パート1 08
「どこなんだここ、何なんだこれ···」
辺り一面が、木、木、木。
生い茂る森の中、膝たけまである芝生をかき分けて、零はひとまず辺りを歩いていた。
時刻は夕方らしく、太陽が沈んでいき、段々と辺りが暗くなっていく。
「それに···この格好」
服装が、いつも出勤する時の服装からいつの間にか変わってしまっていた。
手を広げて改めて自分の服装を確認する零。
全身黒いスーツ姿、ネクタイがキチッと締められた、零のサイズにピッタリな黒スーツだ。
まるでサラリーマンのようだと思ったが、唯一違うのは、腰のベルト右側に付けられているカードホルダーのようなものだった。
開けてみようとしたが、何をしてもびくともしない。
サイズとしては名刺を入れておけるほどの小さなものだが、何に使うのかは今の時点では全くわからなかった。
「何しろっていうんだホント···」
何のためにここに来たのか、そもそもここはどこなのか。
何一つ情報がないまま、零は宛の無い焦りを一人呟きながら、宛も無く歩き続ける。
とりあえずどこか町か、少なくとも家はないものかと歩いてみるが、一向に見つからない。
草木の匂いに大分鼻が慣れてきた頃には、日がもう完全に沈み込もうとするほど暗くなってきていた。
「家···、どこか家だけでも···」
そう言いながら彷徨うが、光一つ見当たらない。
ここは本当にどこなのか、それだけでも聞ければと歩き続け、ふと空を見上げたその瞬間、それは目に入ってきた。
「···なんっ···だ、これは···」
星々が輝き始めた夜空に浮かんでいたのは、その夜空を埋め尽くさんばかりの大きな月が浮かび上がっていたのだった。
地球では考えられないほどの大きなその月は、今にもこちらに落ちてきてしまうのではないかというほどに巨大で、ここは普通の場所ではないことに段々と気付き始める零。
「こんなことありえない。きっと···何かの夢だ」
少しずつ足早になっていく零。
日がもう完全に落ちてしまいそうになる中で、零は自分の左腕で煌々と画面が輝いているウォッチに目をやると、さっきまでとは違う表示が浮かび上がっているのに気付く。
「なんで···、さっきまで数字だけだったのに」
ここに来た直後から、このウォッチにデカデカと表示されている数字のカウントダウンが始まった。
その数字が表していたのは、50時間程でそのカウントが0になることだけで、他のことは何一つわからない状態だった。
そんなウォッチに今は新しく、画面の右上に小さく赤い点が点滅しているのだった。
「···電池がもう少しで切れるのか?」
切れたらどうなるのか、そんなことを考えているその時だった。
何かの気配がその辺りに漂い始める。
完全に闇が支配しようとしているこの森林のどこかに何かが潜んでいるような、そんな気配が零の感覚を逆撫でする。
呼吸が荒くなってくる。
自分の六感が研ぎ澄まされて、身に迫ろうとしているヤバい''何か''を感じ取り始めた。
こんな感覚は初めてだった。
零は静かに、辺りの様子に耳をすましてみる。
すると、聞こえてきた。
''コンッ···コンッ···コッ···コッコッコッココココココココココッ''
唸り声でも鳴き声でもない、喉の奥を鳴らすような、周りに自分の存在を気付かせるような音。
それが零から少し離れているようなところで、鳴っていることに気付く。
零は見つからないようゆっくり芝生の中にしゃがんで移動を始めた。
地面に手をついた瞬間、感じる。
地面が一定の間隔で揺れている。
そしてその揺れが、少しずつ大きくなっていることに。
心臓が跳ね上がりそうになるのを抑える零は、音を極力立てずしゃがみながら移動を始めた。
ライオンやクマなんか目じゃない、もっともっと大きくて、ヤバい何かが迫ってきている。
遠くで木々がなぎ倒されるような音も聞こえてきた。
背中を向けるのが恐ろしい、だが零の本能が逃げなきゃダメだと頭の中で警鐘を鳴らしていた。
芝生をかき分けて、とにかく逃げ続ける零。
後ろを振り向く余裕なんて無く、無我夢中で目の前の芝生を進む。
足音が大きくなってくる。
明らかにこの足音の主は零に向かって迫ってきている。
足が疲れても、それを感じさせないほど気持ちが先行している零は進み続ける。
すると少し先に、小屋のようなものがあることに気づいた。
「頼む···開いててくれ···!」
立ち上がり、一目散に駆けた。
わき目も振らず、その納屋に向かって一直線に駆け抜ける。
足音が完全に零に気付いた。
歩幅が短くなり、零にみるみるうちに近づいてくる。
零はそれを足の裏で感じながらも、振り返ることなくその納屋の扉の取っ手に飛び付いた。
木造の家畜小屋のようだった。
恐怖で手元がおぼつかず、上手く開けられない。
鍵のようなものが掛かっている感じだった。
「頼むって···!」
そんな時だった。
辺りをつんざくような、甲高い金切り声のような咆哮。
木造小屋が、その振動で揺れる。
零はもう声を出すことも出来ず、必死にその扉のカギを操作すると、横に捻るだけの簡単なものだったらしく、ひねった後に留め金を外して、中へ飛び込んだ。
「はぁ···!はぁ···!」
すぐに扉を閉めて離れ、小屋の奥へと素早く逃げる零。
真っ暗な中、牛のような家畜にぶつかりながらも、更に奥にある農具入れのような物置の中に入り、扉を閉めて必死に息を殺した。
物置には窓があり、そこから差し込むあの大きな月の青い光が、そこにあったバケツの水を映し出している。
その水が足音に合わせて揺れているが、だんだんと水の揺れが大きくなっていることに気がついた。
「···っ···っっ···!」
恐怖を抑えながら、必死に訓練で学んだ方法で心を落ち着かせる零。
目の前を見て、冷静に分析すること。
まだ起こりえない可能性を考えず、プラス思考であること。
そう心に言い聞かせながら、物置の片隅で子どものように縮こまり事が収まるのを待つ。
足音がますます大きくなり、小屋がミシミシと音を立てて軋み、木造の木々が擦れる音がする。
「っ···!」
ドシンッと一際大きな足音が鳴るのと同時に、振動でバケツが倒れて水がこぼれる。
目を閉じて息を殺す零。
足音がしなくなった。
ほんの少し目を開けると、窓から入ってきていた光が消えていたことに気付いた。
途端に、信じられないほどの悪寒が零の背中を走る。
動かないように、目線だけを窓に向ける。
すると、何か大きなもので塞がれているようにも見えたが、次の瞬間···
ギョロッ
と、窓の大きさと大差ないくらいの大きな鋭い目が開いたのだ。
あまりの光景に言葉が出なくなる零。
たが今感じるのは、ほんの少しでも動けば自分の命はないことだけだった。
またあの喉を鳴らすような音と共に、その大きな目がギョロギョロと左右に動いて、物置の中を物色するが、暗すぎるのか零には気付いていないようだ。
今まで見てきたどの生き物とも違う。
まるでおとぎ話に出てくるようなスケールのもので、それが目の前に存在している。
その事実にますます零は、感情を乱されるのだった。
声を出さずジッと堪え忍ぶと、その大きな影は窓から離れていき、聞こえてくる足音が遠くなっていくのがわかった。
再び窓から入ってくる月の光に、零は全身の力が途端に抜けて床に深く座り込んだ。
「···なんなんだホンッ···ト···」
誰にも聞こえない声で、零は項垂れながらそう呟く。
途端にドッと疲れが溢れ出し、たまらず壁に寄りかかる零。
今日の捜査と報告と、そしてこの状況。
体が悲鳴を上げ、心労もあり脳が休めと警告していたのだった。
外に出ても、ここ以外に安全なところなんて浮かんでこない。
零はそのまま、縮こまって目を閉じることにした。
目が覚めたときに、これが全て夢であることを願って。




