11話
この人が怖いと思うも。……私の手を握った男の右目から、一筋の涙が頬を伝って落ちるが。その涙の意味など、私にはわからない――だって、今日が初対面だから。
「あの、大丈夫ですか?」
「……ああ、すまなかった。少し眩暈がしただけだ」
男はなぜか、私の手を離さずに微笑む。しかしその顔には汗が滲み、その表情からは明らかに無理をしている様子が伺えた。
(額にすごい汗……きっと、まだ具合が悪いはず)
「よろしければ、このハンカチをお使いください」
私はドレスとコルセットの間に挟んでいた、刺繍入りのハンカチを取り出し、彼に差し出した。すると、男性の目がハンカチに釘付けになる。
「……このハンカチ、もらってもいいのか?」
「え? えぇ……」
「ありがとう。スワーロンとスノーフレの刺繍だね。とても、可愛い花だ」
男は私が刺繍した、ハンカチの花の名前をすぐに言い当て、ハンカチを受け取ると胸ポケットにしまいこんだ。
(ええ? 汗を拭かないの……?)
私は困惑しながらその様子を見つめていたが、その場の空気を壊すのも憚られ、黙っていた。そのとき――。
「カサリア様、大きな声が聞こえましたが……魔力の暴走ですか?」
どこからか、黒縁メガネをかけた燕尾服の男性が現れ、先ほどの騒ぎを尋ねてきた。
「いや、違う。少し眩暈がしただけだ」
そう言いながら、カサリアと呼ばれた男は袖で額の汗をぬぐう。
(え、使わないの? ハンカチ……)
それ以上に気になるのは、彼がまだ私の手を離していないことだった。
⭐︎
「こちらの令嬢が、図書館に残っていたのですね」
メガネの男が私を見て小さく頷く。それに対し、カサリアは軽い調子で返事をする。
「ああ、俺が見つけたよ。この子も読書を楽しみたいだろうし、一緒に読めばいい。この本を持っていってくれ」
「かしこまりました」
側近が、カサリアから本を受け取り、読書スペースに移していくのを横目に、彼は私の手を引いた。
「じゃあ、行こうか」
「えっ? ちょ、ちょっと待ってください!」
そのまま私は本棚を巡り、彼に連れられる形で読書スペースに到着してしまった。そして、さっき選んだ本を手に、隣に座ることに。
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「あの、私はここにいてもよろしいのですか?」
「いいさ。今は外に出られないし、君の連れにはちゃんと連絡しておいたよ」
「……シャロンに連絡をしてくださったんですか?」
「そうだよ。安心して本を読めばいい」
その言葉に、私は少し安堵した。彼の横顔を見つめると、難しそうな魔法書をすらすらと読み進めている。私も安心して手に取った本を読み始めた。
⭐︎
図書館で読書を始めてから約一時間後。私は一冊の本に心を奪われていた。
(これだわ……薬師見習い……十五歳から資格を取るための試験が受けられる……!)
試験は一年に一度の開催で、三年後に試験を受けられる私の年齢とちょうど重なる。それまでに勉強を重ね、合格すれば植物や毒、解毒草に関する知識をより深められる。
(これが、私の新しい道かもしれない。王女が亡くなる十八歳までに資格を取らなければ……私はまた毒で死んでしまう可能性がある)
巻き戻りと、呪いのタイムリミットを感じつつも、薬師見習いという目標を見つけたことで、希望の光が差し込むような気持ちになった。
「フフッ……」
思わず笑みがこぼれる。隣にいたカサリアが顔を上げ、興味深げに私を見つめた。
「何かいいことでもあったのかい、可愛い令嬢さん?」
その問いに、私は本を胸に抱えながら微笑んだ。
「ええ。少しだけ、未来が明るく見えた気がしましたわ」
その言葉に、カサリアは一瞬驚いたような表情を浮かべると、すぐに柔らかな笑みを返した。
「それはいいことだ」