【エピソード26:完成への取引と、最後の星】
クロノパスでの取引が終わった瞬間から、ボウフラの旅は「漂流」ではなくなった。
点と点が、ようやく一本の線を結び始めていた。
感動炉。
それが、彼の旅の本当の目的地だった。
改竄炉から抽出した設計図の断片は、未完成のままでも異様な重みを持っていた。数値でも、構造でもない。「意味」の重量だ。
それは、宇宙のどこかに“最後の一片”が必ず存在することを示していた。
そして、そこへ至る座標は、驚くほど簡素だった。
――1ミリの転位。
ほんのわずかな誤差。
だが、その1ミリは、これまで彼らが渡ってきたすべての星の“間”に、ひそやかに折り畳まれていた。
転位の衝撃はなかった。
音も光もなく、ただ次の瞬間、視界が「終わり」を帯びる。
ボウフラとピトピトが到達したのは、宇宙の果てに浮かぶ小さな星。
その名は――エピローグ。
星は、まるで何度も書き直された原稿のようだった。
輝こうとした痕跡だけが残り、大地の色はすでに薄れ、光はくたびれている。
都市も、航路も、生命反応すらない。
ただ一つ。
空間の中央に、「交換の台座」だけが浮かんでいた。
それは人工物とも、自然物ともつかない存在だった。
触れれば崩れそうで、だが決して壊れない――そんな矛盾を孕んだ形。
ピトピトが、いつになく小さな声で言った。
「……ここが、最後なのね。
何にもない。
取引相手は……いるの?」
ボウフラは答えず、感動炉に意識を沈めた。
脈動。
かつては不安定で、測定不能だったその鼓動は、今や明確な数値を示している。
0.045ミリワット。
微弱だが、確実な出力。
それはこれまで訪れたすべての星の「感情残差」が、炉の中で均衡を保っている証だった。
「相手は――」
ボウフラは、静かに言った。
「たぶん、僕たち自身だ」
ピトピトが息をのむ。
「この星ではね、『過去から未来への旅の記録すべて』を差し出して、
『旅の真の目的』を受け取る」
それは取引というより、告白に近かった。
ボウフラは、これまで集めてきたすべてを取り出した。
惑星ミニョンで採取した、あの音――
風と笑い声が混ざり合った、忘れがたい周波数。
マリナーテで測定した、沈黙の質量。
言葉にならなかった悲しみの、確かな重さ。
トウク星で手に入れた、無音の爆笑玉。
誰にも届かなかった喜びが、圧縮されたまま眠る結晶。
ウラエヌスで起動した覚醒モジュール。
「目覚めること」を選んだ生命の、震え。
そして――
改変され、何度も上書きされた、旅の起動記憶。
それらすべてが、交換の台座に置かれた瞬間。
光は、爆発しなかった。
ただ、溶けた。
記録は境界を失い、一つの純粋な光へと収束していく。
音も、香りも、重さも、笑いも、沈黙も――区別をやめ、意味だけが残った。
その中心から、ゆっくりと浮かび上がるものがあった。
感動炉――最後の設計図の断片。
ピトピトが、震える声で言う。
「……それが、最後のパーツ?」
ボウフラは頷き、迷いなく断片を分析ポートへと接続した。
瞬間、機体全体が静かに震えた。
揺れではない。再構築だ。
設計図の断片は、金属や回路を要求しなかった。
燃料として指定されたのは、ただ一つ。
――記憶。
これまで集めたすべての旅の痕跡が、炉の中へと再配置されていく。
失われたものではない。
「意味を持ったまま、燃える」ために。
そして。
感動炉は、定格出力 8V で安定した。
オレンジ色の光。
それは、どの恒星の光とも違っていた。
熱ではなく、温度でもなく――誰かを思い出させる光。
ボウフラは、確信をもって言った。
「完成だ」
彼は、初めて旅の“答え”を言葉にした。
「この感動炉の真の機能は……
『交換された価値を、他の生命に渡す力』」
ピトピトが、ゆっくりと理解していく。
「……共感?」
「そう。
共感の伝播装置だ」
ボウフラの旅は、物々交換ではなかった。
価値を奪う旅でも、蓄える旅でもない。
宇宙に散らばった、名付けられなかった感情。
届かなかった想い。
誤解された沈黙。
それらを集め、別の誰かへ手渡すための旅だったのだ。
取引は、静かに成立した。
エピローグの空に、虹色の残像が浮かび上がる。
それは彼らの旅の記録だった。
だが、もう保存されることはない。
光は、ゆっくりと拡散し、宇宙へ溶けていく。
ボウフラは操縦席に戻り、ピトピトに微笑みかけた。
「さあ、帰ろう」
彼の声には、迷いがなかった。
「この『共感の光』を持って、
僕たちの最初の星へ」
ピトピトが、はっと息を吸う。
――惑星ミニョン。
音と香りが混ざり合う、あの星。
すべてが始まり、そして、まだ“未完成”の場所。
「新しい商売を始めよう」
ボウフラの機体は、今、宇宙で最も温かい光を放っていた。
それは終わりの光ではない。
物語が、ようやく本来の場所へ戻るための光だった。




