カール=ルートヴィヒの窓(Karl-Ludwig's Window)
或る一人芝居。
《登場人物》
クルト・フォン・ヤクトシュタイン
フォン・ヤクトシュタイン伯爵夫人(クルトの母)
ヤクトシュタイン城の来客たち
イサドラ(クルトの許嫁)
フィリップ(イサドラの兄)
ヴィクトリア(伯爵夫人の姪)
ラベル男爵(成金)
将校
舞台:― 東欧の辺境にあるヤクトシュタイン城の『カール=ルートヴィヒの間』。
時代:― 現代、謝肉祭の夕べ。
その部屋には中世風の家具や装飾品が並んでいた。舞台の中央には古い独逸風の重々しい暖炉が鎮座し、それに覆い被さるようにして幅の広い棚が置かれている。棚の上には一台の大時計が据えられ、その上には一枚の絵画が掲げられている。額縁の中に描かれているのは十六世紀の衣装を身に纏った一人の紳士であった。絵のすぐ上手には奥まった覗き窓があり、その他にも腰の高いベンチが付いた窓が一つ見える。
暖炉のすぐ下手には、古めかしい鎹造りの扉があり、その扉に向かって二段ほどの上り階段が続いている。また、上手と下手の壁には色褪せたタペストリーが提げられていた。舞台の最前面には長い楢木のテーブルがあり、左右と中央には椅子が配置されている。そして、舞台の上手には小さな肘掛椅子が見える。テーブルの上には脚の長い金杯と葡萄酒瓶、そして小さな玻璃杯と蒸留酒の硝子瓶が並んでいる。
ヤクトシュタイン伯爵夫人とラベル男爵が、年代物の古めかしい宮廷服を身に纏って、舞台に姿を現した。二人とも天鵞絨の黒い小さな仮面を被っている。男爵が夫人に向かって深々と頭を下げると、夫人は猿真似でもするようにお辞儀を返した。それから二人は、仮面を取り去る。
伯爵夫人(テーブルの左側に腰かけながら)
「まったく年ばかり取ると、私たちみたいな老鳥は、身支度ばかり早くなって。さあさ、男爵さま。若い衆たちの支度が終わるまで、煙草でもお点けになって、どうぞお寛ぎになって下さい。」
男爵(テーブルに座りながら)
「寛げ、と仰いますが、奥方様。どうにもこの部屋は落ち着きませんでね。楽にするなんて、とてもとても。ここに来ると、いつもいつも身の毛の弥立つ思いがするほどでございます。私は世に言う成金貴族でございますから(と言いながら煙草の火を点ける)。世間様も私のことを『時の人』と呼びますが、その『時勢』というのも『この夕べ』だけの話かもしれません。その一方で、奥方様のご一族は昨日今日だけでなく、ずっと遥か遥か昔から『時の人』であられたわけでございます。正直、羨ましくもあり、妬ましくもありますな。奥方様も、ご先祖様も、そのご身分も、地位も、すべてが、心から妬ましゅうございます。しかしながら、たった一つでございます。妬み嫉みも感じぬことが一つだけあるのです。」
伯爵夫人(手酌で葡萄酒を注ぎながら)
「何のことかしら……?」
男爵
「奥方様の家に伝わる、身の毛も弥立つほどに悍ましい伝説のことでございますよ。」
伯爵夫人
「男爵さま、カール=ルートヴィヒのことを仰っているのかしら。ええ確かに、この部屋にあるものはみんな、あの人に所縁あるものばかり。あれがカール=ルートヴィヒの肖像画で、あそこが例の窓ですわ。あの窓から、あの人が投げ棄てられたそうです。けれど、伝説というのは少し言い過ぎかしら。だって、実際に起きたことですからね。」
男爵
「だからこそ、余計に恐ろしいのでございますよ。私もいい歳をした中年男でございますが、この部屋で起こった残忍な事件を思えば、自然と気分が悪くなってしまうというものです。暴徒は一体どうやって、カール=ルートヴィヒの目を盗み、忍び込んだのか。どうやって、カール=ルートヴィヒの不意を突いたのか。どうやって、あの悍ましい窓のところまで、泣き叫ぶカール=ルートヴィヒを引き擦ったのか。」
伯爵夫人
「泣き叫んでなんかいませんわ。ええ、きっとそのはずです。カール=ルートヴィヒは、暴徒を罵りながら、激しく怒鳴り散らしたはずです。ええ、おそらく、そのはずですわ。フォン・ヤクトシュタイン家に生まれた者が、そんな時に泣き叫んだりするなんて、考えられませんもの。」
男爵
「そうは仰いますが、あの忌まわしい窓から、眼下に広がる死を目の当たりにしてしまうと、勇敢極まりない男の度胸もおそらく水泡に帰してしまうものでございます。たとえ身の安全が担保されても、そんな時には誰しも息を飲んでしまいます。なにしろ、ずっとずっと下の方にある中庭の庭石まで見えてしまうのですから。」
伯爵夫人
「カール=ルートヴィヒには、そんなことを考える時間なんてなかったのではないかしら。ねえ、そういうことにしておきましょう。そういったことを考えると、もっと恐ろしくなってしまいますもの。」
男爵(身を震わせながら)
「ええ、それはその通りでございます! ですが、一度でも目にしてしまえば、あの窓はずっとずっと付き纏ってくるのです。ぜひとも、奥方様にもちらりと一瞥、見下ろして頂きたいものですな。」
伯爵夫人
「でも、脳裏に焼き付いて離れないのは、なにもその窓だけじゃありませんのよ。世間さまが仰るには、フォン・ヤクトシュタイン家の者が非業の死を遂げると、この部屋の扉がひとりでに開くそうなんです。それから寸分の違いも無くピタリと、またひとりでに扉が閉まるそうですわ。『カール=ルートヴィヒの亡霊が入って来た』って、皆さま噂しておりますわ。」
男爵(不安そうな瞳で背後を振り返る)
「なんと不吉な部屋だ! ああ、もう止めにいたしましょう。そんなことに思いを巡らせるよりも、何か楽しいことを話そうではありませんか。ああ、そうだ。イザドラお嬢様の今宵の衣装はさぞかし可愛らしいことでしょうね。でも、悲しいかな、婿殿は、お暇を貰えず、お嬢様を引き連れて舞踏会に顔を出すことも出来ぬらしいではないですか。お嬢様は、お姫様の衣装で出席なさるというのに。たしか、エルザ姫の仮装だと聞いていますが、どうでしたかな?」
伯爵夫人
「ええ、そうだった、と思いますわ。ただ、私の記憶が正しければ、の話ですけど。近頃、あの娘からも『お義母さま、お忘れになったの』って言われますの。」
男爵
「そんな新嫁殿でも、きちんと繋ぎ止めていらっしゃる。奥方様はきっとお幸せになられるでしょうな。」
伯爵夫人
「ええ、だって、あの娘は魅力的な超優良物件ですからね。山のような財産と人並みに整った良い顔立ち。その上、お頭の方も全く以て空っぽですのよ。」
男爵
「若いお二人の方はどうです? 二人とも互いに身も心も捧げ合っておるのですかな?」
伯爵夫人
「男爵さま、私も世慣れた女でございます。物事の感傷的な面ばかり取り上げて、誉めそやすようなことはいたしませんわ。もちろん、婚約しているというのに互いに世話を焼くふりすらしないなんて、そんな人は見たこともありませんけどね。ですが、驚きましたわ。クルトは一族の中でもとりわけ聞き分けの無い子だったのに、イザドラとの婚約が決まったとき、あの子、少しの文句も言わなかったんですよ。『愛してもいない人との結婚なんて絶対するものか』って、常日頃から言っていた子がですよ。縁談話を持ってきても、いつも『我関せず』という風だったのに。」
男爵
「きっと、此度の婚約は、クルト君にとって最低限の譲歩だったのでございましょう。」
伯爵夫人
「今のところ、クルトは若いのに本当によくやってくれています。花嫁の莫大な財産に加えて、あの娘の伯母さまもとても影響力のある地位にいるんですもの。」
男爵
「それは、実に賢い青年ではないですか。」
伯爵夫人
「ただ、賢いとはいっても、あれは捻くれ者の利口さです。どうしようもないお馬鹿さんの方がまだマシかもしれませんわ。あの手の利口さは、それくらいどうしようもなく厄介なものですの。それに比べたら、私はイザドラみたいな馬鹿な娘の方が好きですわ。あの娘がこれからどこで何をして何を言うのか、誰でも正確に言い当てることが出来ますもの。いつ頭痛を患うか、月曜日に服を何枚洗濯に出すか。はっきりと分かるんですのよ。」
男爵
「それはまた、随分と便利な気質でございますな。」
伯爵夫人
「ですけどクルトの方は、どこで何をしているのやら。誰にも分かりませんの。もちろん、今日は大公殿下の連隊にいるんでしょうけど。あそこの隊で上手く立ち回りさえすれば、あの子の経歴に多少なりとも箔が付くはすなんですけれど、そんなことをするような子じゃありませんからね。」
男爵
「いえいえ、妻を持つ身になるわけですから、息子さんもきっと心を入れ替えるはずでございましょう。」
伯爵夫人
「男爵さまって楽天家なのね。でも、あの子の天邪鬼な性格は変わっておりませんわ。いつだって、あの子は我が家の不安の種ですの。ですけど、勘違いなさらないでね。あの子の出来が悪いからといって、兄弟みんなが悪童というわけではありませんわ。あとの二人はすごく良い子たちなの。」
(イサドラがエルザ姫の仮装をして入室する。それに従うのは金髪の武骨な若者、兄のフィリップである。フィリップはヘンリー三世時代の小姓の装いをしていた。)
イサドラ
「お待たせしてごめんなさい。ヴィクトリアの着替えを手伝っていましたの。しばらくしたら、あの子もやって来ますわ。」
(二人は席に着き、フィリップは自分のグラスにワインを注いだ。)
伯爵夫人
「これ以上は待てませんよ。もう8時半ですもの。」
男爵
「おお、ちょうど今、話しておったところです。残念ながら、クルト君は今宵の舞踏会に来られないかもしれないそうで。」
イサドラ
「そうなんです、残念ですけど。クルト様はあまり遠くない連隊に赴任しているのに、今週末まではお休みがもらえないの。可哀想じゃありませんか?」
伯爵夫人
「いつものことですよ。特に用事があるときに限って、持ち場を離れられなくなるものなんですから。」
イサドラ
「いつものこと? いつものことって仰いました?」
伯爵夫人
「クルトはね、あの子は完璧な才能を持っているの。あなたの望み通りには決してならない、という才能をね。」
(その時、騎兵隊の制服を脱ぎながらクルトが現れ、素早く部屋の中に入った。)
伯爵夫人(来客たちと一緒に立ち上がる)
「クルト! どうやってここに来たの? 今日は来れないと思ってたのに。」
(クルトは母の手に、そしてイサドラの手に口付けをする。そして部屋にいた紳士二人に会釈をした。)
クルト
「急いで逃げ出してきたんです(グラスにワインを注ぎながら)。捕まらないようにね。さあさて、皆様方のご健勝を祈って乾杯。(乾ききった喉を潤すようにして、一息にワインを飲みほした)」
伯爵夫人
「捕まらないように、ですって!」
男爵
「捕まる、だと!?」
(舞台の上手で、クルトは怠そうにしながら、その身を肘掛椅子に投げ出していた。他の者は立ったままクルトを見つめている。)
伯爵夫人
「どういうこと? 捕まるって、何があったの?」
クルト(落着き払って)
「殺しちゃったんですよ、大公殿下をね。」
伯爵夫人
「殺したですって、大公殿下を! あなた、殿下を殺害したって、そう言ってるの?」
クルト
「やっとのことでしてね。一対一の決闘だったんですよ。」
伯爵夫人(手を揉み絞りながら)
「決闘で、大公殿下を殺害! 前代未聞の不祥事だわ! 嗚呼、我が家も、もう終わりよ!」
男爵(両手を投げ出して)
「信じかねますな! そんなことを許すなんて、一体全体、立合人は何をしていたんだ?」
クルト(短く告げる)
「立合人なんていませんよ。」
伯爵夫人
「立会人がいない、ですって! そんな非常識な決闘を? なんて酷いことを! 不祥事だわ! 呆れるくらい非道い不祥事ですわ!」
男爵
「いやしかし、どういうことだね……立会人がいないとは?」
クルト
「立会人がいない方が、ひどく都合が良かったんですよ。いえね、もし大公殿下が倒れたとしても、立会人がいなければ、目撃者はいないでしょう? 何が原因で、どういう理由で決闘したのか、それを知る者は誰一人としていないんですよ。今回の決闘はもちろん不祥事ですが、これは誰も知り得ない不祥事なんです。」
伯爵夫人
「なんてこと! 終わりだわ、ヤクトシュタイン家は、もう終わりよ!」
男爵(しつこく食い下がりながら)
「しかし、奥方様は生きておられます。何が起こったかを話す義務がありましょう。」
クルト
「実はですね、その不始末を清算する方法が、たった一つだけあるんですよ。」
男爵(クルトをジッと凝視したあとで)
「どういうことかな?」
クルト(静かに語る)
「実は、執行猶予がついたんです。『できるだけ早く公爵殿下の後を追う』という条件付きでね。そのおかげで、僕は捕縛の手から逃げ果せたというわけです。」
伯爵夫人
「ヤクトシュタイン家から自殺者が出るなんて! なんて恐ろしい! ゾッとしますわ! 人の口に戸を立てることも出来ず、世間さまはしきりに噂するんですわ!」
イサドラ
「こんな不幸なことってあるのかしら?」
伯爵夫人(イサドラを越えて)
「嗚呼、クルト、可哀想な子!」
(イサドラは目の上に軽く手を乗せた。)
(そのとき、イタリアの小作人の装いをしたヴィクトリアが部屋に入ってきた。)
ヴィクトリア
「遅れてしまって大変申し訳ありません。こんなにたくさんの首飾りを取り付けていたら、こんなに時間が掛かってしまったんです。あらまあ、クルトさん、貴方、どこからいらっしゃったの?」
(クルトは立ち上がる。)
伯爵夫人
「あの子は、悪い報せを運んできたのよ。」
ヴィクトリア
「ああ、怖い。なにかひどく悪いことでも? 舞踏会に行けない、なんてことじゃありませんよね? 今夜の会はひときわ華やかなんですよ。」
(ゆるやかに鳴る鐘の、かすかな音が聞こえてくる。)
クルト
「僕はね、今夜、舞踏会があるなんて思いもしなかったんですよ。いやなに、今しがた僕と一緒に、悪い報せがやって来たというだけです。さあ、鐘はもう鳴っている。」
男爵(芝居掛かった口調で)
「不祥事の出来上がり、というわけだ!」
伯爵夫人
「クルト、貴方のことは決して許しませんからね。」
ヴィクトリア
「え、なにがどうしたんですの?」
クルト
「イザドラと少しばかり話がしたいんだ。9時まで、色々と話し合う時間くらいはくれますよね。」
伯爵夫人
「こんな状況です、それが一番良いでしょう。ああ、どうしてこんな馬鹿息子に悩まされないといけないのかしら!」
(伯爵夫人は部屋を後にする。男爵は芝居がかった風に両手を振り回しながら、夫人の後を追う。フィリップとヴィクトリアもそれに続いた。部屋を出ていくときフィリップは、狼狽えるヴィクトリアに耳打ちし、事の次第を説明する。)
イサドラ(愚者のように)
「こんな不幸なことってあるのかしら?」
クルト(一行が部屋を後にするや否や、突然に生き生きと、テーブルに身を乗り出した)
「イザドラ、君に頼みがある。それを言うために、僕はここに帰ってきたんだ。僕の力になってくれないか。捜索隊は、9時には僕を捕まえに来るだろう。だけど、連中と約束してしまったからね。生きながらえた僕の姿を、捜索隊の目に晒すわけにはいかないんだ。ほら、もう二十分も無い。約束してくれ、僕の頼みを聞いてくれる、と。」
イサドラ
「頼みって、なんなんです?」
クルト
「こんなこと、婚約者に頼むのは奇妙なことだと思うけど、でも、頼める人が他にいないんだ。実はね、或る婦人に言伝をお願いしたいんだ。僕の愛するあの人に。」
イサドラ
「クルト様!」
クルト
「わかっているさ、これは、あまりも常識外れなお願いだ。でも、君と出会うずっと前から、あの人とは懇意にしていたんだ。そして、彼女を愛していた。もう十八の頃からだ。たかだか、三年ぽっちしか経っていないけど、その三年間は、僕の人生の大部分を占めていると言っても過言じゃない。今でも覚えているよ、あの人と友達になるまでは、孤独で不幸な人生だった。だが、それからの日々と言えば、まるで魔法みたいだった。古い御伽噺に出てくる魔法みたいな、そんな毎日だったんだ。」
イサドラ
「その人は、私も知っている方なの?」
クルト
「ずっと前に、君は勘繰ってたじゃないか。君の伯母様のことだ、きっと容易く、あの人と話す機会を拵えてくれると思うよ。でも、名前を告げてはいけないよ。お喋りしてもいけない。ただ『あなたに言伝がございます』と言うだけでいいんだ。あの人は、きっとその言葉の主に気付いてくれるだろうから。」
イサドラ
「なんだか、ものすごく怖くなってきましたわ。一体、何と言付ければいいんでしょう?」
クルト
「ただ一言、『さようなら』と伝えてくれ。」
イサドラ
「そんなに短い言葉で、良いのかしら?」
クルト
「人の心から心へ送り届けられる、最高に長い伝言さ。他の言葉は、きっと記憶から消え去ってしまうからね。でも、僕のその言葉は、時間とともに何度も繰り返される。記憶が続く限り、延々とね。夕日が沈むたび、黄昏が訪れるたび、僕のために『さようなら』と声に出してくれることだろう。」
(扉がグルリと開き、そしてひとりでにゆっくりと閉まった。クルトは震えを堪えている。)
イサドラ(驚いた声で)
「なに、なんなの? 誰か扉を開けたの?」
クルト
「ああ、何でもないよ。ときどき、そうなるんだ。今みたいな……そう、今みたいな状況になるとね。みんなはこう言ってる。『カール=ルートヴィヒが入ってきた』ってね。」
イサドラ
「気が遠くなりそう!」
クルト(申し訳なさそうな声で)
「残念だけど、そんなことを言っている場合じゃないんだ。僕たちにはもう時間がない。君はまだ返事をしていない。さあ、早くしてくれ。あの人に僕の言葉を伝えてくれると、そう約束してくれ!(彼女の両手をぎゅっと握りしめる。)」
イサドラ
「わかりました、約束します。」
クルト(彼女の両手に口づけをしながら)
「ありがとう。(口調が軽いものに変わる。)そうだ、拳銃を持ってないかい? 弾の詰まったやつさ。いや、持っているわけないか。あんまりに急いで来たものだから、忘れてしまってね。」
イサドラ
「持ってませんわ。当たり前でしょう、誰が仮面舞踏会に拳銃を持ってくるっていうのかしら。」
クルト
「なら、カール=ルートヴィヒの窓しかないか。(剣の留め金を外し、肘掛け椅子に放り投げる。)ああ、忘れていたよ。そこの細密画のことなんて、全く失念していた。ちょっと服を脱ぐけど、怒らないでくれよ。(クルトは暖炉の傍の腰掛けから絵入りの新聞を取り上げて、イサドラの前で広げたままにして渡した。)さあどうぞ。(続けて、クルトは上着のボタンを襟首、胸元と外していき、首に提げていた小さな飾りを取り去った。少しのあいだ、その飾りを見つめる。口づけをして、また、見つめていた。そして床に落とし、軍靴の踵で踏み砕いた。それから窓の方に向かい、窓を開けて下の方を眺めた。)宵の闇が、もっと深ければよかったな。すぐ下の、中庭の敷石がまる見えじゃないか。今でも恐ろしいけれど、八分後には今の五十倍は怖くなるんだろうな。(テーブルに戻り、隅の方に腰を下ろす。)ここへの道すがら、馬に乗りながら、死ぬことなんてどうせ簡単なことだろうと考えていた。だが、だんだんと、その時が近づいてくるにつれて恐怖で気分が悪くなってくる。なあ、考えてみてごらん、フォン・ヤクトシュタイン家の男子が、卑怯者に変わるんだ。そいつは大事件だろう。そうだな、お母様が言っていた通りになるな。」
(クルトはブランデーを注ごうとする。だが、その手はひどく震えていた。)
クルト
「申し訳ないけれど、ブランデーを入れてくれないか? 手の震えが止められなくてね。(イサドラはクルトのために杯を満たす。)ありがとう。あ、いや、駄目だ(杯を押しのける)。やっぱり飲めない。勇気も無いくせに、その好意に口をつけるなんて。ああ、さっき下なんか見なけりゃよかった。ものすごい速さで高いところから落ちていくとき、どんな感じがするかわかるかい。あれはね、まるで、人が自分の胸の内と競い合って、頭一つの差で勝つみたいなもんだよ。つまり、一つ目を抜いて、二つ目、それから次、という感覚なんだ……」
(クルトは一瞬、両手で目を隠した。イサドラはよろめき、後ずさりしながら椅子に腰を落とした。クルトは咄嗟に時計を見上げる。)
クルト「なあ、イザドラ! あの時計は針が1分進んでるんだろう? そう言ってくれ!(クルトはイサドラに目を向ける。)イザドラ、気を失ってるのか。ちょうど今、卒倒した、そういうわけか。彼女は話の上手い方じゃなかったが、それでも僕の話し相手だった。ここに来て、ひどく忌々しい孤独が、胸に満ちてくるじゃないか。『ねえ、クルト様、しっかりして!』なんて言ってくれる人はもういない。気絶した娘とカール=ルートヴィヒ爺様の亡霊、それ以外は誰もいないのだ。亡霊は、今も僕を見ているんだろうか。僕も、この部屋に出没するようになるのか? いや、実に奇妙な妄想だ。(そこで再び、時計を見て驚愕する。)あと3分か。なのに、死ねない。嗚呼、神様! 僕には出来ない。今、縮み上がっているのは、別に武者震いなどではないのです……全ての終わり、それを考えるだけで、ひどく恐ろしいんです。嗚呼、もはや、生きることすら許されない! イザドラも男爵も、何百万もの馬鹿な連中も、これからずっと生き続けるんだろう。当たり前にやってくる毎日は、日々、新しい何かをもたらしてくれる。けれど、あと3分後には、僕はもう二度と人生の喜びの一片すら味わえなくなる。駄目だ、出来ない。(テーブルの左にある椅子に深く腰をうずめる。)そうだ、誰も知らないところへ逃げよう。死を選ぶのに匹敵するほどの名案だ。確かに、僕は言ったな。生きたままの僕の姿を捜索隊の目に晒すわけにはいかない、と。それならば、連中がやって来る前にそっと立ち去ってしまおう。」
(クルトは立ち上がり、扉に向かって足を進めた。その時、軍靴が、壊れた首飾りを踏みつける。クルトは屈み込んで、その破片を拾い上げた。しばらくの間、その破片を穴が開くほど見つめていたクルトだったが、最後には破片を手放した。首飾りの破片は指の隙間から零れ落ちていく。ゆっくりと時計の方を振り返る。そして、針を見ながら立ちつくす。袖口から絹手拭を取り出し、口元を拭い、絹手拭を袖に戻した。まだ、時計を見つめたままだ。沈黙のまま数秒が過ぎる……。時計は9時を告げる最初の鐘を打ち鳴らした。すると、クルトは振り返り、窓に向かって歩き始めた。窓の腰掛に跨り、片足を敷居の上に踏み出したのだ。そして、外を見て、足下に目を遣る。十字を切り……両手を上げ、空に飛び出した。)
(扉が開き、伯爵夫人が部屋に入ってくる。それに続く将校が一人。彼女たちは気絶したイサドラを見つけると、クルトを捜すために部屋の中をあちこち廻り始めた。)
伯爵夫人
「あの子、行ってしまったのね!」
将校
「あの男はこう言っておりました。『9時にこの部屋で、僕を見つけることになるだろう』と。だが、奴を捕まえるには遅すぎたようだ。私は奴に騙された、そういうことか!」
伯爵夫人
「フォン・ヤクトシュタイン家に生まれた者は、いつだって、約束を守るものですわ。」
(開け放たれた窓を、伯爵夫人はジッと見つめていた。その視線に従って、将校は窓の方へと歩み寄った。窓の外を見渡し、直ぐ真下の方を見下ろすと、将校は部屋の中に引き返した。そして、姿勢をまっすぐに正し、敬礼を捧げた。)
閉幕
原著:「The Works of Saki」(1926-1927, The Viking Press)の第八巻「The Square Egg, and Other Sketches, With Three Plays」所収「Karl-Ludwig’s Window」
底本:「The Complete Saki」PENGUIN BOOKS所収「Karl-Ludwig’s Window」
原著者:Saki (Hector Hugh Munro, 1870-1916)
翻訳:着地した鶏
初訳(草稿)公開:2016年12月19日
翻訳公開:2017年3月20日