3話「酵母特許戦争」(最終回)
「リュシア、エリオさんからの束、また増えた。連名の提出書、三工房ぶん追加」
数日前、私の事務所兼台所。窓を少し開けると、室内に酵母のやわらかな匂いが流れ込んだ。テーブルには封印札と番号札、香り袋、方眼の下敷き、板書用のチョークが並んでいる。
「地方のパン工房が連名で訴える。代表はエリオ・レーヴァン」
「被告はギルド系の大手。争点は“発酵プロファイル”」
ヨナが手帳に丸を書き足す。
「発酵プロファイルって、簡単に言うと“生地がふくらむ線の推移”。山の高さだけじゃなくて、立ち上がりの遅さ(ラグ)とか、落ちていく尾の長さも含めた呼吸のかたち」
私はうなずく。
「大手の主張は“うちは一般的工程の範囲。保護されるべきは曲線の最適域”」
「でも、エリオの工房の種を見学会で少し持ち帰って、加温で似た山を作った疑いがある」
ヨナが声を落とす。
「曲線は似せられても、中身までは同じにできない。酸とアルコール、それにエステルの比率。焼いた後のクラムの気泡のばらつき。そこに“指紋”が残る」
私は準備物の目録を指で追った。
「本番は三本柱でいく。ラグと尾、気泡の分布、香りの比率。あとはログ」
レシピオン規格の温度ロガーを取り出し、封印番号を確認する。
「被告提出の温度ログ、時刻系が怪しい。港の器機の既定だと港湾標準時で記録されることがある。王都標準時じゃないなら、曲線の一致は信用できない」
ヨナが頷き、香り袋の口をそっと閉じた。
「エリオさんは、判決がどう転んでも“工房どうしをつなぐ窓口”になるつもりだって。市民側の連絡線、あの人に立てたい」
「立てよう。制度の話も、現場の一口から動く」
フェンネル博士が扉をノックし、白衣の袖を整えながら入ってきた。
「指示紙は三色、校正済み。板書はヨナ、私は香りと拭き取り。リュシアはラグと尾の説明から入るといい」
「了解。当日は線から入る。見せたあとで断面と香り」
私は道具箱の蓋を閉じ、封印札を一枚ずつ通した。
「KICの使用申請と保存要請は今日中に出す。質問票はこの順で読む——“誰が、いつ、どの温度で”。最後に“ログの時刻と署名”」
外で鐘が一つ鳴った。窓を閉めると、赤い糸の封印札が静かに並んで見えた。
パンの呼吸で戦う準備は整った。
――――
裁判当日。
王都裁判所の法廷キッチン(KIC:Kitchen-in-Court)。
朝の空気に、ほんのり酵母の香りが混じっていた。木箱の中で、布に包まれた丸いパンが静かに呼吸している。
原告席の先頭に、黒髪を後ろで束ねた青年が立った。
「地方パン工房連合、代表のエリオ・レーヴァンです」
声は緊張していたが、芯はまっすぐだ。後ろには、地方の工房主たちが並ぶ。手の皮が分厚い。みんな働く手だ。
被告席には、大手ギルド系製パン会社の代理人が座っている。
検察官マルローは本件では制度運用の立場から補助参加だ。王都の知財制度が形だけのものにならないよう、口を挟む役目。
小鐘が一度、二度、三度。
オルド判事が入廷する。
「静粛に。本件は、天然酵母の“発酵プロファイル”に関する特許侵害の訴えである。双方、要点の確認から入ろう」
被告代理人が立つ。
「弊社の工程は一般的範囲に過ぎません。保護されるべきは“曲線の最適域”であり、誰でも到達し得る味を独占しているのは原告側です」
私は席から立ち、判事に向き直った。
「原告側の支援に入ります。私たちは“曲線の形”だけでなく、その中身——酸・アルコール・エステルの比率と、焼成後のクラム(内相)の気泡分布、さらに環境の揺らぎを合わせて示します。同じ線に見えても、中身は違う、を手順で」
オルド判事がうなずく。
「証拠は書記局の封印下にある。順に見せよ」
エリオが木箱に手を置いた。
「見学会で、うちのスターターの一部を持ち帰られたと感じています。温度の上げ方を変えれば、発酵の山は似せられる。でも、うちの空気とうちの樽は持ち出せない」
被告代理人が反論する。
「“うちの空気”など、感覚論だ。工程管理でいくらでも補える」
検察官マルローが口を開く。
「制度の観点から言えば、“誰でもできる一般技術”は独占できない。ただし、特許の“最適域”を外形的に認める枠組みは必要だ。感覚に流れない立証が前提になる」
私はうなずき、手元の段取りを確かめる。
「感覚に頼らないために、今日は三つの柱で示します。
一つ、発酵曲線の立ち上がり(ラグ)と尾の長さ。
二つ、焼いた後のクラムの気泡分布。
三つ、香りの比率。
そして、被告の“再現データ”の時刻系について、最後に一点」
オルド判事が手で合図をした。
「よし。実演に移れ。双方、同条件で」
私は台に三つのボウルを並べた。
「Aがエリオ工房のスターター。Bが被告の“再現レシピ”。Cが市販酵母。配合は同じ、室温・湿度は書記局の基準で固定します。温度の履歴は、レシピオン規格のロガーで全て記録します」
書記官が封印番号を読み上げ、監察官がうなずく。傍聴席のざわめきが、ひと息ぶんだけ引いた。
ヨナが板書を始める。
「発酵の膨らみを、ここにライブで線にします」
時が流れ、三本の線が板の上に伸びていく。
Aは立ち上がりが少し遅く、ピーク後も尾が長い。
Bは立ち上がりがやや早いが、尾が短く、落ちが速い。
Cは山が低くまとまり、全体に均一だ。
フェンネル博士が補足する。
「同じピーク位置でも、菌叢が違えば“ラグと尾”が変わります。スターター固有の微生物構成が、温度制御だけでは埋まらない差を作る」
オーブンから焼き立てを取り出し、私は即座に切り分けた。
「クラムの気泡を見ます。Aは大小が混じる。Bは均一が強い。Cはさらに均一です」
私は拡大鏡と方眼の下敷きを置き、いくつかの断面に目印を付ける。
「エリオ工房は街の鐘の時報に合わせて窓を半開にする運用がある。通風の周期ログが残っている。環境の揺らぎは、この不ぞろいに反映されやすい」
ヨナがそのログを掲げる。時報と合う小さな波が重なっている。
被告代理人が眉をひそめた。
「“不ぞろい=個性”というのは飛躍だ」
「“均一すぎる”が、別の飛躍を示すこともあります」私は返す。
フェンネル博士が香り袋を三つ掲げ、指示紙を差した。
「香りは三点比較。エチルアセテートと乳酸エチルを簡易に見る。Aは乳酸エチルがやや高い、Bはエチルアセテートが優位、Cはどちらも低めで平板。これもAとBの“似て非なる”を支えるデータになります」
検察官マルローが手を挙げる。
「被告は“同じ曲線に到達した”と主張している。曲線の一致自体は否定しないのか」
「そこです」私は判事に一礼した。「被告提出の“再現データ”の温度ログ、CSVの時刻系をご確認ください」
書記官が被告の提出物を映写板に出す。
ヨナが指で示す。
「時刻の末尾に“PST”の表記があります。王都標準時ではなく、港湾標準時のまま記録されています。しかも、区切りの小数点が海運器機の既定。王都のレシピオン規格とは整合しません。つまり——」
フェンネル博士が引き取る。
「——王都の工房で取ったログではない、あるいは後から書き換えた可能性が高い。時刻がずれていれば、発酵曲線の“重ね合わせ”は簡単に見かけ上の一致を作れます」
被告代理人が顔色を変えた。
「機材の既定を切り替え忘れただけだ。中身は——」
「切り替え忘れなら、記録開始前の調整ログが残るはずです」私は言った。「それがない。さらにBの線は、Aの尾の長さを覆い隠す形で後追いに重ねられている。ラグの位置も自然ではない」
オルド判事が書記官に目配せをする。
「提出物の時刻系について、書記局で鑑定を。続けよ」
私は三つの札を指でそろえた。
「まとめます。
一つ、AとBの“ラグと尾”は一致していない。
二つ、クラムの気泡分布は、Aが“環境の揺らぎ”を反映して不ぞろい、Bは均一すぎる。
三つ、香りの比率が異なる。
四つ、被告提出のログは王都標準時と整合しない。曲線の一致は信用できません」
傍聴席がざわめき、すぐ静まった。
オルド判事は木槌を一度だけ打った。
「特許請求の一部を無効とし、原告の請求を認める。」
エリオが深く頭を下げ、後ろの工房主たちの肩から力が抜けた。
「工房どうしの連絡は僕が受けます。続けたい人が、続けられるように」
私はうなずく。
「うん。それがいいと思う。現場はあなたがいちばん分かってる」
検察官マルローが書記官を呼び、短く補足した。
「目隠しの審理と同条件の実演(BCT)は、知財でも有効だ。KICの運用は常設で拡充し、記録と監督の手順を標準化すべきだ」
オルド判事が続ける。
「書記局と市庁は、ログと署名の標準を定め、公示せよ。名ではなく工程で示す時代に入る」
廊下に出ると、掲示板に新しい貼り紙が一枚。
──BCTの本運用と、法廷キッチンの第三者監督の常駐を開始──
人だかりが静かに読み、うなずき合う。私は横目で拾い、視線を前に戻した。
ヨナが小声で言う。
「これで、名札より手順ってちゃんと書類になるね」
フェンネル博士が試薬箱の栓を指で弾き、小さく音を立てた。
「手順が残れば、舌はいつでも同じことを言う」
判決が出て、廊下の空気がやわらいだ。
私は道具箱を閉じる。
名ではなく手順。条件をそろえれば、甘さは同じ顔で現れる。
今日はここまで。残るのは、公にした手順だけだ。
私は準備表の最後の欄に、一行だけ書き加えた——終。
本話で一旦完。プロトタイプ版のご読了ありがとうございました。