駆け落ちした花婿が戻ってきましたが、心底どうでもいいです
「新入り! シーツの洗濯にいつまでかかってんだい!?」
「す、すみません……」
「汚れ物はまだまだあるんだよ! そんな調子じゃ日が暮れちまうじゃないか! もっと本腰入れな!!」
逞しい体躯の中年女性がエーリックの背中をパーンと音を立てて叩く。
その衝撃で彼の体は前のめりになり、危うく洗濯桶に顔から突っ込むところであった。
「いたた……。くっ……どうして僕がこんなことを……」
貴族から一転、落ちぶれたエーリックは現在セレネ伯爵家の下働きへと成り下がっていた。
どうしてこうなったのか。それは数日前まで遡る―――
*
駆け落ちまでした相手に逃げられたと知ったエーリックは、何を思ったのか再びセレネ伯爵家を訪れた。
もう何の関係もないのに戻られても迷惑だ。
そう告げても彼は斜め上の考えで非常識な言葉を吐く。
『君と僕は一度は愛を誓い合った仲だろう!? 見捨てるつもりなのか!』
その誓いを立てた直後で破った人間は、どこのどいつだ。
対応にあたったディアナはウンザリとした顔でため息をつく。
『下働きとしてなら屋敷に置いてあげます。使えなければ追い出しますので、精一杯頑張ってくださいましね?』
意外にもディアナは追い出すことはせず、エーリックを使用人として雇うことにした。
自分を裏切った男に対して破格の対応。
少なくともこれでエーリックは路頭に迷わずに済んだ。
だが、恩知らずを体現したかのような彼がディアナの温情に感謝するわけもなく……
「なんで僕がこんな下男のような真似をしなければいけないんだ……」
置いてもらっている、という謙虚な気持ちなどない。
頭にあるのは「どうして自分がこんな目に……」という被害者意識のみだ。
おまけに彼は下男のような真似と言うが、厳密に言えばこれは下女の仕事。
力仕事が主な下男の仕事では使い物にならなかったため、こうして洗濯女中の元まで回されたのだ。
だがそんなことすらもエーリックは理解していない。
貴族の頃から下男の仕事と下女の仕事に違いがあるとすら分かっていなかったのだから。
つくづく当主の器などこれっぽちもない男である。
「ほらっ、休憩終わったらさっさと次の洗濯に取り掛かりな!」
「は、はい……!」
おまけにこの指導係のような中年の洗濯女中は迫力が凄まじい。
一度反抗したら「お嬢様を捨てたろくでなしが何言ってんだい!」と鬼の形相で怒鳴りつけられた。
「うう……どうしてこんな目に……」
エーリックは下働きとして雇ってほしいなどこれっぽっちも思っていなかった。
ただディアナと元通り夫婦になり、セレネ伯爵家で優雅に暮らしたかっただけだ。
考え無しのエーリックはそんな都合のいい妄想を働かせていた。
「ディアナ……ディアナに会いたい……」
大人しく自分のやらかした事と向き合うことなどしないエーリックは、己の置かれている状況すら理解せず、機会があればディアナに会おうとする。
だが、その度に同僚の洗濯女中達にしこたま怒られるはめになった。
「お嬢様に会おうとするなんて図々しい! 下働きは主人一家の前に姿を見せちゃいけないっていう決まりを知らないのかい!? それに、浮気して逃げた盆暗がお嬢様に会ってどうしようって言うんだい! 馬鹿言ってないでとっとと仕事に戻りな!」
人生経験の長い女性の迫力にエーリックは何も言えず、ディアナの姿を遠目から眺めることしか出来ない。
そんなことが続いたある日、エーリックは衝撃的な光景を目撃することとなった。
「は……? 誰だあの男は……」
セレネ伯爵家の庭園にある四阿で、ディアナと見知らぬ男が仲睦まじくお茶を楽しんでいた。
遠目から見ても分かるほど、その男の仕草や佇まいには気品が満ち溢れている。
それだけで彼が高貴な身分の人間なのだと否が応でも理解できるほどに。
ディアナもその男の前では花も恥じらう微笑みを浮かべていた。
それはエーリックの前では見せたことのない顔。
恋焦がれた乙女の顔だ。
「僕がこんな辛い目にあっているというのに……自分は浮気をするだなんて……!」
激高したエーリックは同僚の女中達の制止を振り切り、ディアナの元へと駆け出した。
憤怒の表情を浮かべ激情のままにその男に殴りかかろうとする。
だが―――――
「何だ貴様は! お嬢様達に近づくなっ!!」
当然護衛は近くに控えているわけで、エーリックはあっさりと捕縛された。
貴族令嬢の傍に護衛騎士が侍るのは当然のこと。
むしろ見える位置に堂々といたというのに、視界の狭いエーリックには見えなかったようだ。この腰に剣を携えた騎士達の姿が。
使用人に過ぎないエーリックがディアナや客人に危害を加えることは許されない。
本来ならば打ち首ものだが、この件は一旦ディアナが預かる形となる。
ただ、そのまま下働きの仕事に戻らせるというわけにもいかないので、セレネ伯爵家の地下にある牢屋に投獄された。
*
「貴方って、わたくしの予想を超える馬鹿なんですね……」
しみじみと、まるで自分に言い聞かせるようにディアナは呟いた。
彼女はエーリックのような常識という枠を遙かに超えた存在を知らない。
どういう教育を施せばこのようになるのだろう、という疑問が尽きることはない。
「あの男は誰なんだ! まさか僕という夫がいながら浮気をしていたのか!?」
鉄格子を掴んでギャンギャン喚くエーリックはとてもじゃないが元貴族とは思えないほど品がない。
ディアナはうんざりとした表情で頬に手を当てた。
「投獄されて最初に出る言葉がそれですか……。本当に貴方の言動は予想不可能ですね。まあ、もう会うのもこれで最後ですので答えて差し上げます。わたくしと共にいたあの御方は陛下の弟君の大公殿下ですよ」
「大公殿下だと!? どうして殿下が君に会いにくるんだ!」
「どうしてって……わたくしが殿下の婚約者だからですけど? 来月には結婚式も挙げて彼の家に嫁ぐ予定です」
「はああ!? 僕というものがありながら! なんてふしだらな女なんだ君は!」
エーリックが口汚くディアナを罵ると、傍にいた牢番が槍の切っ先を向ける。
突き付けられたそれは顔間近で止められ、思わずエーリックは喉から「ヒッ……」と絞り出すような悲鳴をあげた。
「だって……君は僕と婚姻関係にあるのに『ですからとっくに離婚済だと説明したでしょう?』」
知らないとは言わせない、とばかりに睨みつけるとエーリックは渋々頷く。
理解はしているけど、納得はしていないのだろう。
「で、でも……! なら、君には結婚歴があるじゃないか!? 初婚でもないのに王族と婚約するなど……」
「いえ、むしろ初婚ではないからこそ大公殿下に嫁げるのです。殿下は結婚歴があり、亡くなった前の奥様との間にお子様もいらっしゃる身。その場合、初婚の女性は娶れませんもの」
この国では、既婚歴があり子供もいる男性は初婚の女性を娶れないという変わった法律がある。
背景は知らないがそういった法律があるから大公は既婚歴のある女性しか娶れないのだ。
「だからって……僕と結婚式を挙げてまだ数か月しか経っていないのに、もう次の男と婚約するなんて……」
「まあ、普通でしたらもっと時間を置くでしょうね。ですが、わたくしの場合は異例の早期婚約を認められました。結婚式が王国の歴史に残る位酷いものでしたので……憐れんだ陛下が特例を出してくださいましてね……」
「いや……あれは……。ちょっとドリスと逃げただけじゃないか……? こうやって戻ってきたのだし、そんな大袈裟に言わなくても……」
「あれを『ちょっと』と表現する貴方の感性は理解できませんね。まあ、おかげでわたくしは予定より早く愛しい方に嫁げるのですから構いませんけど」
「は……? 予定より早く? それに『愛しい』って……」
唖然とするエーリックにディアナは微笑んだ。
それは見惚れるほどに端麗な笑みなのに、何故か背筋が急激に冷えるような恐ろしさを感じさせる。
エーリックが知るディアナはいつも穏やかな笑みを浮かべる大人しい淑女だった。
だが、今目の前にいる彼女は違う。
微笑み一つで自分を圧倒する姿に恐怖で言葉が出てこない。
目の前の少女は、貴族として自分とはまさに別格の存在。
『格上』と呼ぶに相応しい存在だ。
「貴方は、どうしてわたくしが貴方と婚約したと思っていますの?」
「は……? それは、君が僕に一目惚れしたからだろう?」
何の迷いもなく堂々とそう告げるエーリックにディアナは思わず笑い声をあげてしまった。
滑稽でたまらない、とでも言いたそうな顔で。
「ふふっ……そこからですか! 呆れた……ずっとそんな思い違いをなさっていたなんて!」
「なっ……!? 何がおかしい! だって婚約はセレネ伯爵家から申し出たことじゃないか!?」
「ええ、まあ、そうですけど……。おかしいとは思いませんでしたの? 貴方も、貴方の御父君も……」
「え……? おかしいって……何がだ?」
「縁を結んでも何の旨味もないアルバン子爵家に、国内有数の資産家である我が家が婚約の申込をしたことですよ。仮にわたくしが貴方に一目惚れをしたとして、何の旨味もない家に嫁がせるような真似を、当主である父が許すと思います?」
「え? それは許すはずだろう?」
何の迷いもなくそう答えるエーリックにディアナは眩暈がした。
さすが、お花畑のような環境で育ってきた男は言うことが違う。
「いや、許しませんよ。何の為に高いお金をかけて娘に令嬢教育を施すと思っているんですか? 家の利益となるところへ嫁がせるためですよ。いくら好いた相手でも、家に何の利益ももたらさない結婚なんて許すはずがありません」
「え……? なら、どういうことだ?」
何の旨味もない、一目惚れですらないと言うなら何の理由があって自分と婚約をしたのか。
「理由は二つあります。まず一つは、わたくしに既婚歴をつけるためですよ。初婚では愛する方に嫁げませんので」
「……はあ? なんだそれは!? どういう意味だ!」
「なんだって……先ほどの会話で分かりませんか? 貴方にとってドリスさんが唯一愛する方だったように、わたくしにとっては大公殿下が唯一の方だったのですよ。わたくしは、わたくしが真に愛する方と……どうしても添い遂げたかったのです」
ディアナの口からはっきりと別の男への愛を告げられ、エーリックは愕然とした。
頭のどこかではまだ彼女が自分に愛情があると信じていたが、今の言葉でその妄想は打ち砕かれる。彼女は初めから、自分以外の男を愛していたのだと。
「それでどうして貴方だったかと言うと、貴方が一番理想的だったからですよ」
「理想的……?」
その言葉は決して好みの異性だとか、そういう意味ではない。
まるで「駒として最適だ」と言われているようで、エーリックは背筋に薄ら寒いものを感じた。
「まともな家の、まともな子息に嫁いでも簡単に離婚は出来ないでしょう? 相手に難癖つけて離婚するのは良心が咎めますし……。なので難ありの家と子息を探していたのですよ。簡単に離婚が成立しそうな、そんな先を。アルバン子爵家はこれ以上ないほど条件に合致しておりましたよ。家は借金に塗れ、子息には平民の恋人がいるのですから」
自分とその家が『難あり』と判断されたことが衝撃だったのか、エーリックは唖然として言葉が出なかった。
そんな彼に構わずディアナは説明を続ける。
「アルバン子爵家のような借金塗れの家に、婚約と同時に融資を約束するような話を持ち掛ければ、どうすると思います?」
「それは……承諾するだろうな」
そういえば両親はディアナとの婚約を泣いて喜んでいた記憶がある。
あれは金目当てだったのかと、エーリックは今更ながら納得した。
「ええ、そうです。アルバン子爵は二つ返事で承諾しましたよ。その際に結んだ契約がこれです」
どうぞご覧ください、とディアナは手に持っていた書類を開き、エーリックの目の前に掲げた。
「は……? 何だこれは……。『融資の返済を求めない代わりに、エーリック・アルバンの一切の不貞を禁じる』だと……?」
融資で返済を求めないなど有り得ない。それではまるで融資でなく施しではないか。
それに見返りが不貞を禁じることでは、とてもこの金額には見合わない……。
「しかもこれを破った場合は即座に離婚。そしてアルバン家が所有する鉱山をセレネ家に譲渡すること……? え? 金を返すのではなくて……?」
アルバン子爵家が所有する鉱山は、別に採掘量が国有数というわけではない。
むしろ何も採れないからと祖父の代に閉鎖したような場所。
あっても何も意味がない、そんな鉱山を何故見返りとして求めるのか……。
「なんであんな鉱山を見返りとして求めるんだ……? だってあそこは……」
「ええ、閉鎖しているのですよね。もちろん存じておりますよ」
「知っているのか……? だったら、何故……」
「それは後でご説明しますが、この鉱山が二つ目の理由ですよ。まあ、今は先に貴方に嫁げば離婚がしやすいことについて話しましょうか。わたくしがこの条件でアルバン子爵家に輿入れし、貴方がドリスさんと不貞を働いていることを指摘すればどうなると思います?」
「そんな……不貞なんかじゃない。ただ僕はドリスを愛しただけで……」
「ああ、そういうのは結構ですから。ようは『不貞を理由に離婚する』ということが目的だったのですよ。嫁ぎ先に恋人がいる家ならば、不貞を指摘することも簡単でしょう? 融資を理由に予め条件を定めておけば、離婚も簡単にできますしね。これが一つ目の理由です」
確かにエーリックは結婚後もドリスとの関係を続けるつもりだった。
しかも邸内にいるのだから、邸内で会おうとすらしていたのだ。
本妻がいる家で、恋人と乳繰り合うなんて正気ではない。
だが、そんな正気じゃないエーリックだからこそ『離婚しやすい』とディアナに目を付けられたというわけだ。
「……待ってくれ。君はドリスの存在を最初から知っていたのか……?」
「ええ、まあ。お顔を拝見したのは結婚式の日が初めてですけど」
ディアナは初めから知っていた。その事実にエーリックはひどく羞恥を覚える。
知らないと思っていたのだ。
そして自分はそんなディアナを馬鹿にしていた。
婚約者が別の女に夢中なことも知らず、ノコノコと嫁いでくる滑稽な女だと。
だが、馬鹿で愚鈍なのは自分だった。
彼女は最初から自分を既婚歴を付けるための駒としか見ていなかったのだから……。
「そんな理由で婚約を申し込んできたのか……? ずっと……君は僕のことを好きなのだと信じていたのに……」
羞恥と悲しみでエーリックの瞳からはとめどなく涙が溢れた。
ディアナは最初から自分のことを愛していなかった。
それどころか自分を利用していたと知り、裏切られた悲しみや悔しさで一杯だ。
だが、そんなエーリックをディアナは冷めた目で一瞥する。
その目には呆れと侮蔑が入り混じっていた。
「どうしてそんな思い違いをされたのかが不思議です。婚約期間中もろくに連絡を寄こさず、贈り物一つ渡さず、手紙すらもない。そんな殿方を好きになる令嬢っているのかしら?」
「それは……だって、ドリスに悪いから……」
「婚約者よりも恋人の機嫌をとってどうするんです? しかも融資を受けている立場で、それはちょっと恩知らずではございませんか?」
「いやそれは……僕は融資のことも借金のことも知らなかったし……」
「ご自分が継ぐ家のことを、何故そこまで知らないのか理解に苦しみますね。ああ、それにしても……貴方と貴方のご家族が、わたくしに対して何の気遣いもしてこなかった理由がやっと分かりましたよ。ずっと、わたくしが貴方に心底惚れていると思ってらしたのね? 惚れているから、何をしてもいいと……」
底冷えのするような目で見られ、エーリックは居たたまれなくなった。
彼も両親も、ずっとディアナがエーリックに惚れていると思い込んでいたのだ。
だからこんな多額の融資をしてくれるのだと。
でもそれは間違いだ。
ディアナはエーリックに対する愛情なぞこれっぽっちも持ち合わせていなかった。
「だから……今こんな目に遭っているのか? 我が家が取り潰しになったのも、僕がこんな底辺の生活を送っているのも……全部、君のことを勘違いしていたから……」
「まあ、確かに貴方や貴方のご両親が、最初からわたくしのことを大切に扱ってくれておりましたら……違いましたでしょうね。ドリスさんときっぱり決別し、わたくしを妻として遇するのでしたら、アルバン子爵家の皆様には何不自由ない暮らしが待っていたでしょうけど……」
エーリックがドリスを遠ざけることが無理だとしても、アルバン子爵夫妻は嫁いでくる嫁の為に動くべきだった。
セレネ伯爵家には融資してもらっている恩があるのだから。
だが夫妻は『どうせディアナはエーリックに惚れているのだから』と息子同様勘違いし、嫁に我慢させればいいと傲慢な考えで何も行動しなかった。
「とはいえ、貴方達の態度が不愉快なものだとしても、わたくしは離婚さえ出来ればそれでよかったんですよ。アルバン子爵家の破滅なんて少しも望んでいませんでしたわ。……貴方は、何故あの時駆け落ちなんてしたのですか?」
「え…………?」
「だって、考えてみてください、あの結婚式の日、駆け落ちなんてしなければ……貴方はどうしていましたか?」
「え? それは……」
多分そのままディアナと夫婦になり、アルバン子爵家で暮らしていた。
ドリスとの関係は続けたままで。
それを告げるとディアナは「そうですよね」と答える。
「その状態でドリスさんとの不貞が発覚し、わたくしと離婚したとしても、貴方が失うのは鉱山だけです。ほら、この契約書にも融資金の返却を求める文言は何処にもないでしょう?」
再びエーリックは契約書に目をやった。
そこには返却についての文言はどこにも記載されておらず、ただ離婚と鉱山の譲渡しか求められていない。
「あの時、駆け落ちさえしなければ……アルバン子爵家は教会から破門宣告をされることもなく、貴方も貴族のままでいられたのですよ。あれが貴方とアルバン子爵家の不幸が始まるきっかけのようなものです」
「あ……、ああ……!」
あの時ドリスの手を取らなければ……とエーリックはあの時の行動を今更ながら激しく後悔した。
どうしてドリスの手を取った?
別にあれが今生の別れというわけでもない。
ドリスは屋敷を追い出されたわけでもないし、帰ればまた会えただろうに。
どうして……。
「ドリスさえ……あの場に来なければ……」
後悔に苛まれ、その場で膝をついた。
あの場にドリスさえ現れなければ、こんなことにはならなかったのに。
「ドリスさんだけのせいではありませんわよ? 手引きした弟君にも責任はありますし、そもそも貴方がその手を取らなければよかったんですから」
「は…………?」
ディアナは今……何と言った?
「あら? ドリスさんから聞いていないんですか? 貴方の弟君がドリスさんを会場内に引き入れたらしいですよ」
「はあっ!? 弟が……!? 嘘だ……何で弟がそんなことを……!!」
「貴方の後釜を狙っていたみたいですね。嫡男の貴方が駆け落ちしてしまえば、当主の座もわたくしも、全て自分のものになる……という筋書きだったそうで」
「何だって!? どうして君がそんなこと知っているんだ!?」
「それはまあ……貴方が駆け落ちした後、本人の口から直接聞きましたからね」
あの騒々しい駆け落ち劇の後、国王も交えた両家の話し合いの場で、ふとこんな疑問が湧いた。
あの闖入者はいったいどこから入ってきたのだろうか?
国王が参列する会場だ。当然警備も厳重だったはず。
招待すらしていない、正装もしていない怪しい人間が入れるはずがないのだ。
式の関係者が手引きでもしない限りは難しい。
そうして始まった尋問でアッサリと犯人が判明した。
「貴方の弟君が会場の外でウロウロしていたドリスさんを見つけ、駆け落ちを唆したようですよ。そうすれば自分が後釜に座れるからって。……浅はかですわね」
目先の欲に囚われた結果、家を失い貴族ですらなくなった。
つくづくアルバン子爵家は先のことを考えられない人間の集まりだ。
その場にいた者達全員が彼等に失望したことは言うまでもない。
「そんなっ……! 畜生……あいつは何て余計なことをっ……!!」
怒りのままにエーリックは鉄格子に拳を叩きつけた。
力任せに叩いたせいか鈍く大きな音がその場に鳴り響く。
それはか弱き女性を驚かせるような荒々しい音。
だがディアナは眉一つ動かさず、ただ無表情で目の前の男を眺めていた。
「……ドリスさんの行動も、弟君の行動も、どちらも間違ったものでしたね」
「ああ……そうだ! あいつらさえ余計なことをしなければ……僕は今頃……!」
「ですが、一番初めに間違ったのは、貴方ですよ」
「え………………?」
虚ろな表情でエーリックはディアナを見つめた。
彼女の一切の表情を無くした端正な顔は底冷えがするほど恐ろしく、怒りまでも冷めてしまいそうだ。
「どうして、ドリスさんの立ち位置をはっきりさせておかなかったんです?」
「は……? ドリスの、立ち位置……?」
「ええ。弟君が話していた内容によると、貴方はドリスさんとの関係をどうするか、それを明確になさらなかったようですね? 愛人として囲うのか、それとも関係を切るのか」
「は? ……そんなことする必要ないだろう? これまで通りの関係でいればいいんだし……どうして愛人だの、別れるだのとそういう話になるんだ? 僕の愛さえあればそれでいいじゃないか?」
エーリックのお花畑な考えにディアナにため息をついた。
ここまで愚かだったとは。そう言いたげな顔を彼に向ける。
「……そのせいでドリスさんは不安に苛まれ、そこを弟君につけ込まれ、あのような凶行に及んだわけですよ。それまで通りの関係でいたかったのなら、それも説明して納得してもらう必要があったのでは?」
ディアナの指摘にエーリックは唖然とした。
ドリスは自分との関係に不安を感じていたのか?
でも、そんなこと一言も……いや、待てよ……。
そういえば、結婚式の数日前からドリスはやたら変なことを聞いてきたような……。
まさか……あれがそうだったのか?
「……ドリスは、僕に『家を買ってほしい』だの『身分を捨てるの?』だのと聞いてきたが……まさか、それは……」
「それは、前者は『愛人として囲うつもりなら家を購入してほしい』という意味なのでは? そして後者は『夫婦として添い遂げるつもりなら身分を捨てて』という意味かと……」
「そういう意味だったのか? そんなの……言ってくれなきゃ分からないじゃないか……!」
「貴方はドリスさんに言わなくても分かるだろうという態度ですのに、ご自分は別なのですか? その認識は間違っていると思いますよ。会話で言葉を惜しむべきではないかと」
淡々としたディアナの物言いがエーリックの心に深く突き刺さる。
間違っていたのは自分なのか?
僕が……ドリスともっと向き合っていれば……こんな事態にはならなかったのか……?
「さて、貴方の今後についてですが、選択肢は二つあります」
愕然と項垂れるエーリックに構わずディアナは今後について説明した。
「あんな騒ぎを起こしたので、もう屋敷で雇うわけにはいきません。住み込みの労働所に行くか、貴方が真に愛する相手……ドリスさんの所に行くか、どちらか選んでいただきます」
「は? ドリスの所……? 何処にいるか分からないんだぞ?」
「何処に行ったかは把握しておりますので、ご安心ください。勿論そこまで送り届けて差し上げましてよ」
正直、エーリックの中でドリスへの愛情はもう枯れつつある。
だが……労働所に行くことと天秤にかけて、どちらがいいかなんて決まっているようなものだ。
「…………なら、ドリスの元に行く」
絞り出すような声でエーリックはそう答えた。
本当はディアナの所がいい。流石にそれを言えば牢番の槍で刺されかねない。
「左様でございますか。では、そのように。明日の朝一番で送りますので、今宵は一晩ここでお過ごしください」
それだけ言い終えるとディアナはエーリックに背を向けた。
「駆け落ちまでなさったんですもの……きちんと添い遂げてくださいましね。では、お元気で……」
去り際に放たれた言葉がエーリックの胸を締め付ける。
何が何でも添い遂げたいとか、そんな強い気持ちがあって駆け落ちしたわけじゃない。
その時の雰囲気で、勢いで、そうしてしまっただけだ。
後で自分がどうなるか、家がどうなるかなんて考えもしなかった……。
今更悔やんだところでもう遅い。
もう全ては終わったことなのだから。
*
「あら、そういえばあの鉱山について説明してなかったわ……」
色とりどりの花々に囲まれた美しい庭園。
その四阿でディアナは婚約者とお茶を楽しんでいた。
「うーん……それは、言わない方が正解だと思うよ?」
婚約者の大公が優美な仕草でお茶のカップをソーサーに戻す。
そして空いた手で優しくディアナの頬を撫でた。
愛しい、大切だ、という気持ちが伝わるような手つきで。
「そうですか? 知っておいた方がいいと思ったんですが……。元はご自分の家の持ち物なんですから」
「その持ち物が宝の山と知らず、要らぬ物扱いしていたような、見る目のない人間だ。知ってしまえば無駄な欲が出るだろうよ」
「まあ……確かに」
セレネ伯爵家を訪問した大公にエーリックが危害を加えようとした日から数日、あの時の詫びも兼ねてディアナは大公家へと足を運んでいた。
一日だけ夫婦だった元夫の顛末と、どのような会話を交わしたかを説明していると、ふと気づく。
自分がエーリックに鉱山の価値を話していなかったと。
「それにしてもアルバン元子爵家は愚鈍な者の集まりだったんだな。金剛石が採れる鉱山を眠らせておくなんて……普通じゃ考えられないよ」
「あら、だって彼の家はあの鉱山から資源が枯渇したものだと思い違いをなさっていたんですもの。碌に調査もせずにね」
平民の恋人がいるエーリックならば離婚が成立しやすい。
だがそれだけではディアナの父、セレネ伯爵を納得させることは出来ない。
ただ自分が大公を好きだから、既婚歴を付ける為だけに婚約をする。そんなことを父が許すはずもない。貴族令嬢の婚約とは、家に利益をもたらすものでないと。
なので、何か利益になるものはないかとアルバン子爵家を調べていくうち、あることを発見した。
彼の家が所有する、閉鎖された鉱山からは金剛石が採掘されることを―――。
「父は喜んでおりましたよ。予定より早くわたくしが離婚したことで、あの鉱山が手に入ったのですから」
ディアナは父に離婚の際、鉱山を譲渡する契約を先方と交わすよう持ち掛けた。
鉱山の話に目の色を変えたセレネ伯爵は二つ返事でそれを了承し、気前よくアルバン子爵家へ融資した。鉱山で得られる利益に比べれば、融資金など端金だと。
後はエーリックが不貞を犯すのを待つだけ。
だったのだが……流石の伯爵もまさか結婚式の日にそれが成立するとは、夢にも思わなかった。
「ああ、なんでも採掘量が想像以上だとか。それじゃセレネ伯爵も笑いが止まらないだろうよ」
どうして金剛石が採れる鉱山を眠らせておくのか。
調べていくうちに分かったが、理由はとてもくだらないことだった。
「賃金のことで鉱夫と揉めた挙句に閉鎖って……先代アルバン子爵もどうしようもないな」
エーリックの祖父、先代アルバン子爵が鉱山を閉鎖した理由は賃金のことで鉱夫と揉めたからだ。
先代は非常に倹約家だったようで、鉱夫に一般的な水準よりも下の賃金しか支払わなかった。
そうなると当然彼等からは不平不満が出てくるわけで、それに対し先代はあろうことか激高し「だったらもう閉鎖する!」と言って閉めてしまったそう。
先代は、鉱山に金剛石が沢山眠っていたことすら知らなかったのかもしれない。
そもそも、その時代に鉱山で何を採掘していたかの記録すら破棄されていたので、詳細は分からずじまいだ。
その鉱山さえ閉鎖しなければ、今頃アルバン子爵家は資産家として名を馳せていたかもしれないのに。
「それで、アルバン元子爵令息は今頃愛しの君の元に?」
「ええ、二人仲睦まじく暮らしていることでしょう。添い遂げるために全てを捨ててもよいほど、相思相愛の二人ですもの」
エーリックをドリスの元まで送り届けた使用人の報告によると、二人は顔を合わせた途端に激しく罵り合ったそうだ。
お互い、もう相手を見る目が変わってしまったのだろう。
エーリックにとってドリスは、自分を破滅へと追い込んだ原因のようなもの。
ドリスにとってエーリックは、捨てたはずの要らない荷物だ。
もう、互いの間にあるのは愛情ではなく、憎しみなのだろう。
それでもディアナはエーリックをドリスの元に送り込んだ。
ドリスが、もうエーリックをいらないであろうことを知ったうえで。
お荷物を抱えては生きていけないと判断し、彼を見捨てたことも理解したうえで。
(あんな恥をかかせてくれたんですもの……)
平然としているように見えて、ディアナは結婚式という公の場で恥をかかされたことをしっかりと根に持っていた。
花婿に逃げられた花嫁、としばらく社交界で笑いものにされた恨みは決して忘れない。
だが、予定より早く愛する人と婚約できたことは感謝している。
だから命までは見逃してあげることにした。
そうでなかったなら、今頃二人はとっくに冷たい土の下で仲良く眠ることになっただろう。
セレネ伯爵家の財力にかかれば、駆け落ちしたお花畑二人を探すことなど容易いこと。
「最初から、間違っていたんでしょうね……」
ぽつりと呟き、ディアナは遠くの空へと視線を向けた。
まるで、ここにはいない誰かに向かって言うように。
「それは、君の元夫が身分違いの者を愛したことを言っているのかい?」
「ええ、そうです。身分ばかりは……どうにもなりませんもの」
エーリックもディアナも、簡単には添い遂げられないような相手に恋をした。
だが片方は破滅し、片方はその恋を成就させた。その違いはやはり身分だろう。
「わたくしは既婚歴さえつければ貴方様と添い遂げられた。ですが、彼の人は添い遂げるためには身分を捨てねばなりません。ですが、貴族が平民の生活をすることはかなり難しいですもの……」
自分で身支度すらしたことのない貴族が平民に降る。それがどんなに困難なことかは想像に難くない。
実際、エーリックはドリスに世話してもらわねば食事すらありつけなかったと聞く。
「それもそうだな。だが、君のその……『既婚歴さえつければいい』と簡単に言えてしまえる行動力があったからこそ、私達はこうして一緒になれるのだと思うよ?」
「あら、そうですか……? でもそれは、それだけ貴方様を深く愛しているからですわ」
「ふふ、嬉しいな。私も君を愛しているよ」
貴方と出会ったあの瞬間は、きっと生涯忘れられない。
側妃となった叔母に招待され、初めて足を踏み入れた王宮で貴方と出会った。
心臓が五月蠅いほど高鳴って、のぼせそうなほど体が熱くなり、これが恋なのだと知った瞬間。何が何でもこの方と添い遂げたいと、そう強く願った。
幸いにもこの方と想いを通わせたのに「既婚歴のある自分では君と結ばれることは難しい」と言われ、身を引こうとするこの方を止め、今回の計画を持ち掛けた。
一度は他の殿方の妻となるが、必ず綺麗な身のまま貴方の元へ戻る。だから待っていてほしい、と告げて。
けれど、もし……貴方の身分が平民だったのなら、添い遂げることを諦めたかもしれない。
エーリックのように何とかなると考えられるほど、楽観的ではないのだから。
それは心に留めたまま、ディアナは目の前の最愛の男性に熱を持った視線を送る。
「ディアナ……。そのような目で見つめられたら、このまま君に触れたくなってしまうじゃないか?」
「あら、いけませんわ。あちらでお嬢様が見ておりますのよ?」
視線を向けた先には、花を摘んではしゃぐ幼い女の子がいる。
彼女は大公と前妻の娘。そして結婚後にはディアナの義娘となる。
目が合うと嬉しそうに「おねえしゃま!」と舌足らずな可愛らしい口調でディアナを呼ぶ。
「ふふ、可愛らしいこと。早く一緒に暮らしたいですね」
「それは嬉しいな。娘も君を大層気に入っているから、一緒に暮らせると告げたらすごく喜んでいたよ」
「まあ、光栄ですわ」
季節が一つ過ぎる頃、ディアナは大公の妻となる。
愛する人と、その娘と、家族になる。
そんな近い未来を想像し、彼女は頬を緩ませ、柔らかく微笑んだ―――。




