砂漠の夜と夢
砂漠を進むうちに、あれほどぎらついていた太陽もいつしか西へと傾き、地平の向こうへと沈みかけていた。
空には茜と群青のグラデーションが広がり、気温も徐々に肌寒くなってきている。
「今日はここまでね。夜営の準備を始めるわよ~」
「は~いっ!」
アズモンさんの掛け声に、リリカとタマコが元気よく応じる。
二人は手慣れた様子で、テントと簡易の寝具を手早く広げていく。
一方の俺はというと……特にやることがない。
このサイズのままでは大した荷物も運べないし、わざわざ巨大化して出しゃばるほどの場面でもない。
だから、俺はアズモンさんのそばで――どういうわけか、観察対象になっていた。
「ふむふむ……角の長さはこれくらいで、翅には黒い斑点が……あら、金一色かと思ったら細いスジもあるのね~」
アズモンさんがスケッチブックにサラサラと描きこみながら、俺をじっと見つめる。
虫だからじっとしているのは苦じゃない。
だが――こうも真剣に見つめられると、どこかこそばゆい。
しばらくして、リリカの明るい声が夕空に響いた。
「アズモンさ~ん、準備できたよ~!」
「ありがと、リリカちゃん。それにヘラクレスちゃんも、付き合ってくれてありがとねっ」
ウインクと共に向けられた感謝の言葉。
……いやだからそのウインク、メイク濃すぎて威力が強いんだってば。
夕焼けが夜の帳に染まりゆく頃、俺たちは焚き火を囲んで簡素な夕食をとった。
水の貴重な砂漠ではスープのような料理は難しく、乾パンや干し果実、保存食が主なメニューになる。
「でも、やっぱ夜は冷えるですぅ……」
「砂漠の夜は、寒暖差がすごいのよね~」
「それ知ってる~! 前に夜営したとき、凍えるかと思ったヤツ!」
そんな談話をするリリカの首もと、ぬくもりのあるマントの影に、俺はもぐり込んで暖を取る。
リリカの体温と、彼女の心音がふんわりと伝わってきて、思わず複眼が緩む。
このぬくもりだけは、何にも代えがたい。
ふと見上げると、空には満天の星々。
砂漠の空気は澄んでいて、月もまるで微笑むように輝いていた。
『……きれいだな。まるで空全体がひとつの宝石箱みたいだ』
「へぇ~、ヘラクレスもそんなロマンチックなこと言うんだ~」
『わ、悪いか……?』
茶化すような声に小さく動揺したが、その時、リリカの表情が少しだけ静かに沈んだのに気づく。
『……どうした、リリカ?』
「んーとね……リリカの、本当のパパも今、この空を見てるのかなって……ちょっと思っただけ」
小さく呟いたその言葉に、俺ははっとする。
そういえば、リリカは父親を探すために冒険者になったと言っていた。
『……リリカ。まだ、お父さんのことを思っているんだな』
「うん……でもね、最近は前みたいに寂しくなくて。不思議なんだ~。リリカ、パパのこと……どうでもよくなっちゃったのかなぁ?」
その瞳に、戸惑いとわずかな罪悪感が浮かんでいた。
『違うさ。それは、リリカの心に“新しい居場所”ができたからだよ』
「……新しい、居場所……」
『俺もな、元の世界にいた時、ひとり娘がいた。今でも、彼女の笑顔は心に残ってる。想いは消えない。たとえ遠く離れていても、会えなくても……大切な人は、心の中に生き続けるものなんだ』
リリカがそっと目を閉じ、焚き火の炎に照らされながら、小さく微笑んだ。
「……ありがと、ヘラクレス。リリカ、もう少しだけがんばれる気がしてきたよ」
『それでこそ、俺の……』
一瞬「娘」と言いかけて、言葉を飲み込む。
『……相棒だ』
「えへへっ、相棒ね。リリカ、ヘラクレスのこと大好きだよっ。これからもよろしくね、パパっ」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
俺たちはただ、何も言わずに空を仰いだ。
満天の星が、まるで静かに見守ってくれているようだった。
その夜、俺はまた夢を見た。
意識が沈み込むように落ちていった先に、見知らぬ光景が広がっている。
そこは、星空に包まれた地平のない空間。
天と地の境は曖昧で、ここが空なのか大地なのかすら分からない。
足元には、苔むした石畳のようなものが静かに続いており、歩を進めるたびに、やわらかな光の粒が舞い上がった。
周囲には、大樹の幻影が無数に立ち並んでいる。
一枚の葉もつけていないというのに、風のない空間で枝だけがゆらゆらと揺れていた。
その幹には、古の文様のような模様が淡く浮かび、読めぬ光の文字が幹を這うように流れていく。
やがて前方に、高さ数十メートルはあろうかという巨岩が浮かび上がるように現れた。
その中心には、大地の裂け目のような亀裂が走り、そこからは淡い黄金と緑の入り混じった光が、静かに溢れ出ていた。
そしてその光の奥から、静かで温かく、しかし深く響く声が届く。
「……あなたの歩み、しかと見届けております……」
この声は――ガイヤ様……?
だけど、今回はいつになく厳かで、神妙な響きだった。
俺は言葉にならぬ畏怖と敬意を抱きながら、その光にそっと頭を垂れる。
「ヘラクレスさん。まもなく、あなたはひとりの少女と出会います。
その方もまた、神に選ばれし者。
あなたとは異なる使命を背負っていますが、やがて同じ道を歩むことになるでしょう。
……最初は、ぶつかるかもしれません。
けれど、それでも目を逸らさず、向き合ってください。
その出会いは、あなたの運命を大きく動かすことになるでしょう」
暗く静かな空間に、土の香りと柔らかな風が満ちていた。
視界は霞んでいるのに、不思議とその声だけは鮮明に届く。
まるで、大地そのものが、息をしているかのようだった。
――そして、夢幻の世界はゆっくりと揺らぎ、崩れていく。
『――はっ! ……夢、か』
気がつけば、俺はリリカのすぐそばで目を覚ましていた。
砂漠のただ中にいるはずなのに、なぜかまだ、青々とした草の香りが触角をかすめている。
……ガイヤ様のお告げ。
俺に、どんな出会いが待っているというのだ?
そんな胸騒ぎを覚えながら、俺はそっと空を見上げる。
「ん~……ヘラクレス、おっはよ~」
寝ぼけ眼で目をこするリリカが起き上がり、俺に向かっていつもの無垢な笑みを向ける。
『おはよう、リリカ』
――その笑顔を見たとき、俺は心に決めた。
たとえこの先、どんな出会いがあろうとも。
どんな運命に巻き込まれようとも。
俺はこの少女を、変わらず見守り続けると。




