大切な家族
その夜、俺はずっと窓辺に佇んでいた。
リリカ……あんなに思い詰めた顔をしていたのに、俺は、どうして気づいてやれなかったんだ……。
自分の無力さに胸を締めつけられ、いても立ってもいられなくなった俺は、ノビ〜ルホーンを器用に使って窓の鍵を外す。
――ちょっとだけ、行ってくるよ。リリカのところへ。
隣で寝息を立てるタマコにそっと目をやってから、俺は翅を唸らせて夜の空へと飛び立った。
幸い、激しかった夕立はすでに止み、空には月が顔を出している。
濡れた翅ではうまく飛べないから、これはありがたい。
ヌイヌイタウンの夜空を抜けて、灯りの灯る診療所へと到着。
窓の縁に着地しようとして――すべってツルンッ!
あちゃ……表面がツルツルしてた。
甲殻が頑丈で助かったけど、ちょっと痛いぞ……。
鋭い爪を立てて診療所の壁をよじ登り、やがて覚えのある匂いに辿りついた。
ほんのり花のようで、かすかにスパイスめいた香り。間違いない、リリカだ。
半開きの窓から覗くと、そこにはベッドで横たわる彼女の姿があった。
『リリカ、来たぞ』
「えっ、ヘラクレス!? な、なんで来ちゃってるの~!?」
俺の声に驚き、跳ね起きるリリカ。
ぎこちなくも、俺は翅を使ってベッドの上に降り立った。
『体調はどうだ?』
「ん、リリカもう大丈夫……ゴホッゴホッ!」
『まったく、無理するなって言っただろ』
俺はずれかけた掛け布団を角で直してやった。
「ありがと、ヘラクレス……。なんかさ、ほんとにパパみたい」
『……俺は前にも言ったよな。前世では人間で、娘もいたって』
「そういえば……。ねえ、その娘さんって、どんな子だったの?」
リリカは俯きながら、小さな声で訊ねてきた。
俺は少しだけ黙ってから、懐かしい記憶を語り始める。
『名前は梨香。君よりずっと小さかったけど、笑顔が可愛くて、元気で、俺の虫好きにもよく付き合ってくれた』
「へえ、リリカも可愛いって言ってくれていいんだよ?」
『……可愛いよ、君も』
くすぐったい空気が流れた。
『でもな、あの時……。虫採りに誘わなければ、梨香を蜂の群れに巻き込むこともなかった。あいつを守って死んだ俺は、娘に取り返しのつかない悲しみを残してしまったんだ』
リリカがそっと目を伏せる。
『だから今度は誓った。この異世界で出会った“第二の娘”を、今度こそ守り抜くと』
「それって……リリカのこと?」
俺は、無言でうなずいた。
すると突然、リリカが笑い出す。
「キャハハ! なにそれ、ちょっと感動したんだけど!」
『な、何がおかしい!?』
「だってさ、そんなに真剣に家族だって思ってくれてるなんて、ちょっと照れるじゃん」
リリカは笑いながら、俺をそっと手のひらに乗せて微笑んだ。
「リリカもね、ヘラクレスのこと、本当の家族だって思ってたんだよ」
『……ありがとう、リリカ』
その笑顔が、たまらなく嬉しかった。
『それでさ……無理して依頼をこなしてたのって、やっぱりダンジョンの時のこと、気にしてたんだろ?』
「え、バレてた~!? マジで恥ずかしいんだけど!」
顔を真っ赤にするリリカ。
『リリカのおかげで、俺は力を得られたんだ。君を守りたい、その想いが俺を奮い立たせた』
「何それ、なんか……めっちゃエモいんですけど!」
嬉しそうに笑うリリカを見て、俺は真剣な声で言った。
『だからもう、自分を責めるな。リリカがいてくれるから、俺は強くなれるんだ』
「……っ!」
リリカが頬を染めながら、口元に指を当ててはにかんだ。
「それ……ズルいよ、ヘラクレス。そんなこと言われたら……好きになっちゃうじゃん……」
『へっ!?』
思わずの動揺で声が裏返る。
だがリリカは、イタズラっぽく笑ってギャルピースを差し出してきた。
「冗談だってば。でもね、これからも――家族として、よろしくね?」
『……ああ。ずっと一緒だ』
俺はそのピースに、そっと前肢を重ねた。
たったそれだけの触れあいなのに、不思議なぬくもりが胸に灯る。
ふと彼女を見ると、熱のせいか額に汗がにじんでいた。
『リリカ、顔が火照ってるぞ。身体を拭いてやろうか?』
「えっ……いいの? じゃあ、お願いしちゃおうかな」
照れを隠すように笑ったあと、リリカは上着に手をかける。
衣擦れの音と共に、布が滑り落ち――
「……っ」
露わになったのは、滑らかで引き締まった背中だった。
シミ一つない褐色の肌はしっとりと汗ばみ、肩甲骨から腰へと続く柔らかなラインが目を奪う。
その光景に、俺は思わず見惚れてしまった。
「ヘラクレス? どしたの?」
『……いや、なんでもない』
リリカの無防備な振り返りに、俺はあわてて視線を逸らす。
ノビ~ルホーンの先に濡れたタオルを引っかけ、なるべくそっと、背中にあてがう。
褐色の肌に冷えた布が触れるたび、リリカが小さく息を漏らした。
「ん……っ、そこ、冷たい……っ」
拭いているのはただの背中なのに、その吐息が妙に艶っぽくて、こっちが落ち着かない。
どうしてリリカは、そんな声を出すんだ……!?
俺は心を必死に鎮めながら、慎重にタオルを滑らせていく。
『……これでどうだ?』
「ん……サンキュー、ヘラクレス」
振り向いたリリカの頬は、熱のせいかそれとも照れなのか、ほんのりと紅く染まっていた。
俺はドキドキを通り越して、なんとも言えない罪悪感に包まれる。
くそ……。俺は何て顔して、何て気持ちで彼女を見てるんだ……。
そんなドキドキを抱えながらも結局、俺は一晩中リリカのそばに寄り添っていた。
彼女の寝顔はあまりにも無防備で、そしてどこか儚くて。
やっぱりリリカは、娘のように――いや、それ以上に、大切な存在なんだと改めて思う。
気づけば、窓から優しい朝の光が差し込んでいる。夜明けはとうに訪れていたようだ。
「んん~っ、よく寝た~!」
大きく伸びをしながら上体を起こすリリカ。
その膝の上にいた俺に、にっこりと笑いかけてくれる。
「あっ、ヘラクレス。おっはよ~!」
『おはよう、リリカ。……体調はどうだ?』
「うん、バッチリ! ぐっすり寝たから、もう元気満タンっ!」
そう言って腕をぐいっと曲げ、力こぶを作るようなポーズをとって見せる。
その笑顔が、たまらなく愛おしくて。
『それは何よりだな。安心したよ』
俺が心からそう言った、ちょうどその時だった。
バタバタと慌ただしい足音が響いて、病室の扉が勢いよく開かれる。
「リリカちゃーん! 朝起きたらヘラクレスさんがいなくって――って、あれ?」
「おー、タマっちおはよ。どうしたの?」
思わぬ再会に、互いにぽかんと見つめ合うリリカとタマコ。
『すまない、何も言わずに出てきてしまった。リリカのことが心配で……』
「え~っ!? そっかそっか~、やだー、ヤバヤバじゃん~!」
リリカが苦笑まじりに頭を掻いている横で、タマコはその場にへなへなと崩れ落ちた。
「よ、よかったですぅ……。ヘラクレスさん、そちらにいらしたのですね……」
緊張がほどけたように胸をなでおろすタマコ。そのふさふさの尻尾も、ようやく安心したようにゆるゆる揺れている。
「はっ、それよりリリカちゃん! 風邪はもう大丈夫ですか!?」
「もうへっちゃら! ピンピンしてるし!」
「それならよかったですぅ!」
パッと顔を明るくするタマコ。やっぱり優しい子だ。
だが次の瞬間――。
「むぅ~っ、ヘラクレスの浮気者~!」
『えぇっ!? ど、どういうことだリリカ!?』
突然リリカに角をグリグリされ、俺は慌てふためく。
「だってぇ~、リリカが寝てる間にこっそりタマっちの元から来てたんでしょ!?」
『そ、それは違う! リリカが心配だったから……って、そもそもタマコだって大切な家族じゃないか!』
ぽかんとするタマコに、リリカはドヤ顔で胸を張る。
「ふふーん。だってリリカは、ヘラクレスの“超特別なパートナー”なんだからねっ!」
「はわわっ、わ、わたし負けちゃうですぅ……!」
『待て待て、なんだその勝負みたいな流れは!? 話が飛躍してないか!?』
三人のやりとりに、部屋には笑い声が広がる。
――ああ、やっと、また“家族”に戻れた。
そう実感して、俺の胸はほのかに温かくなったのだった。