ。ここは手前ども主人、島津修理太夫様の屋敷内ですぞ。新撰組といえども正式の令状がなければ入れぬはず。持ってますか」
「入れぬと言われても、もう入ってしまった」
「それなら元来たとおり、出てください!」
「よし分かった、浅野君、バックだ。浅野君? どこだ?」
大石は辺りを見回した。運転手の隊士がいない。目を遠くにやると、一匹のチンパンジーが藩邸の奥へ走って行くのが見えた。
「おい、待てーっ」
薩摩藩の数名の武士がそれを追いかけ、飛び掛って捕まえる。なお抵抗するので手を焼き、池に投げ込んだ。大石は上部ハッチから身を乗り出して叫んだ。
「あーっ、きさま、隊士に暴行を加えたな。現行犯で逮捕する、屯所まで来い!」
「誰が行くかい!」
薩摩藩士側も応酬し、怒鳴り返した。大久保はこめかみを押さえた。
「やれるもんなら逮捕してみろ、壬生浪ヤロー」
「そうだ、そうだっ」
「お前らやめろ! 話し合えば分かるはずだ。藩士の非礼をお詫びし申す。かの者については当藩において厳重に処分を致しますので、ここはなにとぞ、穏便にお引き取りを。藩邸内で騒ぎになれば、薩摩との戦争にもなりかねませんぞ」
大久保は藩士たちを取り静め、右の意味のことを大石に言ったのだが、薩摩人とほとんど話したことがない大石は、薩摩の訛りが分からず、よく聞き取れなかった。
「なんだ? 訛りがひどくて分からん。だれか、薩摩言葉が分かる者はいないか」
「どうも、戦になるとか申しておるようですなあ」
「なに、戦になる? そんな重大な話か」
「屯所に戻れば伊東さんがいます。薩藩の友人も多いようですから、詳しく聞きだせるでしょう。連れて行きましょうか」
「よし。おい、お前!」
大石は車上から見下ろしながら、大久保を指差した。それは大石の普通の態度だったのだが、状況がまずすぎた。恐ろしく高圧的に見えたのである。
「聞きたいことがある、屯所まで来い!」
「な、なにっ」
大久保の胃の腑がググッと押し詰まった。そんなところへ行けるわけがない。薩長同盟、倒幕の密計、それに今夜の三条大橋の件。その絵図を描いたのは自分なのである。まさか、幕府はすべて知っているのか?
「どうなされた。なにか不都合でも」
「いや、えーっとそう、実はこのあと、歯医者の予約がありましてな。ははは、あーっ痛た、歯が痛い、歯が痛いなあ」
「どれ、見て進ぜよう」
大石は車から飛び降り、奥のほうへ退きかけた大久保の腕を取った。大石は腕力が凄まじく、傍目には大久保の腕をねじり上げたようにしか見えなかった。
「うぎゃあ! 痛い!」
「おい見ろーっ、大久保さんが!」
「やりやがったな畜生!」
それをきっかけに、凄まじい銃撃戦が始まった。薩摩藩側のほうが数は多いが、みな寝巻き姿であり、銃弾を防ぐものがなく、ばたばたと倒される。新撰組は完全武装の上、ボディアーマーを着ているので、すぐにはやられない。
「半次郎! 桂さんを逃がせ、桂さんを!」
大久保は大石に羽交い絞めにされ、奥歯の様子を見られながら、藩邸の奥に向かって指示した。藩士の中村半次郎が飛んでいき、桂の部屋を開ける。桂はすでに逃げていた。部屋にはハリボテだけが残されている。桂は逃げの名人と言われるほどだから、逃げ足は尋常でなく素早いのである。
「桂さん、新撰組の手入れです。お早くお逃げくだされ!」
中村はハリボテの前に片膝をつき、手早くそう告げると、西郷の離れに走っていった。建物の壁のボタンを押すと、壁の一部が回転し、レバースイッチが四つ現れる。中村はそのスイッチを四つともガシャンガシャンと下げ降ろし、急いでその場を離れた。付近に閃光が走り、西郷の離れ屋につけられたロケットブースター四基が点火、建物は地上から浮き上がり、鹿児島に向かって飛んでいく。
「このやろーっ、死ねーっ」
「薩摩芋野郎ーっ!」
新撰組と薩摩藩は死闘を演じ、自動小銃の音に機関銃の重々しい唸り声が混ざり始めた。新撰組側も頭を撃ちぬかれ死亡する隊士が出始め、隊士らは報復に二十ミリ機関砲で薩摩側を胴体真っ二つにするなど、使用武器のグレードもエスカレートしていった。
「やめろ! お前たちやめろ、やめてくれ!」
大久保は、武器を持って戦う無数の人間たちが、次々と地面に折り重なり、肉と血の塊に変わって行く様子を見て、たまらなくなり、叫んだ。
「そんなことをして何になる。同じ日本人じゃないか。みんなやめてくれ、もう、こんなことはやめるんだ!」
彼はこの瞬間、別の人間になっていた。いや、恐らくは本来の彼自身になったのだろう。大久保は大石の手を振りほどき、両勢力の間に両手を広げて立った。
「戦いをやめてくれ!」
その頭が鮮血をあげて吹っ飛んだ。機関砲弾の直撃を受けた肉体が、血液の袋のように破裂する。
「あっ、撃っちゃったよ。あいつ、なんて言ってたんだろう?」
「多分、『手相を見てくれ、今日はラッキーデイ』だと思う」
人々はまた激戦に戻った。大石はハンヴィーからミニガンを出し、腰だめで撃ちまくる。人間は薪藁のように倒れ伏していった。もう、誰がどんな風に死んでいっても、お互い気にすることはなくなった。生きている人間は、死んだ人間の数を数えるのをやめた。
◇場面八 大坂城大本営・二十三時四十分
「なにっ、それは本当か。確かなんだな!」
夜も深まった頃、大坂城柳営にあった京都守護職・松平容保は、黒谷会津本陣からの電話を受け、血の気の引いた顔を強張らせた。彼は受話器を元に戻すと、目をしばたたかせ、長い息を洩らした。大変な事態が起きているのを知ったのである。彼は慶喜の居室に行くと、挨拶もそこそこに襖を開け放った。
「一橋候、一大事が出来しましたぞ」
慶喜は起きていた。彼はパソコンに向かい、マウスを持って熱心に何かをやっている。
「肥後守か。少し待て、もうすぐだ、もう間もなく萩城を陥落できる。明日朝には落城間違いなしだ。よおし、見ておれよーっ」
「候! ゲームどころではありませぬ」
「なんだ、うるさい。無粋な奴だな。何が起きたというのだ」
慶喜は戦争ゲームを一時中断し、椅子を回して容保に向き直った。容保は先の電話で連絡のあった内容を慶喜に話した。
「ただいま京都から知らせが。さきほど新撰組が薩摩の藩邸に討ち入り、戦闘を開始したとのことです」
「ぎゃっ! なっ、なんだあ? 新撰組が?」
慶喜は素っ頓狂な声を出し、椅子から転げ落ちるほど驚いた。池田屋のときは長州との戦争になった。今度も事実なら、かならず薩摩との戦争になるだろう。
「誰の命令だっ。そんな、勝手に戦争を開始してはいかんじゃないか。余が、余が命令するまでは駄目だあ!」
慶喜はかんしゃくを起こし、椅子を蹴っ飛ばしたり、キーボードを掴んで叩き壊したりし始めた。容保は静かな口調のまま答えた。
「いえ、候が命令されました。先日お出しになった禁煙令はお忘れですか?」
「なにっ、禁煙……? あ、ああ、もちろん覚えているさ。それがどうした」
「その付属条項にあります。禁煙実行部隊は現地の判断で、どのような行動も許可される。新撰組も三条制札守護のため、本日から編成に加わっております。このなかの一隊が何らかの事情から、薩藩の屋敷に突入したものと思われ……」
「あーっ、もういい! たくさんだ!」
慶喜は頭を掻きむしり、ひとしきり喚いたあと、引き出しから葉巻を取り出し、その尻を噛み千切った。
「もう禁煙はやめだっ、やめだやめやめ。余は、本当は禁煙令など出したくなかったのだ。中止! 長州征伐もすぐ中止せよ、薩摩兵がいつ大坂湾に上陸してくるか分からぬ!」
「は、畏まりました」
容保は一礼して、足早に部屋を辞していった。すぐに京へ帰って命令を出し、事態を収拾させねばならない。部屋の前の廊下では多数の幕臣が集まり、襖や壁に耳を当て、一連の会話を聞いていた。容保が去るのを見送ると、彼らは顔を見合わせ、そしてすぐ、パチパチとライターの火をつけ、煙草を吸い始めた。
「はあ……、うめえ、最高だ」
おかしなことだが、この幕末の政局に一番無関心だったのは彼ら幕臣たちだった。彼ら幕府の官僚は、政府を動かすために自分たちの能力が必要だということを自覚しており、それは政権が徳川から薩長に移っても変わらないと確信していた。事実、彼らの中には維新後明治政府に登用される者も多く、政府や陸海軍の要職をなした。
「ま、なにがあろうと、我々には関係ないですなあ」
「新国家には我らエリートの力が必要だ」
「おお、そうだそうだ、本当だ」
だが不幸なことに、彼らはその道を閉ざされることになった。宇宙空間をしばらく周回していた戦術核弾頭が大坂城本丸に落ち、一・五メガトンの爆発が、天守閣を一撃で炎上させ、城郭の構造物をひとつ残らずばらばらに吹き飛ばし、跡形もなく消滅させたからである。
◇場面九 京都三条大橋・朝
果てしない喧騒の一夜が明け始めた。原田は、頬に差してくる明るい日の光に薄目を開け、ゆっくり起き上がった。
「やれやれ、どうなってるんだ、これは」
自分が昨日、どうやって夜を明かしたのか、よく覚えていなかった。目が覚めたとき、原田は「禁煙」の制札を抱き、蛸壺壕の中に横たわる新撰組と勤王派の無数の死骸とともに、折り重なって倒れていた。
朝靄に包まれた通りには、バイクやテクニカル車輌の残骸が散乱し、沿道にあったはずの町屋の並びは、絨毯爆撃のあとのように消えている。惨憺たる光景だった。原田は制札を手に持ったまま、その場に立ち上がった。
「おうーい、誰か生きてる者は、生きてる奴はいるかーっ」
原田は廃墟になった通りへ、大声で呼びかけた。返ってくる声はなかった。動くものの気配さえない。かすかな風に乗って、黒い灰がさらさらと足元を流れるだけである。原田はため息をつき、制札を力なく投げ捨てた。
深呼吸をし、朝の気を吸う。すると、何かがひどく臭った。臭いのもとを辿ると、巨大なタンクローリーが会所に突っ込み、横転しているのが見えた。
「う、ひどいなこれ」
近付いてみると、タンクの中のガソリンがだらだらと地面に洩れ、黒い川のように流れている。原田は手を鼻に当て、顔をしかめた。
「おーい、原田隊長ーっ!」
そこへ、一人の隊士が駆けてきた。ハンヴィーに乗り遅れた監察部の隊士、浅野薫である。彼は一晩、ハンヴィーのあとを追って走り回っていたのだが、ついに追いつけず、諦めて三条大橋へ直接歩いてきたのであった。
「おお、浅野君。きみは生きてたか。一人か?」
「はあ」
浅野は、便所に行っている間に置いていかれたとは言い出せず、代わりに原田に訊ねた。
「とこであの、戦闘はどうなりましたか」
「戦闘か」
原田はすこし俯き、辺りの惨状を顎で示して続けた。
「戦闘はまあ、この通りだ。敵も味方も全員死んじまった。おかしなものだな。奴らは死に、おれたちは生き残った。なぜだろうと思わせられる。きっと、理由なんぞないのにな」
浅野は、何も言わなかった。彼にとってはちゃんと理由はある。便所に行っていて、ハンヴィーに乗り遅れたのだ。しかし原田は、その沈黙が浅野の深い悲しみによるものだと理解した。自分と同じように。
「まあ、一服つけろよ。ほら、死んだ奴らには吸えなかったものだ」
「はい、頂きます」
原田は煙草を出し、浅野に一本与えた。自分でも一本くわえ、マッチを出す。そこで、記憶がよみがえった。この寄りかかっている背中のものが、どういう状態のものだったか。
「待て、やっぱり煙草は吸うな!」
「えっ?」
浅野は怪訝な目を横向け、同時にライターで火をつけた。周辺一区画が大爆発に包まれた。制札が、京の空高く舞い上がる。
ノー・スモーキング。ここは禁煙。
(『ノー・スモーキング!』終)