表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

3話「酵母特許戦争」(最終回)

「リュシア、エリオさんからの束、また増えた。連名の提出書、三工房ぶん追加」


 数日前、私の事務所兼台所。窓を少し開けると、室内に酵母のやわらかな匂いが流れ込んだ。テーブルには封印札と番号札、香り袋、方眼の下敷き、板書用のチョークが並んでいる。


「地方のパン工房が連名で訴える。代表はエリオ・レーヴァン」

「被告はギルド系の大手。争点は“発酵プロファイル”」

 ヨナが手帳に丸を書き足す。

「発酵プロファイルって、簡単に言うと“生地がふくらむ線の推移”。山の高さだけじゃなくて、立ち上がりの遅さ(ラグ)とか、落ちていく尾の長さも含めた呼吸のかたち」


 私はうなずく。

「大手の主張は“うちは一般的工程の範囲。保護されるべきは曲線の最適域”」

「でも、エリオの工房のスターターを見学会で少し持ち帰って、加温で似た山を作った疑いがある」

 ヨナが声を落とす。

「曲線は似せられても、中身までは同じにできない。酸とアルコール、それにエステルの比率。焼いた後のクラムの気泡のばらつき。そこに“指紋”が残る」


 私は準備物の目録を指で追った。

「本番は三本柱でいく。ラグと尾、気泡の分布、香りの比率。あとはログ」

 レシピオン規格の温度ロガーを取り出し、封印番号を確認する。

「被告提出の温度ログ、時刻系が怪しい。港の器機の既定だと港湾標準時で記録されることがある。王都標準時じゃないなら、曲線の一致は信用できない」


 ヨナが頷き、香り袋の口をそっと閉じた。

「エリオさんは、判決がどう転んでも“工房どうしをつなぐ窓口”になるつもりだって。市民側の連絡線、あの人に立てたい」

「立てよう。制度の話も、現場の一口から動く」


 フェンネル博士が扉をノックし、白衣の袖を整えながら入ってきた。

「指示紙は三色、校正済み。板書はヨナ、私は香りと拭き取り。リュシアはラグと尾の説明から入るといい」

「了解。当日は線から入る。見せたあとで断面と香り」


 私は道具箱の蓋を閉じ、封印札を一枚ずつ通した。

「KICの使用申請と保存要請は今日中に出す。質問票はこの順で読む——“誰が、いつ、どの温度で”。最後に“ログの時刻と署名”」


 外で鐘が一つ鳴った。窓を閉めると、赤い糸の封印札が静かに並んで見えた。

 パンの呼吸で戦う準備は整った。


 ――――


 裁判当日。

 王都裁判所の法廷キッチン(KIC:Kitchen-in-Court)。

 朝の空気に、ほんのり酵母の香りが混じっていた。木箱の中で、布に包まれた丸いパンが静かに呼吸している。


 原告席の先頭に、黒髪を後ろで束ねた青年が立った。

「地方パン工房連合、代表のエリオ・レーヴァンです」

 声は緊張していたが、芯はまっすぐだ。後ろには、地方の工房主たちが並ぶ。手の皮が分厚い。みんな働く手だ。


 被告席には、大手ギルド系製パン会社の代理人が座っている。

 検察官マルローは本件では制度運用の立場から補助参加だ。王都の知財制度が形だけのものにならないよう、口を挟む役目。


 小鐘が一度、二度、三度。

 オルド判事が入廷する。

「静粛に。本件は、天然酵母の“発酵プロファイル”に関する特許侵害の訴えである。双方、要点の確認から入ろう」


 被告代理人が立つ。

「弊社の工程は一般的範囲に過ぎません。保護されるべきは“曲線の最適域”であり、誰でも到達し得る味を独占しているのは原告側です」


 私は席から立ち、判事に向き直った。

「原告側の支援に入ります。私たちは“曲線の形”だけでなく、その中身——酸・アルコール・エステルの比率と、焼成後のクラム(内相)の気泡分布、さらに環境の揺らぎを合わせて示します。同じ線に見えても、中身は違う、を手順で」


 オルド判事がうなずく。

「証拠は書記局の封印下にある。順に見せよ」


 エリオが木箱に手を置いた。

「見学会で、うちのスターターの一部を持ち帰られたと感じています。温度の上げ方を変えれば、発酵の山は似せられる。でも、うちの空気とうちの樽は持ち出せない」


 被告代理人が反論する。

「“うちの空気”など、感覚論だ。工程管理でいくらでも補える」


 検察官マルローが口を開く。

「制度の観点から言えば、“誰でもできる一般技術”は独占できない。ただし、特許の“最適域”を外形的に認める枠組みは必要だ。感覚に流れない立証が前提になる」


 私はうなずき、手元の段取りを確かめる。

「感覚に頼らないために、今日は三つの柱で示します。

 一つ、発酵曲線の立ち上がり(ラグ)と尾の長さ。

 二つ、焼いた後のクラムの気泡分布。

 三つ、香りの比率。

 そして、被告の“再現データ”の時刻系について、最後に一点」


 オルド判事が手で合図をした。

「よし。実演に移れ。双方、同条件で」


 私は台に三つのボウルを並べた。

「Aがエリオ工房のスターター。Bが被告の“再現レシピ”。Cが市販酵母。配合は同じ、室温・湿度は書記局の基準で固定します。温度の履歴は、レシピオン規格のロガーで全て記録します」


 書記官が封印番号を読み上げ、監察官がうなずく。傍聴席のざわめきが、ひと息ぶんだけ引いた。


 ヨナが板書を始める。

「発酵の膨らみを、ここにライブで線にします」


 時が流れ、三本の線が板の上に伸びていく。

 Aは立ち上がりが少し遅く、ピーク後も尾が長い。

 Bは立ち上がりがやや早いが、尾が短く、落ちが速い。

 Cは山が低くまとまり、全体に均一だ。


 フェンネル博士が補足する。

「同じピーク位置でも、菌叢が違えば“ラグと尾”が変わります。スターター固有の微生物構成が、温度制御だけでは埋まらない差を作る」


 オーブンから焼き立てを取り出し、私は即座に切り分けた。

「クラムの気泡を見ます。Aは大小が混じる。Bは均一が強い。Cはさらに均一です」

 私は拡大鏡と方眼の下敷きを置き、いくつかの断面に目印を付ける。

「エリオ工房は街の鐘の時報に合わせて窓を半開にする運用がある。通風の周期ログが残っている。環境の揺らぎは、この不ぞろいに反映されやすい」


 ヨナがそのログを掲げる。時報と合う小さな波が重なっている。

 被告代理人が眉をひそめた。

「“不ぞろい=個性”というのは飛躍だ」

「“均一すぎる”が、別の飛躍を示すこともあります」私は返す。


 フェンネル博士が香り袋を三つ掲げ、指示紙を差した。

「香りは三点比較。エチルアセテートと乳酸エチルを簡易に見る。Aは乳酸エチルがやや高い、Bはエチルアセテートが優位、Cはどちらも低めで平板。これもAとBの“似て非なる”を支えるデータになります」


 検察官マルローが手を挙げる。

「被告は“同じ曲線に到達した”と主張している。曲線の一致自体は否定しないのか」

「そこです」私は判事に一礼した。「被告提出の“再現データ”の温度ログ、CSVの時刻系をご確認ください」


 書記官が被告の提出物を映写板に出す。

 ヨナが指で示す。

「時刻の末尾に“PST”の表記があります。王都標準時ではなく、港湾標準時のまま記録されています。しかも、区切りの小数点が海運器機の既定。王都のレシピオン規格とは整合しません。つまり——」


 フェンネル博士が引き取る。

「——王都の工房で取ったログではない、あるいは後から書き換えた可能性が高い。時刻がずれていれば、発酵曲線の“重ね合わせ”は簡単に見かけ上の一致を作れます」


 被告代理人が顔色を変えた。

「機材の既定を切り替え忘れただけだ。中身は——」

「切り替え忘れなら、記録開始前の調整ログが残るはずです」私は言った。「それがない。さらにBの線は、Aの尾の長さを覆い隠す形で後追いに重ねられている。ラグの位置も自然ではない」


 オルド判事が書記官に目配せをする。

「提出物の時刻系について、書記局で鑑定を。続けよ」


 私は三つの札を指でそろえた。

「まとめます。

 一つ、AとBの“ラグと尾”は一致していない。

 二つ、クラムの気泡分布は、Aが“環境の揺らぎ”を反映して不ぞろい、Bは均一すぎる。

 三つ、香りの比率が異なる。

 四つ、被告提出のログは王都標準時と整合しない。曲線の一致は信用できません」


 傍聴席がざわめき、すぐ静まった。


 オルド判事は木槌を一度だけ打った。

「特許請求の一部を無効とし、原告の請求を認める。」


 エリオが深く頭を下げ、後ろの工房主たちの肩から力が抜けた。

「工房どうしの連絡は僕が受けます。続けたい人が、続けられるように」

 私はうなずく。

「うん。それがいいと思う。現場はあなたがいちばん分かってる」


 検察官マルローが書記官を呼び、短く補足した。

「目隠しの審理と同条件の実演(BCT)は、知財でも有効だ。KICの運用は常設で拡充し、記録と監督の手順を標準化すべきだ」

 オルド判事が続ける。

「書記局と市庁は、ログと署名の標準を定め、公示せよ。名ではなく工程で示す時代に入る」


 廊下に出ると、掲示板に新しい貼り紙が一枚。

 ──BCTの本運用と、法廷キッチンの第三者監督の常駐を開始──

 人だかりが静かに読み、うなずき合う。私は横目で拾い、視線を前に戻した。


 ヨナが小声で言う。

「これで、名札より手順ってちゃんと書類になるね」


 フェンネル博士が試薬箱の栓を指で弾き、小さく音を立てた。

「手順が残れば、舌はいつでも同じことを言う」


 判決が出て、廊下の空気がやわらいだ。

 私は道具箱を閉じる。

 名ではなく手順。条件をそろえれば、甘さは同じ顔で現れる。

 今日はここまで。残るのは、公にした手順だけだ。

 私は準備表の最後の欄に、一行だけ書き加えた——終。


本話で一旦完。プロトタイプ版のご読了ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ