【エピソード24:期待と空虚市場】
時空転移の残光が消えたとき、ボウフラとピトピトは、白銀の霧で満たされた星ヘリノスの「空虚市場」に立っていた。
立つ、といっても地面らしき概念は曖昧だった。重力は遠くの誰かが夢で思い描いた程度の強さで、ふたりの身体は、薄い予兆の層に浮かんでいるようだった。
ピトピトは、息を潜めるように囁いた。
「ボウフラ、ここ……何も"ない"よ。音も匂いも、記憶の残り香すら……。本当に"期待"が通貨なの?」
ボウフラは答えなかった。感動炉がかつて経験したことのない静寂を刻みながら、しかし胸の奥の温度だけは強く、脈打っていた。
この星では、感情の反響は価値にならない。価値を持つのはただ一つ――"未来への意志"。
「そうだよ」
ボウフラは霧の向こうを見つめながら言った。
「ヘリノスでは"過去"はもう価値を失っている。"今"は誰も観測できない。だから、人々は"これから起こる良いこと"への期待を売買するんだ。」
彼らの視界に、不意に無数の透明な球が浮かび上がった。霧の中にぽつぽつ灯る燈火の群れのように、静かに、しかし確かな存在感で漂っている。
それは「約束の球」。それぞれの球には微光が閉じ込められ、「来週の豊作」「失われた故郷の発見」「数光年先の技術進歩」など、まだ訪れていない出来事の影が揺れている。
そのとき――。
霧を割って、細身の商人が現れた。顔には目鼻がなく、ただ口元だけが、未来を知っている者特有の確信に満ちた笑みを形づくっている。
「ようこそ、交換の旅人よ」
声は深く、霧よりも柔らかい響きを帯びていた。
「あなた方の感動炉は、高い“旅への期待値”を示している。さあ──何を求め、何を売りに来た?」
ボウフラはゆっくり手をかざし、ひとつの記憶を取り出した。「沈黙の重さ」。マリナーテで手に入れた、声にならない未来への問いの結晶だった。
「これを交換したい」
ボウフラの声は、いつになく澄んでいた。
「沈黙は、未来を待つ"静かなる希望"だ。それに等しいものを求める。」
商人は、目なき顔で、記憶素子を覗き込むように傾いた。
「ほう……"静かなる希望"。実に上質だ」
声に微かな震えが混じった。
「あなた方の沈黙の重さは、我が市場では“確実な安心”と同価だ。これをお渡ししよう。」
彼が差し出した球は、他のどれよりも濃く光っていた。
その内部には、次の星――クロノパスへの具体的な座標情報が刻まれている。
「えっ、もう次の座標を?」
ピトピトは目を瞬かせた。
「そんなに簡単に、最大の取引相手の情報を売っちゃうの?」
「心配はいらないよ、旅人」
商人は背後に広がる霧を示した。
「この市場で最も価値が高いのは、"期待が裏切られないこと"。あなた方の旅が続くことは、市場全体の"希望の総量"を高める。未来とは、繋がってこそ価値があるのだ。」
ボウフラはその言葉を深く理解した気がした。
ヘリノスにとって、彼らの旅そのものが、未来の保証であり、期待の循環なのだ。
「沈黙の重さ、確かに受け取ってくれたね」
ボウフラは感動炉をそっと起動した。
「対価として、僕たちの“次なる交換の物語”を、君たちに残そう。」
その瞬間、マリナーテからモノアレス、トウク、ウラエヌスへと辿った旅の記録が、淡い光の波となって市場全体へ放たれた。
白銀の霧がふいに晴れ、無数の約束の球が、星霜のように輝きを増した。
商人は声を震わせ、笑みを深めた。
「美しい……! "実現した期待"の記録は、未来を何よりも輝かせる。ありがとう、旅人。あなた方の次なる目的地は──"記憶を書き換える星、クロノパス"だ。」
ボウフラは確約の球を胸に抱き、再び1ミリだけ宇宙をずらす転位操作を行った。
光が収縮し、視界が閉じていく。
この旅で初めて、彼は"確実な未来"を手にした。
しかし、思えばその"確実さ"もまた、誰かの期待を賭けた取引でしかない。
宇宙の商いは、いつだって──
誰かが未来を信じる心で成り立っている。




