青少年と白い繭
穏やかな春の夜。三月下旬のある日。誰もいない川沿いの土手を歩く少年が一人。
彼の名は『晴天気忍鉄丸』。どこにでもいる普通の高校生である。
繰り返すが、彼は普通の高校生である。
初対面の場合、名前はまず聞き返される。書面ではほとんどの場合正しく読んでもらえない。正しい読み方は上の名前が『せいてんき』、下の名前が『しのぶのくろがねまる』であり、友人からはことあるごとに名前が長いとの指摘を受ける。だが名前が長いと感じているのは当人も同じであるので、友人からの呼び名『忍』を大変気に入っている。
今だって普通の高校生らしく、翌月から二年生に進級しようという春休みに抱く謎の衝動に動かされるがままに散歩をしているだけだ。すなわち暇だ。他の長期休みと違い、宿題がないというのは結構もて余すものである。
「はぁ……月が綺麗だなあ」
軽くため息を吐くが忍は決して思い悩んでいるわけでも、月に感動しているわけでもない。ちょっと感傷的な気分になってみたかっただけなのだ。
「月が落ちてきたら良いのに」
忍が住む町の空に浮かぶ月はあと幾日かで満月になりそうなほど満ちている。逆に言えば中途半端な、やや黄色い半月だ。西洋において満月は人を狂わせるとか言われているらしいけれど、今は満月ではないから大丈夫だろう。
「……なんだかオムレツに見えてきた」
忍の感傷は小学生じみた発想の転換により食欲へとすりかえられた。暇に任せて抱いた感傷なんてそんなものである。
「姉ちゃんに頼んで明日の昼にでも作って貰おうかな」
一人で呟きながら歩を進める忍。自分の姉は細かいことが苦手だということをすっかり忘れている。忍が明日の昼に食べるのはオムレツではなく、スクランブルエッグとなるのは明らかだ。
そして忍の頭の中はすでに次のことを、左前方にある自動販売機で飲み物を買おうかどうかを真剣に考えていた。というのもお金の有り無しとか健康面からみたリスクが心配とかではなく、ただ単純に、自動販売機のウィンドウに黒くてカサカサ動いて飛ぶヤツが思いっきりくっついているのだ。
喉は乾いているけれど、ヤツへ不用意に近づくことは避けたい。
どうでも良い二律背反に思い悩むのも、ある意味暇だからである。
なぜそんなところに留まっているのだ、隠れておけば悩まずに済んだものを。いくら恨んでも、黒光るヤツはピクリとも動かない。
と、思いきや。
願いが通じたのか、ヤツは突如飛んだかと思うと土手の下へと消えていった。こちらに飛んでこなくて本当に良かった。忍は胸を撫で下ろし、自販機と対峙する。
忍の目的は姉や妹にバカにされるのが悔しくて、血の滲むような特訓の末に最近飲めるようになった乳酸菌入りの(微)炭酸飲料だ。「それだけ訓練して微炭酸ってないよ」と未だにバカにされているが構わない。少しずつ慣れていくのが一番モチベーションを保てることを我がバカ姉妹は知らないのだ。忍は表情にこそ出てこないが、心の中ではいつだって泣いている。
そんなわけで硬貨を投入し、やはり思いきってコーラにしようと思った忍が手を伸ばしたその時だった。
身の危険を感じとっさに手を引っ込めた忍の前で、轟音と共に自動販売機が真っ二つに割れた。
唖然。ただただ唖然。忍には何かが落ちてきた、ということ以外全く理解できていなかったが、もしかすると黒光りするヤツはこれを見越して先に逃げたのかもしれないとだけ思い当たった。
自動販売機の残骸からはショートした電線から火花が飛んでおり、硬貨が周囲に散らかっている。潰された缶から飲料が漏れて、甘ったるい香料とコーヒーの匂いの混ざった不思議な香りがする。
そして何より目立つのは、自動販売機を真っ二つに裂いている大きくて白い繭だ。繭は自動販売機の明かりの代わりとなるくらいのぼんやりとした光を放っていて、見ただけでは質感がよく分からずどこかこの世の物とは思えない雰囲気がある。
繭への好奇心と恐怖から、近づいてもっとよく見たいけれど無視して帰りたいなどと矛盾する感情を抱いた忍であったが、ふと気がついたことがあった。
この繭、少し動いている。
だんだん好奇心が勝ってきた忍は右手で繭に触れてみた。硬い。軽く叩いてみると、コンコン、と軽い音がなった。繭の外見通り、このなかに何かが入っているようである。
次に左手で触れてみる。なんと右手の時とは違う感触がした。柔らかいというか、ふかふかしている。下から上へ撫でるとさらさらとしていて非常に触り心地が良い。逆方向に撫でると今度は所々で手に引っ掛かり、ボサボサと逆立った。
「まるで羽毛だ」
忍がそんな感想を抱いたまさにその時、繭がもぞっと動いた。忍は予想していなかった事態に慌てて手を引っ込めて後ずさる。声を上げることは稀だが、忍はしっかり驚いている。
繭が左右に分かれて展開していく。繭の正体は白く大きな一対の翼であるようだ。白銀に輝く羽が周りを舞う。翼が完全に展開し、繭の中身があらわになった。
中に入っていたのは人だった。いや、現時点でまだ断定はできない。破壊された自動販売機の残骸の上で頭をこちらの方に向けて、仰向けに倒れているそれは女性のように見える。だが普通の女性が繭に包まれて空から降ってくることはないということを、普通の高校生である忍は知っている。
また、その白く輝く翼の内側が赤く染まっていた。辺りにできたジュースの海で染色されたものではない。手足はついている。頭もある。人ならば五体満足と言えるだろう。だが白に照らされた赤黒い汚れは、そこに倒れているそれがあちこちから出血していることを示唆していた。
翼を目線で根本までたどっていくと、腰の辺りで下敷きにされている。翼は背中の、それも大分下の部分に生えているようだ。
そこで忍は気がついた。
女性らしきそれは腰に衣服らしきものを着用している。
しているのだが、その丈が異常に短い。
忍の常識では、ここまで短くするともはやそれは衣服としての役目を果たしてはいない。隠す部分の、本当に最低限ですらも隠せているか怪しい。奇しくもその衣服のような布は、以前に忍の妹がコスプレ用といって買ってきていた大変クレイジーな丈のホットパンツに似ていた。
いけないコトをしているような気分になってきた忍は急いで目をそらし、視界に入った光景に思いっきり吹き出した。日頃感情が表に出にくい忍には稀なことである。
忍が目をそらした先にあったのはその女性らしきものの胸部だ。こちらにも衣服のようなものはついている。だがその形状は忍の常識を完全に超越していた。
女性らしきものの胸部は女性らしく膨らんでおり、それを支えるように、膨らみの下側を軽く覆うような布が巻かれている。
それだけ。そう、それだけである。
古代ギリシャまで遡るブラジャーの起源を知る者ならピンとくる形。揺れるのを防止する役割しか持たないその布は、女性らしきものの乳をなにもかもをさらけ出してしまっていた。
端的に言ってしまえば、丸出しである。
「……やっぱり、見なかったことにしよう」
一連の発見にだいぶ動揺してしまった忍はそのまま帰宅することを望んだ。空から降ってきて、血を流していて、変態的な格好をしている女性に関わったってロクなことは無いだろう、と自分自身に言い聞かせる。
しかし神は、神が存在するならば、忍を見捨ててしまったようだ。
「あ、の。待っ、て……」
帰ろうとする忍の背中から、引き留める声。
そのまま無視して帰ればよかったのだが、不意のことに忍は思わず足を止め、振り返ってしまった。
翼をもつ女性は身を起こしていた。二本の手と、両側の翼をうまく使って体を支えている。忍は女性と目があった。
改めて見れば同年代に見えなくもない顔立ちの女性の目は、しかし、尋常ではなかった。死力を振り絞った眼差しは真剣そのものである。
「あなたに、お願いが……」
そう言うと女性はよろよろと立ち上がり、鉄屑の山を踏み越えて、ジュースの海を突っ切って、ゆっくりと忍へと近づいてくる。眼光に射竦められた忍は動くことができずに居た。
とうとう女性は忍の正面まで来た。背丈は同じくらいであろうか。髪は長く、薄く黄色がかっている。
「私の……いや、えっと……私、と……」
女性が再び口を開いた。モゾモゾ、ボソボソと何か言っている。
「はい。な、なんでしょう?」
忍は目をあわせているのが怖いからと目をそらすと体中にある痛ましい傷が目に入り、傷からも目をそらすも股や丸出しの胸に目がいってしまうという苦境に立たされながらも、目のやり場を模索しつつなんとか女性とコミュニケーションをとろうと返答する。
が、女性はそこで気を失ってしまったらしい。突如倒れかかってきた女性を、忍は慌てて抱き止めた。
忍はここで「ちょと!胸!胸とかいろいろ当たってますぅ!」とかなんとか心のなかで慌てふためきたいところではあったのだが、一連の出来事は忍の精神処理能力では処理しきれなかった。イロイロと壊れてしまう前に、忍は助けを呼ぶことにした。携帯電話を取りだし、コールするのは妹の番号。
「あー、ゼッちゃん?うん、お願いがあるんだけど……ゼッちゃんの服を一セット持って来て欲しいんだ。そう。ゼッちゃんは服を着て、予備の服を一着持ってきて。僕が着られるくらいのサイズで、汚れてもいいやつ。いや女装趣味に目覚めた訳じゃなくて……あと下着も。上の方だけでいいから。いや、だから僕がつけるわけじゃないんだって。とにかく、事情が事情だから急いで来てちょうだい」
それから程なくして。
「兄者!ゼッちゃん、ただ今参上いたしたっ!」
忍の妹ことゼッちゃんはやって来た。ゼッちゃんはかっ飛んできたと言っても差し支えない無いくらい足が速い。
「なにその言葉遣い」
「今宵の気分はニンジャなのだ」
ゼッちゃんはアニメや漫画やライトノベルが大好きな、いわゆるオタクという種の中学三年生だ。コスプレが趣味で、今は『ニンジャスナイパー』(ニンジャが見て撃ち抜く!がコンセプトのバトル漫画。俗称『忍抜』)に出てくる女ニンジャ『ユマタ』の格好をしている。コスプレ用の女子高校生服と空色のマフラーは、ゼッちゃんのハンドメイドだ。
「うわっ!綺麗な女の子!えっなにこれどうしたの拾ったの?肌めっちゃ白い!めっちゃ露出度高い!羨ましい羨ましい!きゃっはぁ~!!!」
「あのねゼッちゃん。この人怪我しているみたいなんだ。でも服を着ていないし、空から降ってきたし、翼生えているしで普通じゃないんだ。それに、僕に何かお願いがあるみたいなんだよ」
忍が横たえて(自分の上着をかぶせて)おいた女性を見て独りで興奮するゼッちゃん。忍はそれをなだめるように、手短に状況を説明した。
「成る程……それはつまり、テイクアウトしても良いということなんだね!?」
「あー、そうと言えばそうかな。普通の病院へは連れて行けそうにないし。取り敢えず今は服を着せよう」
「よし、このユマタ=サマにお任せあれ」
そう言うとゼッちゃんは早速女性に持ってきた服を着せ始めた。ゼッちゃんが持ってきた服は体育着。もちろんコスプレ用であり、ゼッちゃんの通う学校のものではない。
そして、最初こそ意気揚々と服を着せていたゼッちゃんだが、服を着せ終わる頃には事態の異常さが認識できた。体育着に滲む血の量がちょっとやそっとの怪我ではないのだ。
「この人すごい怪我だよ。切り傷がほとんどみたいだけど、刺し傷もいくつかある。刃物を持った誰かに襲われていたのかも」
「家で治療はできそうかな?」
「……本当は病院に行った方が良いと思うけど」
ゼッちゃんが女性を背負って立ち上がった。忍は自分が背負うことを提案したのだが、一応女性であろうからとゼッちゃんが引き受けたのだ。
「あーおっぱい柔らかい!……なんてね。兄ちゃん、ちょっと急ぐよ。ついてこられる?」
「できるところまでついていくよ」
「じゃあ、おいていくね!」
「そんな無情な……」
「今はこの人を助けるのが最優先でしょ!」
そう言うとゼッちゃんはあっという間に走り去っていってしまった。
忍が家についたのは、それから二十分後のことである。
「とりあえず応急処置、といった感じだが……おいノブ、この子はいったい?」
「だから僕にも分からないんだって、ゴウ姉ちゃん。僕がジュースを買おうとしたらいきなり降ってきたんだ」
「うむむ、古来よりヒロインは空から降ってくるものだけど……まさか現実に起こるなんて!」
「嬉しそうだね、ゼッちゃん」
晴天気家のリビングで顔をつき合わせる長女、長男、次女。そして床で寝息をたてている翼の生えた女性。ただいまの議題は、応急処置を終え(よりサイズの合うゴウ姉ちゃんの体育着に着替え)たこの女性をどうするか、ということである。
「今更警察に連絡してもなぁ……私たちがやったことが医療行為にあたるとしたら逮捕される
「そうだね。『無人島サバイバル生活・治療編』に書いてあることを参照しただけとはいえ、立派な闇医者だよ僕ら」
「だけどそもそもこの女の子、腰についている翼も本物みたいだし、まともな人間では無さそうだよね。もしかして動物扱いとかにならないかな?」
「それは何というか、ゼツ。これだけ人の形をしているのだから、人として扱うべきだと私は思う」
「いや私はただ警察にはそれで説明したら良いかなって思って。でもやっぱりこんなにかわいい女の子が人間のハズがない!」
「判断基準おかしくない?」
終わりの見えない、真実のない不毛な論争。永久に終わらないかに思えたそれは、とある形で終結することになる。
すなわち、当事者の参加である。
「……う。ああ……あ?」
「ん?待て、二人とも!この子が目を覚ましたみたいだ」
「え?」
「えっ!?」
晴天気の三人がぎゃーぎゃー騒いでいると、リビングに横たえられていた女性が目を覚ました。ゴウ姉ちゃんはいち早くそれに気づき、他の二人に知らせた。ゴウ姉ちゃんとゼッちゃんに支えられて、女性が身を起こす。状況の把握に時間がかかっているらしく、髪と同じ薄黄色の目をぱちぱちさせている。
「体の調子はどうだ?聞きたいことはいろいろあるが、無事目が覚めたようで良かった」
「ねーねー!あなた名前は?どこから来たの?日本語わかる?その翼は何?もしかして天使?」
自分の姉妹が次々と話しかけているのを見て、寝起きなんだからもう少し手加減したら良いのにと思っていると、女性はどうやら完全に覚醒したようだ。晴天気姉妹を半ば押し退けるようにして、忍のところまで来た。身ひとつ動かさないが内心少しびびっている忍に対し女性はほとんど顔をくっつけるくらいの距離まで迫り、少し違和感がある日本語で言った。
「助けてくれてありがとうございます。突然ごめんなさい。急いでいます。あなたに、お願いがあります」
「……はい?」
女性は忍の顔を見ながら続ける。
「私と……いえ、あなたと私だけのほうがよろしいです。どこかあなたと私になれるところ、ありますか?」
二分後。
「スゲー!日本語喋れるんだ!でも何で兄ちゃんなんだよーゼッちゃんじゃダメなのかよーゼッちゃん専用の着せ替え人形じゃないのかよー」と騒ぎ出したゼッちゃんをゴウ姉ちゃんが叱っている間に忍は取り敢えず自分の部屋へと女性を連れ込んだ。忍の部屋は晴天気家においてトイレの次に簡素な部屋である。畳六畳の部屋を仕切るものはふすま、中にあるのも布団と学習用の低い机とそれに合わせた本棚だけだ。
忍は春休みということもあり朝から敷きっぱなしだった布団に女性を座らせ、自らもまた対面して座った。こうしてみると女性はかなりの美形だ。女性の居る空間を絵に描けばそれだけで芸術品と成りうる。そうなると健全な男子としてはやっぱり緊張するもので、忍は自分のろれつがちゃんと回るかどうか心配になってきた。
そしてそのまま二分が経過した。
用がある、と言ったのは女性の方なのに、何故か女性は沈黙を守り続けていた。女性の顔はじぃっと忍の方を向いているので、忍としてはどぎまぎして大変だった。姉妹以外の女性とこのような近距離に居るのは、考えてみれば忍にとって経験したことのないことであり、早くも心臓が破裂しそうで、早くもヨゴレた妄想が首をもたげていた。
「あの、それで、用というのは……」
「心が準備中です」
女性は真顔で、忍を見つめながら即答した。
ダメだ。これでは追及のしようがない。忍の目は泳ぎ始め、次第に女性の脚や、胸に目が行くようになった。とても綺麗である。絆創膏やガーゼがあちこちに貼ってあるのを除けば、かなり美しく、整っていて、ナニかを掻き立てられる。
さらに三分が経過し、ヨゴレた妄想は次第に具体性を帯びてきた。今すぐにでも押し倒してやろうか、これだけ静かなら他の姉妹にもバレまいて。などと頭の片隅に浮かぶ。それをする勇気など今の忍にはさらさら無いが、胸くらいさわれてしまうのではないか、といったこと位は本気で考えていた。
さらにさらに五分が経過。忍の心のなかで女性はもう初恋の人になっており、用事を聞くことよりもいつ告白しようかという考えで頭がいっぱいになってきていた。そこでようやく、女性が沈黙を破った。
「お願いがあります」
「はっ?」
あまりに唐突だったので、告白後の展開を妄想していた忍は我に帰る際に声を漏らした。何度も確認するようだが、彼の感情が表に出るのは珍しいことである。
そんな忍をお構いなしに、女性は言った。
「私を受け取ってくれますか?」
もちろん忍はこの言葉を弩ストレートに『愛の告白』として受け取った。童貞どころか彼女すらできたことのない忍は慌てふためき、爆発する妄想と戦いつつどうにか体裁を保とうとした。
「いや……いや違う。受けとる。受けとります。むしろ僕から下さい。でもモノゴトには順序があります。ほっ、ほら僕もあなたもお互いの名前を知りません。せめて、名前だけでも最初に教えて下ひゃい」
「ランサナル・ヴァージンと言います。あなたは?」
「せ、晴天気忍鉄丸と申します。以後、忍とお呼びください……」
「わかりました、しのぶ。少し手伝ってください」
あまりにも即答で考える暇がなく混乱している忍にランサナルは背を向けた。体育着が翼に少し持ち上げられて覗く肌が忍の目を釘付けにする。
「少しお待ちください」
そしてランサナルは翼を器用に使い、一気に体育着をまくりあげた。背中の全体が一気に露出する。他の部分に比べて背中には大した傷もなく、他に類を見ない滑らかな肌が忍を扇情した。
正直な話、忍は本気で暴走寸前だった。
「あなたの指を、私の腰に当ててください。真ん中です。翼の根っこの、間のところです。優しくです」
とランサナル。忍はそのまま抱えて押し倒したいところではあったが、指示通りに左手の指を左右の翼根の間にそっとおいた。柔らかく、心地の良い感触。
その、次の瞬間。
忍が指をおいた場所を中心に奇妙な模様が現れたかと思うと、ずぶぶっ!と指がランサナルの背中へと突っ込んだ。いや、呑み込まれた。
「んっ……く、あぁアア!」
声をあげるランサナル。驚いた忍が指を引き抜こうとするも
「待っテ、抜かナイで!……動かないでください。そのままです……クッ、は、あぁ……そ、ノ、ままでス……」
と制されて動けない。忍はその声の様子が少しおかしいことに気がつき、ランサナルはどうやら訓練して自分たちと会話を成立させているらしいと気がついた。そしてそこで浮かんだ疑問が、忍を少し冷静にした。
このランサナルという女性は、一体自分に何をさせているのか。ランサナルは布団を思いきり握りしめていて、相当な痛みに耐えているようだ。数々の不思議な現象を無視しても、今のこの行為が通常のものであるとは思えない。
そして最初に見たとき。空から降ってきたとき、ランサナルは翼で自分の身を包んでいた。それでもこの怪我の量。切り傷、刺し傷。ほとんどの服を着ていなかった。着の身着のまま。
何か大きな陰謀に巻き込まれている気がする。
そこまで考えの至った忍の指はさらに沈んでいき、何かに触れた。他の場所より温かく、少しざらついている。
そして何より、脈打っている。
「……しのぶ、そのマま、ゆっくり、なぞる……お願いシマす」
「う、うん……」
ランサナルが苦しそうにあえぐ。忍は言われた通り、ざらつき脈打つそれをなぞった。
「くふっ、アアアアアアアアアア!!」
「どうした!何があった!」
「ナニしてんの?ねえねえナニしてんの?」
ランサナルが絶叫した。ふすまの外に待機していたゴウ姉ちゃんとゼッちゃんが部屋に突入してくる。
「みナいでっ!」
だがその瞬間にはランサナルも忍も繭のようになった翼に包まれており、二人には中で何が起きているのか把握できない。
一方真っ白に囲まれて、これまで以上にランサナルに接近した忍も訳がわからなくなった。指は相変わらず呑み込まれたままで、どんどん熱くなってくる。同時に、理想というものを体現したかのごとき肌に密着している忍の体温もまた上昇してきていた。
「ハァ、はぁ……すみません、しのぶ。これは、あなたと私の、約束事、なので……もう少シッ、のぉ、辛抱です、カラ……あグッ……」
途切れ途切れに言葉を紡ぐランサナル。忍は思わず空いている方の手でランサナルを抱きしめた。ついさっき芽生えた気持ちだが、目の前で好きな相手が苦しんでいるのを放っては置けなかった。
「ありがとう、しのぶ。これで、かんりょウ……いクよ……」
ランサナルの背中が光始めた。まばゆく、優しい光。指が入っている腰の辺りから植物のツタの様な紋様がランサナルの肩へと、そして忍の左腕へと這い上がっていく。腕が焼けるように熱い。
「んんんんんっ!ーーーーーっ!」
それはきっと、ランサナルの背中にしても同じことだった。忍はさらに強く、ランサナルを抱きしめる。光はどんどん強くなり、ピークに達して、段々と減退していった。
「あ、は、はあああっ、あああ……はぁ。ありがとうございます。終わりです。助かります」
はふぅー、と息を吐くランサナル。忍が気がつくと指は全て抜けていた。
翼が展開していく。ランサナルと忍は再び畳間に戻ってきた。決して涼しいとは言えない忍の部屋のぬるい空気が、妙に心地良い。忍はまだ抱きしめたままだったことに気がつき、慌てて手を離した。恥ずかしいが、すがすがしい。そんな気分の忍であった。
「……ノブ、この子とナニしてた?」
「もしかしてアレ?アレをヤっちゃった的な感じ?」
もっとも忍には余韻に浸る暇などなく、姉妹からの追及が待っていたのだが。
「それが僕もよく分からなくて……」
「うっそだぁ。ナニしてたかなんて部屋の外まで筒抜けだったんだから!二人っきりになってムラムラしてイカカガワシイことしてたんでしょ!ケモノ!ケダモノー!」
「ゼツ、嬉しそうに騒ぐな」
「くそっ、また殴ったな……物凄く痛いんだぞ姉ちゃんのゲンコツ!」
「黙れ」
「……」
「で、ノブ。分からないとはどういうことだ。私にはその子が痛がるような声しか聞こえなかったんだがな」
答えに窮する忍。確かに妙な雰囲気ではあった。だが、忍には本当に何をしていたのか分からないのだ。正直に手が沈み込んだことを言おうか。しかしそう簡単には信じてもらえないだろう。
「えっと……」
忍が目線でランサナルに助けを求めると、ランサナルは頷いた。助け船を出してくれるらしい。
「あの、すみません。怒ること無いです。私はただ」
ランサナルは事態の説明をし始めた。
「しのぶに、えっと、私のハジメテをあげたのです」
忍の全身から冷や汗がどっと吹き出した。そんなに重大なことだったのか、アレ!どうしようか。何よりもまず今は
「ノブ?冗談じゃあ済まされないぞ?」
「ニイチャン、ダイタンダネー」
自分の姉妹、特にゴウ姉ちゃんをどうするかを考えなくては。殺される。
焦り始めた忍だが、ランサナルの説明はまだ終わっていなかった。
「そして、ごめんなさい。私としのぶは約束しました。勝手に。契約、成立?といいますか。今日からしのぶは私の『盾』です。『矛』で私を守ってください」