言葉、音の森(赤ⅳ)
僕がその森に入るようになったのは、ある種の偶然だった。
誰かに命じられたわけでもなく、誰かを助けようと思ったわけでもない。
ただある日、地図に載っていない小道を見つけて、それを歩いていたら、森の中にいた。
森は静かだった。
誰も叫んでいなかったし、何かが壊れた音もしなかった。
それが最初だった。
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最初のうちは、僕は自分が「狩人」だとは思っていなかった。
けれど、いつのまにかそう呼ばれるようになった。
人は役割を与えるのが好きだ。安心するのだろう、自分と他人を名前で区切ることで。
けれどこの森には、名前も、役割も、
だんだんと
曖昧になる時間帯がある。
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ある霧の深い午後に、僕は赤いフードの子に出会った。
大きめのリュックを背負い、片手にマグカップ、もう片手にポータブルレコードプレーヤーを持っていた。
「祖母に会いに行くの」と、 は言った。
「でも祖母は、もう時間の外側にいる」
「それなら、君も時間の外側に行くのか?」と僕は訊いた。
黙ってうなずいた。
行けたのだろうか。きっと、そう。多分。
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狼と会った。
彼は細く、細く長い煙草を吸っていた。細長い手でライターを扱う仕草が妙に繊細で、音楽家のようだった。
「もう、食うのはやめた」
「この森では、欲望よりも沈黙のほうがよく響く」
僕はライターの火を借りて、黙って隣に座った。
風が揺れて、枝のあいだからジャズの音が漏れていた。
たぶん、チェット・ベイカー。
その日、僕は一つのことに気づいた。
狩人は、もう狩るものを持たない。
彼の銃は空っぽで、代わりに詩集と音楽と、少しの記憶を詰めて森を歩く。
役割は風のように、季節が変われば消えていく。
それでも僕は、ときどき森の入口に立つ。
迷い込んでくる者の影を見つけたときは、そっと肩をたたき、道を指し示す。
それだけが、今の僕にできることだ。
たぶん、それで充分なのだと思う。
あれから、赤は見ない。