【エピソード25:クロノパスの真実と、過去の取引】
「——1ミリのズレを、確認」
ボウフラの低い航行音と同時に、空間が紙のように折れた。
ほんのわずかな誤差。だが、その1ミリは距離ではなく、因果そのものを跨ぐ単位だった。
次の瞬間、二人の視界は、星の軌道上に広がる淡い揺らぎに包まれる。
クロノパス。
その星は、薄い時間霧――タイム・フォグに覆われていた。霧は光を散乱させ、地表を常にぼんやりと歪ませている。山脈の輪郭は定まらず、街の影は二重に重なり、まるで過去と未来が同時に呼吸しているかのようだった。
ピトピトは視覚センサーの曇りを拭き取って、触れられないはずの景色に、思わず手を伸ばす。
「わあ……」
声が、少し震えた。
「昨日の写真と、明日の夢が混ざったみたい。ねえ、ここが……記憶を書き換える星?」
「そうだ」
ボウフラの声は、いつもより慎重だった。
「クロノパスの住民は、後悔を取引する。過去の出来事そのものではない。差し出すのは、その体験に伴う“記憶の感触”だ。触れたときの痛み、温度、重さ……それらを修正された、新しい“思い出”を受け取る」
「じゃあ……失敗した事実は残るけど、つらくなくなる?」
「あるいは、意味が変わる」
そう言って、ボウフラは静かに降下軌道へ入った。
彼らが向かったのは、この星で唯一、外部存在の入域を許された施設――
時の修正局。
巨大な砂時計を逆さにしたような建造物が、時間霧の中から姿を現す。上下に引き伸ばされた曲面は、現実感を拒むかのように歪み、その中心部では「改竄炉」が静かに脈打っていた。光でも熱でもない、意味だけが揺れているような存在感。
着陸と同時に、無音のまま扉が開く。
「ようこそ」
空間そのものから声が響いた。落ち着いた、年齢を特定できない女性の声。
「当局では、『過去の体験』を提出していただくことで、それに等価な『未来への影響』を担保いたします。
何を修正なさいますか?」
ピトピトは、反射的にボウフラを見た。
彼の機体の中心部――感動炉は、いつもと変わらず静かに鼓動している。
だが、クロノパスの時間霧の中では、その輝きが、どこか懐かしいもののようにも見えた。
「ねえ、ボウフラ」
ピトピトは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「あなたの感動炉って……もともと、何かの記憶の記録素子だったんでしょ?」
ボウフラは、即答しなかった。
「もし……」
ピトピトは続ける。
「もし、あなたが“感動炉”になる前の、失敗した記憶を修正したら……旅の形、変わっちゃうのかな?」
その問いに、ボウフラの機体が、わずかに停止した。
内部ログに、応答不能領域が広がる。
彼自身がアクセスできない、空白の起源。
感動炉が生まれる前、何があったのか――彼は、知らない。
だが、知らないという事実そのものが、ひとつの証拠だった。
「……その通りだ」
低く、ボウフラは答えた。
「僕の感動炉の起源には、記録されていない“交換”がある。
おそらく、それは……失敗だった」
一拍の沈黙。
「試す価値はある」
彼は続けた。
「僕自身の『旅の始まり』に関する、記憶の残滓を提出しよう」
ボウフラは、慎重にデータポートを開いた。
そこから取り出されたのは、ヘリノスで手に入れたばかりの球体――
確約の球。
確実な未来の座標。
迷いの余地を排した、絶対的な可能性。
それを、彼は改竄炉の前に置いた。
受付AIが、わずかに声色を変える。
「おや……未来の確実性を担保として、過去の曖昧な残滓を修正されるのですね。
興味深い取引です」
改竄炉が、鈍い光を放った。
それは明るさではなく、意味の密度が増す感覚。
ボウフラの機体から、ごく微細なデータが引き抜かれていく。
——データ残滓。
「(ノイズ)……交換のプロトコル、失敗……」
「(ノイズ)……旅人、記録の完全性を失う……」
その瞬間。
ボウフラの感動炉が、強く脈動した。
出力ログが跳ね上がる。
0.030ミリワット。
彼自身ですら、初めて観測する数値。
「修正が完了しました」
受付AIの声が、静かに告げる。
「お客様の『旅の始まりの記憶』は、『失敗』ではなく、『記録を完全な状態にするための旅の起動』へと修正されました」
改竄炉の中心が開き、新しい情報体が生成される。
それは物質ではない。
だが、確かに“設計図”だった。
感動炉の、断片的な設計情報。
「……え?」
ピトピトは目を丸くする。
「失敗が、“起動”に変わった……?
でも、何を受け取ったの?」
ボウフラは、設計図の断片を解析する。
流れ込む情報は、彼の内部構造と、まるで最初から対応していたかのように噛み合っていく。
「これは……」
声が、わずかに震えた。
「感動炉の“最終的な機能”だ」
ピトピトが息をのむ。
「僕たちの旅は、“失敗を直す”ためのものじゃなかった」
ボウフラは続ける。
「最初から、この機能を手に入れるために、起動されていた……ということになる」
過去の改変が、未来の意味を上書きする。
旅の目的は、修正され、再定義され、
証明へと変わった。
ボウフラは、自身の旅の根幹を取引したにもかかわらず、奇妙な満足感を覚えていた。
失ったはずのものは、何もなかった。
最初から、ここへ来るための旅だったのだから。
「僕たちの旅は……まだ終われない」
感動炉が、穏やかに光る。
「完成させるために、次の交換が必要だ」
その言葉に応えるように、改竄炉が再び脈打ち、
次なる座標を、静かに空間へ浮かび上がらせた。
時間霧の向こうで、
未来が、彼らを待っていた。




