泣かない雨
雨が降ると、あの人を思い出す。
あの人は雨が大嫌いで、灰色の雲がじっとりと湿ってきて今にも泣き出しそうとする頃になると、必ず私に電話をしてきた。仕事用の硬い声で、もしもし俺だけど迎えに来てよ、とだけ言う。
その電話がくると、洗いかけのお皿でも読みかけの本でも、縛りかけの髪でもなんでもを放り出して、私は大慌てで車を出す。あの人の好きな色だからと買ってしまった緑色の傘と、携帯電話と、免許証の入ったお財布だけを持って。私の車は小さくて、薄い水色をしているので雨の日にとても良く似合った。きっと水の都にも良く似合うに違いないくらい。
彼は自分でも仕事が大好きだという人間で、残業手当が付かなくてもまったく平気で、仕事と聞けば喜んで働いていたし、休日出勤になってしまっても文句のひとつも言った事がなかったのに、雨の日だけは別だった。雨は大嫌い、という彼の過去を、私は知らない。けれども、彼が嫌えば嫌うほど、私は雨が好きになった。雨が降ればあの人に会える。雨が降れば、あの人は私に電話をしてくる。雨は、私にとってデートの約束を知らせる幸せな存在だった。
私と彼が知り合ったのは、今から二年くらい前の話になる。
彼の勤めている会社で昔、私がバイトをしていたのだ。
私の仕事は雑用ばかりで、若いアルバイトだというので責任もそんなになく、周りの人は私を軽く取り扱ってくれていた。私のする小さなミスくらいなら、すみませんでした、と頭を下げるだけで簡単に許してもらえた。そんな私を、彼だけが正社員と同じ重さで取り扱っていたので、最初、私は彼が嫌いだった。
荷物を違う場所に運んでしまい、慌てて運びなおした時も、彼だけが私を叱った。君はちょっとした間違いをしているだけだと考えているだろうけれど、その荷物が届かなかったおかげで予定がずれた人だっているんだ、と。頼まれた買い物に行って、つい買い忘れた物があったりしても、他の人は笑って許してくれたのに、彼だけは私を怒った。責任感のなさ過ぎもいい加減にしてくれ、子供のお使いじゃないんだ、ここは会社なんだ、と。
お給料だって貰っているし、私だって一生懸命働いています、と反論しようとして、けれどもそれが出来ない自分がいた。あんなに怒ってばかりの人なのに、どうして周りは彼をいい人だと言うのだろうと考えたら、確かに責任が軽い事を盾にして、仕事を簡単に考えている自分にはそんな事を言う権利がない気がした。
彼は確かに些細な事でも怒るけれど、それはきちんと男女平等に怒っていた。そして、誉める時もきちんと男女平等に。女の子だからといって甘えていれば怒られるし、その代わり自分の仕事を責任持ってこなせば、きちんと誉めてくれる。
『口が悪いから誤解されやすいみたいなんだけど、基本的に人間としてしっかりしている人よ』
彼の隣側に席がある事務員さんにそう言われて、私は彼を見る目が少し変わった。
見る目が変わると、なんとなく毛嫌いしていた分好きなところを探そうとするのが私の癖で、私は観察するでもなしに彼を仕事中に見詰める日々が続いた。
恋になんて、簡単に落ちる事が出来る。
私はそのうちすぐに彼の事が好きになってしまった。いつも清潔そうな靴下を履いているところや、少し猫背な後ろ姿、笑うと目尻にしわが寄って優しい顔になるところ。分からないからといい加減にしておけば怒られるけれど、分からない仕事のやり方を聞きさえすれば、誰よりも丁寧にきちんと教えてくれるところ。
彼は滅多に笑わなかった。彼の笑顔が大好きになってしまった私は、少しでも彼が笑うところを見逃さないでおこうと必死になっていたのだけれど、ある日それに疲れてしまい、私は直接本人に言ってみた。『あなたの笑う顔が大好きなのですが、あまり普段笑わないようですし、私がお願いした時に笑ってもらえませんかね』と。
嫌だよ、と彼は真面目に答えた。頼まれて笑うなんて無理だよ、そんな器用な事は出来ないね、と。
真面目に返されるのも困って、私は『じゃあ好きです』と言ってみた。すると彼は私の好きなあの顔で笑ってくれたのだ。『じゃあ』ってなんだよ『じゃあ』って、と、本当に私が大好きな顔で。柔らかく下がる目尻、そして持ち上がる唇。私はそれだけで幸せになってしまった。ものすごく、幸せな気分に、なってしまったのだ。
彼には奥さんがいたので、私は彼の恋人にはなれなかった。
十才以上も年が違っていたので、それは仕方がないと思った。むしろ、奥さんがいるのに平気で私と寝たりしたら、即座に『好き』を撤回して、彼を馬鹿にしただろう。好きになった私が言うのもおかしいけれど。
ただ、仲良くはなった。
前よりも私と話すようになって、笑う時にはなるべく私の側に来るようになって、彼はなんて律義な人なのだと感心した。
バイトはじきに辞めてしまったけれど、私と彼の関係はそのまま続いた。そして、今も続いている。私は短大を卒業したけれど、就職はせずにスーパーでレジのパートをしていた。午前中だけ。午後は、雨が降ったら彼から電話がきてしまう。彼が大好きな仕事までをも放り出したくなるほど嫌いな雨から、救い出しに行かなくてはならないので、私は一日の半分をまるまる、彼のために空けておく。
「雨なんて嫌だな、最悪だよ」
うちから会社までは車で十五分ほどだ。着信履歴に残る彼の携帯に電話をかける。着いた事を知らせるためだけなので、三回呼び出し音を鳴らして切る、それで私たちは分かり合えていた。
「ああ、もう嫌だ、もう嫌になった、ちょっと飲んで行こう、そうしよう、」
彼は会社の駐車場に停められた私の車をすぐに見つけ出して、音もなく乗り込んできたかと思うとそんな事を言う。グレーのスーツは雨を玉にして弾いていて、彼はそれを右手でさっと払った。
「駄目です、飲酒運転になってしまいます」
「いいじゃないか、君は飲まなければいいんだから、俺だけ勝手に飲むもん、それでいいじゃない」
「なにそれ。それに、私の車で雨を払わないでくださいよ」
「なんだよ、俺のために防水シートでも張っておいてくれよ」
なにそれ、と私はまた呟いて、けれども堪えきれずに笑い出してしまう。ミラーに映る彼も、子供みたいな顔で笑っている。嫌いな雨の中なのに、彼は私のために笑顔を見せてくれる、そういう風に自惚れてはいけないものなのだろうか。
「さ、行こう、早く行こう、さっさと行こう」
勝手にそう決めて、けれども行き先を決めるのはいつも私の役目だった。彼はシートを倒して、すぐに横になってしまう。そして、けして行きたい場所を言わないのだった。君が行きたい場所に行ってよ、とか、近場がいい、とか、日本酒が飲みたい、などという断片的な事ばかりだけを言う。私は頭の中に入っている情報を総動員して、彼のカケラみたいな要求を含んだお店を思い出そうとする。
しかし、私の連れて行くお店はいつでも合格点を貰えず、彼は「でも移動も面倒だし、ここでいいよ、ここにする」などと言うのだ。
彼はまず、中ジョッキのビールを飲む。
私はお付き合いで、グレープフルーツのジュースを飲む。
それが私たちのやり方だった。どちらかが入ってすぐにトイレに行ってしまったり、車に忘れ物をしてきたりしても、残された片方が慌てずに注文を出来るように。
「雨なんて、夜中だけに降ればいいのに。世の中が眠っている、夜の真ん中だけにさ」
案内されたカウンター席で、ジョッキに泡の輪を作りながら、彼はビールを気持ち良さそうに飲む。
私はその喉仏がこくんこくんと上下するのを見るのが楽しくて、ストローをくわえたままで目だけを動かす。こくんこくん、と。それは実に正しいリズムでで喉の奥へ液体を滑らせる。私が苦くて飲めない、ビールを。
店内は水分を多く含んだ空気で充満していて、熱く濁っている。腕に絡むゆるゆるとした空気はあまり気持ちのいいものではないけれど、雨の日にしか一緒に飲んだり出来ない私たちにとって、いや、私にとって、その空気も幸せの形だった。
「そう思わない?」
「私は別に雨、嫌いじゃないですもん」
「でもさ、夜だけ降ってればいいと思ったりしない?」
「思ったりした事ないですよ、別に。それより、何か食べます?」
「うん?」
君が好きなものを、などと彼が言うので、私は食べてもいない晩御飯を食べた、と言ってしまった。アマノジャクなのだろうか。私ばかりが店やメニューを決めるのに、抵抗を感じるなんて。
「もう、ご飯食べましたもん。好きなもの頼めばいいじゃないですか」
「何も食べたくない?」
「……そんな事はないですけど。お付き合い程度なら、うん、ちょっとだけ」
「俺が決めるの?」
「そうですよ、ご飯食べてない人が決めるんです」
「そんなの、ルール?」
「そう、そういう決まり事なの」
誰が決めたんだか、と彼が笑う。私が決めたんですよ、とこっちも笑ってやった。
「じゃあ……、」
彼は随分と長い『じゃあ、』を宙に放りっぱなしで、彼はメニューを一所懸命に覗き込む。意地悪しないで、適当に頼んであげればよかったかな、とちくりと胸が痛んだ。真面目な横顔が、そんな事を私に思わせる。今日はありふれた居酒屋さんなので、メニューだって奇抜なものはない。選び事が苦手らしい彼に代わって、私が決めてあげればよかった、本当に。などと、すぐに甘い事を思ってしまうのは、やはり私が彼を好きだからだろうか。
「揚げジャガ、と、ううーん、たこピザ、は君が好きだろう、どうせ。あと、大根サラダと、ネギ串とネギ間、アスパラ巻きを二人前ずつ、と、揚げだし豆腐も欲しいな、それで一応、」
ああ、それとビールをもう一杯。
「君は?」
「え?」
「飲み物」
「あ、まだいい、です」
「そう、じゃあいいや、それでお願いします」
注文を取りに来た店員にそう告げて、彼は私の方を見る。なに、と首を傾げると、彼は、たこピザ好きだろう、と言う。
「さっきも同じ事言いましたよね」
「返事をしなかったじゃないか。嫌いだったら取り消すよ」
「……嫌いじゃないです、どちらかと言えば大好きです」
「そう、それは良かった」
たこ焼が好きだとか、前に話した事がある。車の中で、雨に嫌そうな顔を向ける彼にした、ほんの些細な話だった。
彼が私のひとことを覚えていたのかしら、なんて、また自惚れてしまいそうになるのはいけないだろうか。
キレイに割られた割り箸が目の前に差し出された。彼の大きな手が、箸の端をそっと摘まんで、私に渡してくれる。素直にそれを受け取って、小さな声でお礼を言う。私は割り箸を上手に割れない。とても下手なのだ。人が逆に感心してしまうくらい、ある種特技でしょ、なんて言われてしまうくらい、不揃いな割り箸になってしまう。いつも、向かって右側が大きく欠ける。
「君の割り箸占いは、いっつも想われているんだもんね」
「……なんですか、それ」
「あるんだって。君の割り箸は、いつもどっちが欠けるんだっけ?」
「右、側」
「あのね、娘が小学校で聞いて来て、やってるんだ家で。向かって右の箸が自分。左が相手。割り箸を割って、木が偏るだろう? たくさん木の付いている方が、木の少なかった方より、相手の事をたくさん想ってるっていう占いらしい」
「……ふうん」
じゃあ、その占いは当たらない。
でも、もちろんそんな事は言わなかった。
ただ、茶化したくて、真っ直ぐ割れる人はいつでも両想いですかね、と口にした。彼は、いつでも両想いの人なのだろうか。そこまでは分からないけどね、と彼が優しく言う。表が雨のせいだろうか。店内はそれほど空いているという訳でもないのに、奇妙に静かな感じがした。
運ばれてきたネギ串を口に入れて、次は何を飲もうかしら、と私は考える。もう一杯グレープフルーツジュースにしようか。それとも、ジンジャーエールをジョッキで貰おうか。炭酸ものって時々飲みたくなるわ、と思っていたところだった。急に彼が、何でもないような声で、今日で最後かも、と言った。
「……はい?」
突然の事に、ネギはどうにか飲み込んだのだけれど、意味は飲み込めなかった。
私は自分でも変だと思う声で、聞き返してしまう。
「なんですって?」
「うん、君と飲むのはね、今日で最後になるかもしれないんだ」
「どうして?」
私たちには身体の関係がない。キスもない。馬鹿みたいな話だけれど、手を繋いだ事すらない。恋人ではないからだ。恋人同士しかそんな事をしてはいけないと思い込むほど私は純情じゃないし、そんな事をいう人なんてむしろ子供過ぎると軽蔑するだろう。けれども、私は恋人ではない彼とはそういう事をしたくなかった。彼も、奥さんを裏切る事なんてしたくないと思っていたのだろう、私に対して、けしてそういう行為に誘うような言動はしなかった。
「転勤なんだ、神奈川。行っちゃうの、もう娘の学校の手続きも、済んでる」
「……いってらっしゃい」
「なんだそりゃ。あはははは、もっと残念がると思ったんだけどな」
残念と言うべきなのか、なんと言えばいいのか、その。
「……あっち行ったら、私以外の雨の日女、作るんですか?」
「雨の日女?」
「取りあえずの呼び方だけど。……私はもう雨が降っても、呼び出されなくなっちゃうんですね」
「そりゃそうだ、呼んだって来られないじゃないか」
そうだけど、と俯いた自分が、涙声になっている気がした。
恥ずかしいな、トイレにでも逃げようかな、と思っていた時。
彼が、ぽつりと呟いた。
でも、もう雨が降っても誰も呼び出さないよ、と。
「我慢して仕事する事にするさ。誰も呼び出さない、雨が降っても」
私にはそれが、とてつもない愛の言葉に聞こえて、仕方なしに揚げだし豆腐に付いてきたワサビを全部、口に入れた。
「おいっ、」
鼻に抜ける、あの辛さ。
目の先まで痺れて、私はじんわりと涙ぐむ。
「あっはは、何かと思ったらワサビだったわ」
分かりきった事を言うしか出来ない私に、彼はとても困った顔で笑ってみせた。私の大好きな、とっておきのあの、笑顔。
せめて身体の関係があれば泣く権利も与えられただろうに。私は泣く事を許されない。少なくとも自分自身がそれを、許さなかった。
「最後って、なんか唐突ですね」
「そういうモノでしょ」
「……変な時期に転勤するんだ、なんかミスしたんでしょう」
泣きたい自分を誤魔化して、軽口を叩く。ミスなんかするかい、栄転だよ栄転、と彼が偉そうに言った。
今日、雨が降らなかったら、彼は無言で行ってしまったのだろうか。それとも、たった一度だけ、晴れの日に私たちは会えたのだろうか。会う事が、出来たのだろうか。
「……元気でいてくださいね。帰って来たらまた飲みましょうよ、なんて、今度は栄転とか言って海外に飛ばされたりして」
「馬鹿、海外になんてうちの会社ないよ」
「そうでしたっけ、あはは、じゃあいつかまた、雨の日に飲みましょうね」
私の言葉に、彼は頷いた。小さく、うん、と。
うん、そうだね。
そう言った後、ごめんな、と更に小さい声で囁かれた。
「なにが?」
私は随分と穏やかな声でそう聞いてみたのだけれど、彼はそれ以上何も言ってはくれなかった。私は沈黙の重さに、やたらとアスパラ巻きを突付くしか出来ない。ずるいな、と思ってしまうのは、彼のせいだ。
ずるいな、黙ってしまうなんて。
そんなの、卑怯だ。でも、私が彼の立場なら、きっと同じ事しか出来ない。泣く事をワサビのせいにして逃げた私に、私でもそうだ、何も言えないだろう。
そのまま、ふたりでもくもくとお皿の中のものを片付け、私は注文し損ねてしまったジンジャーエールの事を少しだけ思ったりした。隣にいる彼はスーツ姿で、雨が大嫌いで、私が大好きな笑顔をたまに見せてくれて、奥さんがいて、娘がいて、そして、どう考えても私の目の前からいなくなってしまう人には見えなかった。
お別れ会と言う事で、私が勘定を持つと言ったのだけれど、彼は勝手に全額を支払ってしまった。文句を言おうとする私に、レシートだけを渡す。
思わず素直にそれを受け取ってしまった私は、捨てる事も出来ずにお財布へとしまい込んだ。そうするしか、なかった。
「本当の事を言うと、」
彼は駐車場で、私が車の鍵を取り出すのを待っている。嫌いな雨に濡れて、けれども彼はけして雨の中に私をひとりにしたりしない。一緒に濡れてくれる。それがなんだか切なくて、私は必死でカバンから鍵を探す。
「本当の事を言うと、君を抱きたかった。好きだった」
「……は、」
いきなりの告白に、やっと探し出した鍵はアスファルトの地面へと落とされてしまう。かしゃん、と小さな音が、雨に混じって溶けるように響いた。
「……今、言うのは、ずるいです、よ、なに、言ってるの、ねぇ」
私はそれだけを途切れ途切れにやっと言い、冗談にしてしまおうと笑ったのだけれど、彼の表情は硬いままだった。
居酒屋の看板が、濡れるアスファルトに滲んでいる。
やだ、なに言って、と、それでも笑い続けたのだけれど、彼は静かにこちらを見ているだけだった。こんな時に何を言い出すのだろう。傘もささずに、雨に濡れて。でも、そんな事を言っても、私たちはホテルになんか行かない。そんな事はしない。今日だって、このまま帰るだけだ。今日も雨のせいで飲んじゃったね、なかなか美味しかったからいいけどさ、なんて会話をするだけで。
それなのに、彼は私が慌てて鍵を開けた車に、ちっとも乗り込んではくれない。
「濡れちゃう……」
「今日のレシートをさ、」
「雨、嫌いなのに」
「君が、」
「スーツも駄目になっちゃう……」
わざとおろおろする私に、彼が大きなため息を吐いた。助手席のドア側にいた彼が、運転席の方に寄ってくる。近づいてきたと思ったら、肩に両手を置かれた。思わず、目をきつくつぶってしまい、おそるおそる開き直す。
「聞きなさい」
「……はい」
彼の手は熱かった。それは、服を通してでも充分に分かるほど熱かった。
「今日のレシートを君がなくさないままだったら、そしてまた雨が降っていたら、一年後に会おう」
「……なにその確率の低い話、そんなの絶対に無理です、なにそれ、少なくとも『雨が降っていたら』なんて、絶対絶対無理だもの」
「なんで断言するんだよ、分からないじゃないか」
それに、と彼は言った。
それに、世界のどこかでは必ず雨が降っているから、大丈夫だよ。
「なにそれ……」
鼻の奥がつんとする。
風邪引くから、とだけ言って、私は彼の手を肩から引き剥がした。彼の温度はまだ私の肩に充分残っているのに、雨があっという間にそれを攫おうとする。
私たちはバラバラのドアから車に乗り込んで、それぞれの座席に収まった。ふいに呼ばれた気がして、私は彼の方を向く。と、身を乗り出してきた彼の、静かな唇が額に押し付けられた。
「こんなキスで、ごめんな」
「……悔しい、一年後の予約された」
笑うしかなくて、私たちは笑った。
大好きな彼の笑顔が、歪んで見えそうで、慌てて頭を振る。
泣いてはいけないと。
泣いても仕方がないのだと。
今夜の私たちは滑稽すぎて悲しかった。
一年後。
雨が降っていれば。
私たちは会えるのだろうか、そんな夢が叶うと言うのだろうか。
いや、多分それは、彼の御伽噺なのだろう。私たちが会う事は、二度とないだろう。新しい地で、彼は家族を大事にしつつ、また私みたいな女を見つけ出してしまうかもしれない。私が惚れた素敵な人なのだ、きっと誰かに見つけられてしまう。また、想いを寄せられるだろう。そして彼は、私ではない、私みたいな女をまた、手に入れるかもしれない。
でも彼は、自分がいなくなるこの地に、私という御伽噺を残していくのだ。男とはロマンチストなものだから、きっと私が彼を忘れ去っても、彼だけは私を覚えていてくれて、あんな子がいたな、と思い出してくれるのだ。眠れない夜に、思い出す御伽噺のように。何度も繰り返し思い出す、お話のように。
会社まで送りなおして、私たちはさよならと言って別れた。
さよなら、と、それだけしか言わなかった。一年後の約束なんて、最初からしなかったみたいに、ふたりとも口にしなかった。
彼を降ろしてから、私はラジオのスイッチを押して、信号機の滲むアスファルトを制限速度で走って帰る。甘く柔らかな声で、男の人が絶望の歌を歌っていた。それは、なんだかオレンジ色に車内を染めて、私は何度も、引き返したいと願う気持ちを追い払わなくてはならなかった。引き返せば、今引き返せばあの人は会社にいて。今なら間に合う。抱かれたいと望めば。もう一度好きだと告げたら。
これから、雨が降る度に、私は鳴らない電話に耳を澄ませてしまうのだろう。
雨が降る度に、飲みに行こうか、という彼の声を恋しく思うのだろう。
そして、カレンダーや時計と睨めっこしながら、一年後の約束に期待を抱いてしまうのだ、きっとそうだ。
なんて愚かで切なくて、仄かな希望だけを燃やす御伽噺。
一年後は絶対にあの唇を奪ってやるし、彼が嫌がったってホテルに連れ込んでやる。身体中に唇を押し付けて、どれだけ私が彼を好きだったか、分からせてやる。割り箸の占いなんて、信じないでよ、私の方が遥かにあなたを想っていたわ、と。
そう考えていたところで、もしかしてあのどこの店も指定しなかった彼の本当の心は、私に無理やりでもホテルへ連れ込んで、仕方なしの形でも関係を作って欲しかったのでは、と思いついてみたりした。しかし、それは私の甘すぎる考えだろう。都合のいい、甘いだけの考え。
けれども、もし。
もしも、その仮説が正しかったとしたならば。
その仮説通りに彼が思っていたとしたならば。
私はお財布の中で眠っているレシートを思う。あれは、未来へのチケットだ。長い人生、一年くらい大した時間ではないのだから、私は彼を待っていたりしてもいいのではないだろうか。
これから一年は、さかさまにしたてるてる坊主をたくさん作って暮らそう。
彼が嫌いな雨を、私はますます好きになるだろう。
雨さえ降れば。
そして、このレシートがあれば。
私はラジオのスイッチを切る。未来は明るいかまだ判断つきかねるけれど、私は雨の音を信じようと思う。
彼の言葉を信じて、一年を待ってみようか。今日のレシートと共に、雨の音を身体中で聞いていようか。彼に会えるまでの日々を大人しく、きちんと待っていれば、泣く権利も与えられるかもしれない。泣いてもいいと、自分で思えるかもしれない。
それまでは、と、ハンドルを握りなおす。
それまでは泣かない、今はまだ泣かないと、私は心に決めた。




