『猿がヒトにならなかったのなら、ヒトは何になれなかったのか?』
“If a monkey has become a man – what may not a man become?”
「もし猿が人間になったなら、人間は何にならなかったのだろう?」
―トム・ウルフ 『The Kingdom of Speech(スピーチの王国)』より
「中生代に絶頂を極めた大型爬虫類を俗に”恐竜”という。
皮肉にも恐竜という語を発明したオーウェンは、進化論のダーウィンの不俱戴天の仇になった。
彼は、『種の起源』を徹底的に批難し、ダーウィンの学説が広まるにつれ、老境にあって正常な判断力を失い、ダーウィンに嫉妬して醜態を晒した古生物学者という汚名を刻まれたのだ。」
火食鳥の仮面を被った男が教壇に立っている。
生徒たち全員、鳥の嘴をモチーフにしたペストマスクを被っていた。
ただ一人、仮面を着けていない受講生もいた。
水妖の専門家、ルーフレッド・アンズワースだ。
去年、『ザルドス湖の水妖』という本が出たばかりだ。
だが彼の同業者の間では、既に有名な男である。
火食鳥仮面は、話し続けている。
「鳥は、恐竜から変質した。
これは、正確には誤りである。
恐竜とは、中生代の終わりに絶滅した生物を指す。
ややこしいが鳥類は、現代まで生き残った種類の生き物のことだ。
これと似たことが猿と人間に当てはまる。
猿は、人間に進化しない。
猿も人間と同じように現代まで生き残って来た種だ。
私も子供の頃にママに話したよ。
トマス、いつになったら猿は人間に進化するの?
ママ、猿は人間にならないんだよってね。」
火食鳥仮面は、教壇のレバーを操作する。
黒板の一部が複雑な仕掛けで回転し、立体的な映像を現す。
「そこで今日は、この問題について諸君と意見を交換したい。
猿が人間にならなかったのなら人間は、何になれなかったのか?」
まず一人の生徒が手をあげた。
「猿です。」
「その通りだ。
人間は、チンパンジーに変質しなかった種と言えるね。」
「じゃあ、神ですが教授?」
別の生徒がそう発言した。
火食鳥仮面は、小さく頷く。
「ありきたりだ。
しかしまさに、その通り。
では、神とは?」
「殺人映画が大好きな変態です。」
「ありきたりだ。」
「触手があって目玉がいっぱいあります。
肌は、メタリックグリーン。」
そう言った生徒は、黒板に自分が描いたイラストを転送した。
宿礼院の紋章の怪物だ。
「よく勉強している。
そう、この怪物は、人間だ。
ハックスレイ教授が考えた。」
火食鳥仮面は、背中の装置を操作する。
バシュッと白い蒸気を噴き上げ、金属の翼で羽ばたいた。
「進化あるいは、変質と呼ばれる現象は、残念ながら身体的特徴を欠損していくものと推論されている。
鳥は、歯を失った。
人間は、長い毛が失われた。
ならばもっとも古い時代の生物は、すべての生物の能力を兼ね備え、あらゆる生物の身体的特徴を併せ持ち、目玉や手足は、そう、きっと蜘蛛よりもムカデよりも多いはず。
……それがハックスレイ教授の提唱した最古の人間だ。
我々は、この姿から徐々に現代の姿へと変質したと教授は、考えた。」
火食鳥仮面は、回転する映写機の隣に上昇する。
そして空中で制止しながら話し続けていた。
「しかし諸君も勉強しての通りだ。
原始の生物は、全知全能どころかあらゆる面で新生代の生物より劣って―――いや、単純だ。
小さく、体の構造も物凄く単純だ。」
火食鳥仮面がそう話すと映写機は、古生代の生物を映した。
三葉虫をはじめとする風変わりな生物が立体映像になる。
「昆虫です、オーウェン教授。」
ルーフレッドが挙手して発言した。
火食鳥仮面は、空中で彼と向き合う。
「人間は、昆虫になれなかった生物ではないでしょうか。」
ルーフレッドの発言に生徒たちも興味を向ける。
ただ一人、ルーフレッドの隣で欠伸を噛み殺しているのがいる。
”人喰い鬼”ヴェロニカだった。
「単純に地球上でもっとも繁栄しているのは、昆虫です。
それこそ地球上のあらゆる領域に、さまざまな能力を獲得して進出しているのは、昆虫です。」
「ムシケラの方が人間より上等だと?」
オーウェン教授は、教室の床に着地する。
彼は、重そうな装備を壁に預けて凭れかかった。
教授の問いにルーフレッドは、応える。
「いいえ、そうはいっていません。
しかし昆虫の能力は、人間の技術や知能、文明に比肩します。
彼らは、生まれながらの戦車であり、戦闘機であり、潜水艦で、天才的な建築家、司令官で、女王だと僕は、考えています。」
「なるほど。
人間が30年かけて手に入れる知識と技術。
そして高価な兵器と同程度の能力を生まれながらに備えているからかね?」
「そうです。
昆虫は、人間が10万年かけて到達した水準にあります。
もし人間がなりそこなった姿があるとすれば昆虫に近い。」
「水妖とは、そうした存在?」
オーウェン教授がルーフレッドの分野に踏み込む。
ルーフレッドの目の色が一瞬、変わった。
「いえ、僕も水妖のすべてをまだ知りません。」
ルーフレッドは、水妖の写真を黒板に送る。
名伏し難い黒々とした何かが生徒たちの目に飛び込んで来た。
「こいつが……。
皆さんも詳しい話を聞きたいでしょう、ザルドス湖で発見した奴です。
これほどハッキリとした水妖を写真におさめるのに苦労しました。」
黒板と立体映写機に幾つかの写真やイラストが映し出される。
オーウェン教授と生徒たちは、奇怪な景色に目を奪われた。
「髑髏海岸の夢と名付けられた悪夢に、ザルドス湖が存在します。
他の次元では、ただの森か草原ですが、この悪夢のみ巨大な湖が広がっています。」
「彼らに知的文明を築く能力があるのかい?」
とオーウェン教授が質問する。
ルーフレッドは、発見した遺跡と合わせて回答した。
「残念ながらザルドス湖の水妖は、全盛期を終え、衰退期にあるようでした。
遺跡は、僕の専門外ですので細かな質問は、勘弁してください。
ただ……ただ……きわめて巨大な蒸気機関を中心にした機械文明だったと。」
映し出された写真は、山のように巨大な鋼鉄の化け物だ。
複雑に折れ曲がったパイプと炉が組み合わさっている。
「彼らは、1ヶ月ほどの寿命しかなかったようです。
凄まじい速度で世代交代を繰り返して社会全体が少子化、老化しないようになっていたらしいです。
どうやって技術を継承していったのかだけが分かりません。
僕は、昆虫のように生まれながらの専門家集団だったんだと考えています。
教育も道具も必要とせず、生まれてすぐに自分が何をすべきか知っていて強固な体と能力を持っていました。
彼らの文明は、技術の喪失や人口減少に悩まされることなく、間断なく成長を続けたんだと考えています。」
「夢のような生物だな。
寿命が1ヶ月というのは、可哀そうだが。」
腕組みしながらオーウェン教授が言った。
ルーフレッドは、話を続ける。
「しかし彼らの文明にも致命的な、人間もそうですが、文明である以上、避けられない限界が訪れました。
資源の枯渇、開発され切った土地、汚染された土壌と水…。
自分たちが改良を重ねて来た都市が限界を迎えたんだと思います。
しかも彼らは、人間と違って技術が失われたり、人口減少で文明が停滞することがありませんでした。
止まることのない成長は、そのまま文明の終焉まで続いたのです。」
黒板には、荒れ果てた土地が写された。
そこに辛うじて一部の水妖だけが僅かに残っている。
万能の生物でも死んだザルドス湖は、蘇らせることができないのだ。
「……最高存在は、人間になれなかった。」
オーウェン教授がつぶやく。
「最高存在は、停滞することなく文明を発展させてしまう。
それが誤りに気付かないうちに文明の終焉に行き着く。」




