温泉の村
ん、んん……っ。
まぶたの裏にほんのり明かりを感じて目を開けると、目の前にはぐしゃぐしゃに泣いた顔のリリカがいた。
『リ、リリカ……?』
「ヘラクレス! やっと……やっと目ぇ覚ましたんだね!!」
言葉を詰まらせながら、リリカが俺の背中にそっと頬を寄せる。
「ずっと動かなくてさ……リリカ、もうダメかと思ったんだよ……!」
かすれた声に、どれだけ心配させたかがにじみ出ていた。
辺りは夕暮れの残光に包まれ、焚き火のぱちぱちとした音が静かに響いていた。
俺は長い時間、意識を失っていたのだ。
『……悪かったな、心配かけた』
「まったくだよ~、マジで……」
リリカが鼻をすすりながら、少しだけ笑う。
『……みんなは無事なんだな?』
「もちろん! ヘラクレスが頑張ってくれたおかげだよ!」
その言葉に安堵し、胸の奥がじんわりと温かくなる。
そうだ――今度は守れた。あの時とは違う。
「みんな~、ヘラクレス起きたって~!」
リリカの呼びかけに、タマコが狐耳をピコピコ動かして駆け寄ってくる。
「本当ですかっ!? わあぁ……良かったですぅ!」
涙と喜びで目を潤ませながら、ふさふさの尻尾をぶんぶんと振るタマコ。
その姿はまるで大喜びする子犬のようだった。
ソフィーラさんも静かに近づいてきて、微笑みながら俺の頭にそっと手を置く。
「ヘラクレスちゃん、本当に……ありがとう。あなたがいなければ、私たちは全滅だったわ」
褒められ慣れていないせいか、俺はなんともこそばゆくて、角をぴくぴく動かす。
「……ちょっと角、触ってもいいかしら?」
『お、おう』
ソフィーラさんが指先で角をなぞると、まるで子供をあやすような優しい温もりが伝わってきて、不思議と心が和む。
「あ、あのっ、わたしも……」
もじもじしながらタマコが手を差し出し、リリカに受け取られるようにして、そっと俺を掌にのせる。
「ちょっとトゲトゲしてるけど……ふふ、すごく頼もしいですぅ」
恥じらいながらも、どこか誇らしげなタマコの笑顔に、俺は少しだけ背筋を伸ばした。
「でさでさ! さっきの金ピカモード、あれマジで何だったの!?」
『……ああ、あれは土壇場で覚えた新しいスキルだ』
俺が事情を語ると、リリカが大きく目を見開いて驚き、ぴょんと飛び跳ねた。
「ウッソでしょ!? ヘラクレス、進化しすぎ~! もうチートじゃん!」
『いや、そんな大層なもんじゃない。使うたびにぶっ倒れてたら、意味がないからな』
「うわ~、それは確かに」
苦笑しながらも、リリカは心底うれしそうに笑った。
その笑顔が、たまらなく眩しくて、俺はただ黙って頷いた。
翌朝、俺たちは夜明けとともに再び出発した。
馬車の代わりはない。
リオックに喰われてしまったあの馬のことを思うと、リリカたちも少しだけ神妙な顔つきになる。
「しょーがないよねっ。……よし、歩いていこ! ほら、歌でも歌いながらさ~」
「うう、坂道じゃなければ歌えたんですけどぉ……」
山道を登っていくうち、ふわりと鼻をくすぐる香り――。
『……この匂い、硫黄だな。温泉が近いぞ』
「えっ、ホント!? っしゃあー!」
リリカが駆け出し、俺は胸元で再び振り子のように揺さぶられる。
「まったく、元気なんだから……」
「ま、待ってくださいですぅ~!」
湯けむりが木々の間から立ち上るのを越えたところで、視界に現れたのは山の斜面に沿って開けた小さな村だった。
「ここが――ユエン村よ」
ソフィーラさんの声が染み入るように響く。
石畳の坂道に並ぶ、木造りの宿。
瓦屋根からは白い湯けむりが立ち上り、ところどころに置かれた足湯桶には旅人たちが足を浸していた。
静かな風の音と、どこか懐かしい硫黄の匂い。
まるで時間がゆったりと流れているようだった。
『……ここ、なんだか懐かしいな』
「また前世のこと思い出してんの~?」
『思い出すさ、当然だろ。……あそこでも家族と来たことがあったからな』
「ふふっ、ほんとにヘラクレスって情に厚いよね~」
そう言ってリリカが、俺を包むように優しく撫でる。
――今は、この手のぬくもりが、何より大切に思えた。
「さ、着いたわよ。ここが私オススメの旅館」
ソフィーラさんが指し示したのは、古風な木造二階建ての宿屋。
そののれんには、湯気を三本立てた温泉マークが描かれていた。
「『湯癒の宿』って言ってね、泉質も建物も最高なの」
「ヤバっ、マジ期待値高いんですけどぉ~!」
「いらっしゃいませ~」
のれんをくぐると、和装風の藤紫の衣装に身を包んだ女将さんが、穏やかな笑顔で出迎えてくれた。
「あら、ソフィーラちゃん。そちらはお友達ですか?」
「この二人は私の後輩よ。ここの温泉を知ってほしくて連れてきたの!」
「あらまあ、それは嬉しいですね~」
どうやらソフィーラさんは、この女将さんと知り合いのようである。
だけど、すぐに俺を見て少し渋い表情になる。
「あら……虫も一緒に?」
「うん! この子はヘラクレスっていって、リリカたちの仲間なんだよ~!」
リリカが胸を張って言い切ると、女将さんはふぅとため息をついた後、ほんのり微笑んだ。
「……分かりました。旅の供ならば歓迎しましょう。ただし、他のお客様に迷惑をかけないように」
「わーい、やったねヘラクレス~!」
リリカとタマコが手を取り合って、くるくる回りながら喜ぶ。
――こうして俺たちは、束の間の癒しと再出発のために、名湯の村・ユエンでの滞在を始めることになるのだった。




