転生、ヘラクレスオオカブト
「ん、んん……っ」
気がつくと、俺は真っ白な空間に漂っていた。
――身体がやけに軽い。三十路も半ばを過ぎて、ガタが出てきていたとは思えないほどだ。
「――角山英雄様」
「は、はいっ!」
どこからか聞こえた穏やかな女性の声に、思わず背筋を伸ばして返事をする。
すると目の前の空間がふわりと揺れ、緑色の髪を垂らして古代ギリシャ風の衣装を纏った美女が姿を現した。
「あなたは……?」
「私はガイヤ。あまねく命の輪廻を司る女神でございます」
「は、はあ……」
唐突に放たれた現実離れした自己紹介に、俺は間抜けな声を漏らしてしまう。
「そんな女神様が、俺に何のご用でしょうか?」
「英雄様、あなたは虫を捕りに山へ入った際、蜂の大群に襲われて命を落とされました」
その言葉で、俺はようやく思い出した。
――そうだ。娘の梨香と一緒にカブトムシを捕りに山へ行ったんだ。
けれど、突然オオスズメバチの群れに襲われて、俺は娘を庇うように覆い被さった。
「梨香は!? 娘は無事なんですか!」
「ご安心ください。あなたの娘さんは無事です。父親を亡くして、深く悲しんではおりますが……」
「そう、ですか……」
無事だと聞いて、俺は胸をなでおろしながらも、拳を強く握りしめた。
梨香……、パパは、もっとお前の成長を見守りたかったよ。
「あなたの深い悲しみ、痛いほど伝わってまいります。そこで、英雄様にもう一度生きるチャンスを差し上げましょう」
「生きるチャンス、ですか?」
「はい。元の世界に戻すことは規則でできませんが、異世界でなら蘇らせることが可能です」
「本当ですか!? ……いや、異世界か……」
愛する娘には、もう会えない。
その現実に、思わず口ごもる俺に、ガイヤ様がそっと耳打ちしてきた。
「千年に一度の特別な特権でございますよ」
「千年に一度……!」
そう聞かされたら、さすがに断れないじゃないか。
「……お願いします。生き返らせてください」
俺がそう言うと、ガイヤ様は整った顔立ちに満面の笑みを浮かべた。
「かしこまりました~!」
……ちょっと軽いノリなのが気になるが、今は目をつぶろう。
「それではこちら、特典カードでございます。転生する者は二枚、お引きいただけます」
「は、はあ」
ガイヤ様は、俺の周りに何十枚ものカードを並べた。
……悩んでも仕方ない。ここは直感で行こう!
「まずはこれで!」
一枚目を引いて裏返すと、力こぶを作るピクトグラムが描かれていた。
「これは?」
「鋼の肉体、でございます。生半可な攻撃では傷ひとつつきません!」
「そ、そうですか!」
鋼の肉体か……。少なくとも蜂に刺されて死ぬことはなさそうだ。
続けて二枚目を引くと――ガイヤ様の表情が曇った。
「これは……死の因果。少々難しいカードですね」
「へ?」
まさか、ハズレ……!?
「これは、死因や最期の想いによって転生先が決まるカードでして……女神の私にも、どうなるか分かりかねます」
「そ、そんな……」
急に雲行きが怪しくなってきた。
「引き直しはできません。よろしいですね?」
「あ、はい!」
俺がうなずくと、体がぼんやりと光り始める。
「それでは……新しい生を、どうかお幸せに……」
ガイヤ様の声が遠ざかり、意識はプツリと途切れた――。
* * *
ん、んん……。
目を開けると、木漏れ日が差し込む森の中だった。
地面にはふかふかの落ち葉。
――ん? 足?
足元を見下ろして、すぐに違和感に気づく。
この手、いや脚は、人間のものじゃない。
二又に分かれた鉤爪のような形、黒光りする節々。
……虫捕りが趣味だった俺には分かる。これは、カブトムシの足だ!
さらに体を動かしてみれば、六本の脚がモゾモゾと動く。
まさか、俺、カブトムシになっちまったのか……!?
思い出す、あの死の因果とかいうカード。
カブトムシを捕りに行ったせいで、カブトムシに……!?
ふ、ふざけんなよ……!
怒り半分、興味半分で周囲を見回すと、小さな水たまりを見つけた。
……カブトムシは本来視力が弱いとは知っていたが、どうやら前世と同じような感覚で見えて助かる。
覗き込んだその水面に映っていたのは、黒く長い二本の角。
頭頂部から伸びた大きな角と、前方に突き出した槍のように鋭い角。
上の角には金色の毛がうっすらと縁を彩っている。
――間違いない。これは、昆虫の王様。
ヘラクレスオオカブトだ‼
思いも寄らない姿に転生した俺は、興奮で腹部の呼吸孔からシューシューと空気を吹き出していた。
――ヘラクレスオオカブト。
世界最大、最強の呼び声高いカブトムシ。
子供の頃から、ずっと憧れていた存在だ。
この前、娘と一緒に行ったペットショップでも、つがいで展示されてたっけ。
ボーナスが入ったら、絶対に買うつもりだったんだ。
そんな想いを馳せていると――ぐう、と腹から鈍い空腹感が湧き上がった。
そういえば、転生してから何も食べていない。
カブトムシなら、樹液か果物だろう。
角の生えた頭を上げて周囲を見回すと、複眼越しでも意外なほどはっきりと景色が見える。
目に飛び込んできたのは、一本の大木。
幹の中腹あたりに、蝶が何匹も群がっている。
――もしかして、樹液が滲んでいるのかも!
俺は待ちきれず、大木に向かって駆け出した。
鋭い爪と、がっしりした六本の脚。
それらを巧みに使い、木を軽々とよじ登る。
よし、楽勝だ!
中腹にたどり着いた俺は、角を振り回して蝶たちを追い払った。
これがカブトムシ様の特権だ!
……って、なんだか心が小学生に逆戻りしている気がするな。
苦笑しつつも、俺は幹の割れ目から滲み出る樹液に口を近づけた。
ブラシ状の毛が生えた口で吸い上げると――芳醇な果実酒のような、濃厚な甘みが口いっぱいに広がる。
う、うまい!
夢中で樹液をすすっていると――
ガシッ。
突然、無造作に身体を掴まれた。
な、何だ!?
ぎょっとして後ろを振り向くと――そこにいたのは、緑色の肌に、尖った耳と鼻を持つ、人型の生き物だった。
小柄で、獰猛そうな目つき。
――これは、間違いない。
ファンタジー作品ではお馴染みの雑魚モンスター、ゴブリンだ!