【エピソード23:夢の交易所と、詩の残響】
ウラエヌス・ノクターンは、自分の呼吸音がいつから聞こえなくなっていたのか、思い出せなかった。
夢の都市は、沈黙そのものが設計図であるかのように、規則も輪郭も定かではなかった。
「見て。あれが――忘却のビルよ」
ピトピトの声だけが、都市の形を決めた。
遠くに、霧を漏らし続ける塔がある。
最上階から流れ出る霧は、薄い。
下層へ降りるほど濃くなり、まるで重い記憶ほど手放すときに色づくかのようだった。
ウラエヌスは胸の奥に、かすかな痛みを覚えた。
忘れるという行為は、なぜこうも青白く見えるのか。
なぜ人は、自分の影を切り捨ててまで、前へ進もうとするのか。
その問いに対して、形にならない輪郭をなぞる前に、視界は広場へ開けた。
建物は無い。
ただ、光のうねりだけがあった。
海でもないのに、潮騒のようなひそやかな寄せ返しが聞こえる。
それは、人々の夢がひとつに凝り固まってできた集合意識だった。
「ようこそ、覚醒者の旅人」
光が微笑むように揺れた。
その声は、誰の肺から放たれたものではなかった。
「あなたの詩的な感覚は、この街にとって希少です。何を求めますか?」
ボウフラ――彼は夢の中ではその名で呼ばれていた――は、ゆっくり息を吸うように意識を定めた。
「目覚めの秘密を。
この夢から、現実へ帰るための手がかりを」
光は、静かに笑った。
「それは取引できません。
覚醒は、我々の終わりを意味するからです」
ピトピトが息をのむ。
ボウフラは、その沈黙の端が、どこか温かいと感じた。
だが光は続けた。
「けれど……あなたが持つ“詩的合意書”は、魅力的だ」
ボウフラはそれを懐から取り出した。
紙ではない。
文字でもない。
掌の上で淡く脈打つ、小さな残響――“心が笑ったときの音”が、まだ微かに息をしていた。
彼はそれを掲げた。
「この詩を差し出す。
対価として……あなたたちの夢を動かす核の、断片を」
光は震えた。
夢の波に、深い皺が走る。
ピトピトが小さくささやく。
「……泣き笑い。
あのときホリョメルを救った、あの感情……」
光はゆっくりと揺れた。
それは、迷いか、郷愁か、あるいは恐れか。
「――その詩は、我々が排除したはずの孤独を呼び覚ます。
……取引に応じましょう。
だが、完全なプログラムは渡せない」
光の波面から、ひと粒の光子が落ちてきた。
《覚醒調整モジュール:A-58》
薄桃色の光を宿した、小さな欠片。
ボウフラの意識に吸い込まれた瞬間、温度の無い熱が胸を貫いた。
彼はその場に立ったまま、目を閉じた。
――帰れる。
夢に囚われず、現実へ。
その確信は、祈りにも似ていた。
詩的合意書は、まるで名残を惜しむように明滅し、やがて光の市場へ溶けていった。
「覚醒者よ」と、集合意識が遠くで囁いた。
「夢で得た価値は、いつか現実のあなたを支えるだろう……また眠りに来なさい」
声は、祝福にも呪いにも聞こえた。
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ボウフラが目を開けると、ピトピトが腕を振り回していた。
「夢から覚めた……ほんとに!
あそこ、もう二度と戻れないかと思った!」
彼は胸に手を当てた。
感動炉の出力は、0.019ミリワット。
微かだが、確かに大きくなっていた。
「詩と引き換えに、僕たちは“戻る意志”を手に入れたんだ」
ボウフラはつぶやいた。
「夢の中の共感が、僕たちを強くした」
彼は次の座標を起動した。
空間の奥で、青く深い光が脈動する。
「次は……ヘリノスの空虚市場だ」
「空虚……?」
「そこでは、“期待”だけが通貨なんだそうだ」
ピトピトは眉を寄せた。
「期待って……交換できるの?」
ボウフラはうっすら笑った。
「わからない。
でも――期待は、未来に投げる意志の欠片だ」
夢の残響がまだ耳の奥で微かに震える。
ふたりは、その揺れを抱えたまま次の旅へ歩みだした。
“期待とは何を値づけし、何を奪うのか?”
その問いだけが、静かに彼らのあとを追ってきた。




