ダンバの休日-3
ダンバのレストラン厨房
ダンバは、マッシュルームの石づきを器用にナイフで取り除きながら、ドラセノの話を思いだす。「今になってゾンビウイルスが人に感染するから、すぐに街を離れるべき」という話で、誰も言葉を返せずにいた。そんな中、「俺はヴエロが戻るのを待つ」とダンバは言ったのであった。
ドラセノは一瞬記憶を辿り、思い当たる人物がいなかったのだろう。目線をラッチに向ける。ラッチは「今朝、ゾンビ牛を捕まえにメタムに向かった」とだけ言う。すぐにドラセノが何か言おうとしたが、ラッチが手のひらをかざす。「今日は無理だ。これから準備しても深夜になる。明日まで待つとしよう」
有無を言わさぬ態度であった。
ダンバは考えていた。街を出てどこへ行くというのだ。危険が迫っていることは理解できるが、感染した場合の実害が不明だった。もちろん大丈夫であったとして訳の分からないウイルスに感染したままでいたいとは思わないが。
ドラセノは研究の時間を稼ぎたいのだろう。それも理解できる。ドラセノの研究にかかっているといっても過言ではないのだから。
「ドンドンドンッ」
乱暴に扉を叩く音がした。臨時休業の張り紙が読めない酔いどれに違いないとがっくり肩を落とすダンバ。
「ドンドンッ」
ナイフで切り取ったマッシュルームの石づきを一か所にまとめながら、ほんの一瞬、またサンテロが急用で訪ねてきた可能性もあるなと思い、作業を止めた。
「ガッシャ―ン・・・・」
窓ガラスにこぶし大の石でも投げこんだような音で、さすがのダンバも驚く。厨房とフロアを仕切る扉をバンッと勢いよく開き、割れた窓に駆け寄ろうとし、ピタリと足を止める。
割れた窓の縁に、首を引っかけるように人間の頭がぶら下がっている。胴体は外側だろう。思い切り頭を窓に叩きつけたらそうなるであろう状況にみえる。ほとんど後頭部しか見えないが、短髪であることを考えるとおそらく男性だろう。
『それ』は微動だにしない。
ダンバは冷静だった。もしドラセノの話を聞いていなかったら、酔っ払いだと思って近く寄り、介抱していただろう。しかし、今の状況ではその判断は命取りになりかねない。すでにこの街でも何かが起きていると考えて行動すべきだ。
ダンバは音もなくスッと腰を落とし、『それ』の後頭部から視線を外し、割れた窓のさらに奥、外の様子に目と耳を集中させた。
普段であれば、この時間はまだ多くの人が通行しているはずだ。しかし、誰一人として通り過ぎる気配がない。
窓ガラスが割れる音は外にも響いたはずだが、誰も近寄ってこない。明らかにいつもとは違う。静寂が通りを支配していた。
ダンバは息を殺し、窓枠から切り取られた外の風景をじっくりと観察した。どこかで動きが見えればと期待しつつ、じゅうぶんに時間をかけて判断する。何かが起きているのは間違いない。
ゆっくりと立ち上がったダンバは、注意深く2階へ上がり、自室の金庫に向かう。金庫を開けると、そこにはハンター時代に使っていたハンドガンタイプの銃が2丁収められていた。側面には『P90』と刻印されている。ダンバはそれを慎重に取り出し、ありったけの弾薬の箱をカバンに詰め込む。
「ラッチのところに戻らねえと。」
小さな声で自分に言い聞かせるように呟きながら、2階の窓をそっと開けた。その瞬間、ふと何かをやり忘れたことに気づく。
手早く紙の上でペンを走らせ、紙をテーブルに残すと、再び窓に向かった。今度は迷いなく窓を乗り越え、屋根に出る。
背負ったバッグの紐を左手でしっかりと握りながら、音を立てないよう慎重に屋根を移動していく。月明かりがかろうじて足元を照らす中、ダンバは最大限の注意を払って一歩一歩を進めた。
その時、足元に集中していたダンバは、突然の違和感に襲われた。
驚きとともに顔を上げ、街の中心部の方向を振り返る。
遠くの方から、街の灯りが次々と消えていく。
まとまったエリアごとに、バンッ、バンッ、バンッ、と音を立てるようにして闇が広がる。その光景はまるで見えない波が押し寄せてくるかのようだった。
ダンバは振り返った姿勢のまま立ち尽くした。背中にじっとりと汗が滲む。次第に自分のいるエリアにも迫ってくるその暗闇を前に、彼は息を呑む。
そして次の瞬間、彼もその闇に飲み込まれた。
「ラッチ!サンテロ!いるか!」
ダンバはラッチの店の裏口の扉を叩いた。しかし、中からは何の応答もない。しばらく待ち、もう一度ノックしようと手を上げたとき、内側からガチャンと鍵の開く音がした。
僅かに開いた扉の隙間から強い光が漏れ、ダンバは眩しさに顔を伏せる。薄く開いた目で扉の隙間を覗き込むが、中の様子を窺うことはできなかった。
「ラッチとサンテロは外に出ているが、じきに戻る。」
聞き覚えのある低い声。それはドラセノだった。
部屋の中は暗闇に包まれていた。ドラセノは懐中電灯で床を照らしながら「こっちへ」とだけ言うと、先を歩き出した。ダンバはその後を黙ってついていく。彼が案内されたのは、先ほど4人で話をしていた部屋だった。だが、そこには以前にはなかった地下へ続く階段が現れていた。
ダンバは、この店に地下室があることをこれまで知らなかった。
「こっちだ。」
ドラセノは懐中電灯で階段を照らしながら暗い地下へ降りていく。ダンバもそれに続いた。
30段ほど下りただろうか。ダンバは自分の店の地下室よりも随分深いことに気付く。階段の一番下にたどり着くと、金属製の重厚な扉が目の前に現れた。ドラセノは片手でそれを押し開ける。見た目ほど重くはなさそうだ。
扉の先は明るく照らされていた。電気がしっかりと機能しているのがわかる。ダンバは思わず心の中で感嘆する。流石はラッチだ。万が一に備え、自家用の発電設備まで用意しているとは。
懐中電灯を消したドラセノは歩く速度を速める。
地下室には「コ」の字型の廊下が広がり、その両側に扉がいくつも並んでいる。それぞれが別の部屋になっているようだ。ガレージを含む地上の敷地面積よりも広い空間が、この地下に広がっているのだ。
ドラセノはある扉の前で立ち止まり、ノブを回して扉を開けた。
「ここで待っていてくれ。」
それだけ言い残すと、彼は振り返って去っていった。
ダンバが中を覗くと、すぐにそれが厨房であることがわかった。ただし、部屋の一角には「非常食」と書かれた金属の箱が山のように積まれ、どちらかといえば倉庫のような印象だった。
ダンバは金属のイスを引いて腰かけた。テーブルもイスもすべて金属製で、凹み一つなく新品同様だった。
しばらくすると、扉のノブが再び回った。入ってきたのはドラセノだった。彼は先ほどと変わらない無表情のまま、ダンバの向かい側のイスを引き、どっしりと腰を下ろした。
ダンバは問いかけた。「ラッチとサンテロはどこに行ったんだ?」
ドラセノは眼鏡を外し、テーブルにそっと置いた。
「この街の発電所を見に行った。停電になったのは知っているよな。」そう言いながら、ドラセノは後ろに束ねた長い髪を後ろから両手でかき上げた。
「少し慌てているように見えたな。」ドラセノの声にわずかな焦りが混じるが、かき上げた髪が顔を隠し、その表情は読めない。
「この街の電力システムはラッチが設計したものだ。停電が起きてもバックアップがある。ラッチは定期的に周辺の廃墟街にある発電設備のメンテナンスも行っていたそうだ。それなのに、完全に停電するなんて、ありえないと言っていたよ」
ドラセノは今度は前から髪をかきあげ、またオールバックに戻した。
ダンバは腕を組み、深く考え込んだ。店の窓ガラスを突き破った『人』、街全体の停電、そして外の異様な静けさ。どれも気になるが、まだその関連性を見出せない。
「ウイルスに感染した人間はどんな特徴があるんだ?」
ダンバの質問に、ドラセノは一瞬だけ沈黙した。眼鏡を拭きながら首を傾げると、しばらく考え込んだ後で手を止めた。
「感染者を見たのか?」鋭い口調で問い返す。
「いや、感染者かどうかはわからん。ただ、様子がおかしい人間がいた。」
ドラセノは眼鏡をかけ直し、静かに語り始めた。
「基本的には、ゾンビ化した生物と変わらない。こちらから危害を加えない限り、襲われることは少ない。」
ドラセノは一息つき、ダンバをじっと見つめる。
「ゾンビ牛が咀嚼行為をすることは知っているな?」
「それがどうした?」
「ゾンビ牛の咀嚼行為は、ゾンビ化する前の採餌が無意識に残った結果だと考えられている。研究者の見解では、そこに意思は存在しない。」
ドラセノは視線を落とし、静かに続ける。
「一部のゾンビ化した生物にも同様の行動が確認されているが、人間の場合、その傾向が特に顕著に現れる。感染者がゾンビ化すると、日常的な行動を取る。」
ドラセノは最後に再びダンバの目を覗き込む。その視線には何かを確かめようとするような意図があった。
「例えばダンバ。君が感染したとしよう。」
「君は普段、朝起きて何をする?」ドラセノが問いかける。
しばらく考えたダンバは、記憶をたどるように口を開いた。
「コック服を羽織って1階のレストランに降りて、厨房で顔を洗って目を覚まして、それから歯を磨きながら・・・」
ドラセノは手を前に出しダンバを制した。
「・・・君は厨房で顔を洗って歯を磨くのかい?・・・いや、それはいい。…話を戻そう」
「もし君がゾンビになったら、今言った行動を繰り返すということだ。」
「コック服があろうが無かろうが、『服を着る』という行為をするし、蛇口から水が出ようが出まいが、『顔を洗う』フリをするのさ。」
ダンバはさらに考え込んだ。ドラセノの話を聞く限り、店で見たものが感染者だったのかどうか判断がつかない。本当にただの人だった可能性もある。しかし、あのときダンバは直感的に『人ではないモノ』だと判断した。その感覚に間違いはないと信じている。
「ガチャリ」
部屋の扉が開いた。入ってきたのはラッチとサンテロだった。
「来ていたか、ダンバ。ちょうどよかった。」ラッチが安堵の表情を浮かべる。
ドサリと荷物を部屋の隅に置き、『非常食』と書かれた箱からペットボトルの水を取り出す。1本はサンテロに向けて弧を描くように投げ、さらにテーブルに2本を置いて、ダンバとドラセノに向けて滑らせる。
ラッチも自分用に1本取り出し、蓋を開けるとゴクリゴクリと半分ほど飲み干した。そして金属のイスを引き、ドラセノの隣に腰を下ろす。
その様子を見ながら、ダンバは自分がレストランを出てから何も口にしていなかったことに気付いた。
ペットボトルの蓋を開け、一口飲む。乾いていた口の中が潤い、少しだけ落ち着きを取り戻すことができた。
「さてと、ダンバ。どこまで状況を理解している?」ラッチが静かに問いかける。
「停電とその確認のために発電所を見に行っていたことだけだ。それと……うちの店で感染者を見たかもしれん。」
「街の様子はどうだった?」ラッチは顎に手を当て、さらに尋ねる。
「うちの店の周りしか見てないが、あまりにも静かだった。普段では考えられん状況だった。」ダンバは落ち着いた口調で先ほどの状況を伝えた。
「なるほど。そしてここに来たわけだな。」ラッチは腕を組み直し、小さく頷く。
「こっちの報告だが、サンテロと発電所を見てきた。ホーロウ自体は問題ない。ただ……すべての廃墟街からの送電が止まっていると考えていいだろう。信じたくはねえが。」
ラッチの目は細まり、厳しい表情を浮かべている。自分で確かめた事実を口にしながらも、それを信じたくない気持ちが滲んでいた。
「だが、今の問題はそっちじゃねえ。」ラッチは視線を上げ、周囲を見渡す。
「俺たちも街の様子を見てきたが、ありゃもう人間じゃねえな。」
「停電で混乱しているのはおそらく本物の人間だ。だが、真っ暗なマーケットで何事もなかったように飲み食いしている連中がいた。だが、そいつらのグラスや皿には何も入っちゃいなかったんだぜ。」
その言葉に、ダンバの背筋が凍りついた。
もしそれが本当に感染者だとしたら、いつどこで感染したというのか。そして、この静かな感染は異常すぎる。
「ドラセノの言葉を信じるなら、明日や明後日には、俺たち全員がそうなってもおかしくねえってことだよな。」ラッチはため息を交えながら、どこか諦めたように言った。
「もはやどこへ移動しても同じことの繰り返しだろう。」
ドラセノが口を開く。脱出が手遅れであることを悟った彼のため息が、部屋の空気をさらに重くした。
「ドラセノ。ここで研究を進めることは可能か?」ラッチが尋ねる。
「……ここなら可能だろう。」ドラセノは一瞬ためらい、目頭に親指を当てて眼鏡を押し上げた。「だが……」
「だが?」ラッチが続きを促す。
「……ゾンビ牛と感染者のサンプルが必要だ。」
「……」
ラッチはしばらく考え込んだ。やがて腕を頭の後ろに回し、椅子の背もたれに体重を預ける。
「この地下室には、バッテリータイプの予備電源と、燃料で動くディーゼルエンジンの発電機がある。発電量は合わせて2週間分といったところだ。途中で給油できれば、もう少し伸ばせるかもしれねえが、この状況じゃ燃料を手に入れるのは難しいだろうな……バーノがいりゃあ、トラック用の軽油を融通してもらえるかもしれねえが。」
ラッチは急に身体を起こし、ドラセノに向き直った。
「ドラセノ。悪いんだが、先に電気の復旧を急ぎたい。」
「ああ。」ドラセノは肩をすくめて答える。
「電気が無きゃ研究もできなくなるからな。」
「よし。んーじゃあ、電気の復旧を最優先とする。」
「さっきも言ったが、この街の設備に問題はねえ。今確認しなくちゃならねえのは、送電元の廃墟街がどうなっているかだ。こればっかりは実際に行ってみないとわからん。」
そう言ってラッチはダンバに目を合わせる。ダンバは自分の出番だと悟った。
「ここにいるメンバーを2班にわけたい。ダンバ、サンテロ。廃墟街に向かってくれ。」
ダンバはうなずく。サンテロも異論はないとばかりに頷いた。
だが、ドラセノは納得いかない様子で軽く手を挙げる。「状況によっては、廃墟街の発電設備を修理する必要があるのではないか?ラッチが適任では?」
そういうと、ドラセノは目線をラッチからサンテロにずらす。
「いや、その点は心配ない。サンテロに任せられる。それよりこの腹だっ!移動だけで2週間かかっちまうって!」ラッチは笑いながらポッコリと出ている自分の腹の肉を鷲づかみにした。
「俺とドラセノは『ホーロウ』に残り、安全圏の確保。この地下室を拠点とし、研究設備の準備に取り掛かる。いいな。」
ドラセノはまだ納得していないようだったが、ラッチの言葉に眉を吊り上げるだけで返事をする。
「ダンバ。まずは『メタム』に向かってくれ。もしかするとバーノやヴエロと合流できるかもしれねえ。もし合流できたら、こっちの状況を伝えといてくれ。」
ラッチはパンッと手のひらを合わせる。「よし。行動を開始しよう。」
ダンバとサンテロは互いに軽く頷き合い、準備に向かう。サンテロは工具セットを肩に掛け直しながら、ちらりとラッチの方を見た。その視線には自信と決意が伺えた。
「ダンバ、サンテロ。」ラッチが最後に声を掛けた。「気を付けてくれ。廃墟街がどうなっているかわからねえが、慎重に進んでくれよ。」
その言葉にダンバは振り返り、親指を立てて見せた。サンテロも静かに頷き、2人は扉の向こうへと消えていった。