16話
「どこに行くのですか」
全てを塗り潰していく豪雨。
吹き荒れる暴風。
外へと出たあやめを待ち構えていたのは、黒いレインコートに身を包んだ女。
辛うじて聞こえてきたその声はひどく聞き覚えのあるものだった。
「……こんなときに一体何のようだ」
その時、風がフードを捲り上げる。
肩よりも少し長い黒髪が靡いていく。
そこにいたのは、鋭い視線をこちらに向ける日向サヤだった。
「私をここに呼んだのはあなたでしょう。一人で来いとそう部下に命じて」
「どうして呼ぶ必要がある」
「それを確かめに来たんです」
「部下とは誰のことだ」
「今、この現象を引き起こしている天ヶ崎れいです」
あやめは悟られないように奥歯を噛み締めた。
証人。
そういうことか。
「……それはれいが勝手にしたことだ。私は呼んでいない」
「では、彼女はどうしてあなたの名前を使って私を呼んだのですか」
「知りたいか」
「……?」
「なら、着いて来るといい。私はこれかられいに会いに行く」
そう言って、サヤの隣まで歩いて止まった。
二人はお互い背を向けるかたちで会話を続ける。
「浜野田あかりは無事に逃げることができた。君が一番心配していたのはそこだろう」
「はい。つい先程、あかりさんは近くの支部で保護されたとの報告がありました」
「となると、罠かもしれないのにわざわざ着いて来る理由も薄いと思うがね」
「理由ならあります、ネルヴァージ・ドルレス。私は朝狩あやめを助けたいのです。そして、助けられる見込みがないのなら、あなたの身柄を北の魔女へ渡さなければならない」
「助けるだけの価値を君は彼女に見出しているのか? これまでされた仕打ちを忘れたか」
「そうされて当然のことを過去に私は彼女にしています。私自身彼女に対して、慚愧の念はあれど、憎しみなどあろうはずがありません」
「なら、あやめにあかりやその他の仲間たちを殺されてしまっても、君はそれを────」
「あやめがそんなことをするはずがありません」
言い切る前に切り捨てられた。
流れる沈黙。
体にぶつかる雨粒の数々は、こちらを責め立ているかのようで。
「そんなことをするはずが、ありません」
再度、はっきりと告げられたその返答が、脳に刷り込まれていく。
ポケットの中はもう吸うことのないタバコの箱。
それをぐしゃりと握りしめ。
ああ、彼女のこういう素直なところが、私は嫌いだったのだと。
────そう、思い返したのだった。
最後に残った自分色の羽一枚。
人差し指と親指で摘んだそれを手持ち無沙汰にくるくると回転させる。
さて、翼は全て黒に染まりきってしまった。
「はは、この色ではさすがに破門待ったなしですねぇ」
立体駐車場の内部。
その中の柱の一つに背中を預けて、れいはそう呟いた。
もっとも、破門を言い渡すエルダビューラは、自らの手で殺してしまったのだが。
これで、十分な被害は出せたはずだ。
ここに来るまでに阻止しようとしてきた協会の魔女を何人も屠った。
今の私は彼女らにとって明確な敵。
協会を裏切り、ヴァストヴェーレを裏切った。
戻る場所はどこにもない。
だから、この翼で羽ばたく必要はない。
ならば、これは堕ちるために使おうと。
信じるものを決められた人生だったから、最後くらいは。
そんな、ささやかなこの世界に対する、私なりの抵抗。
湿った世界に、乾いた笑いを吐き出した。
この世に生を受けた瞬間から、私たちはそれぞれの箱に入れられる。
言葉を交わすことはできるが、他の箱に入ることはできないし、ましてや、その箱から手を伸ばして誰かの手を掴むことすらできない。
それは、友人になっても。恋人になっても。家族になっても変わらない。
では、その箱から出られるのはいつか。
それは、死ぬときだ。
死んでこの肉体から解放されるとき、私たちは初めてこの箱から出ることができる。
これまでの人生を清算し、物事の価値が確定したその瞬間になって初めて、誰かを理解することができる。
それまでは、私たちは真の意味で相手とわかり合うことはできない。
なら、誰かと触れ合おうとすることに意味はなく、するべきではないのか。
私はそうは思わない。
その理由を説明する言葉も、それを探す時間も私は持ち合わせていないけれど。
わからなくても、わかろうとする。
一見、無駄としか思えない行為だが。
そのことに、きっと価値があるのだと。
そう思った。
「まるで、遊び疲れた子どものようだな。今にも眠ってしまいそうに見えるが」
「このような足元の悪い中、よくぞお出でで」
あやめ様の後ろには、日向サヤがいる。
正直、来るか来ないか。
来るにしても、この力で交通機関が麻痺する前に間に合うかは賭けだった。
「終わりだ」
そう吐き捨てて、彼女はれいに歩み寄る。
やがて、正面に立って見下ろした。
その視線は背中の翼へと向けられている。
「随分と無理をしたな」
「人生には頑張り時があります。私はその機会を見極めて、適切に行動したまでです」
「誰のために」
くつと肩を揺らす。
「……もちろん、自分のためですよぉ。私、好き放題暴れることが夢だったんです。何も考えず、馬鹿みたいに。ほら、私昔から頭が良くて、何をすればいいかわかってしまいますから」
「そうだな。初めて会ったときからお前のことは優秀だと思っていたよ」
「今どんな気持ちですかぁ? 信用できると思っていた者に二回も裏切られて」
「最悪な気分さ。間違いなくな」
「はは、そうでしょうね。……そうでなければ、私がこれをした意味がありませんから」
そう言って、れいは何かを取り出す。
それは、拳銃。
エルダビューラの復活を阻止したのと同じもの。
れいはそのまま、銃口をあやめに向けた。
身構えるサヤを片手で制す。
「ばーん」
「……」
「もっと、反応してくださいよぉ。……私が滑ったみたいじゃないですか」
「わざとらしく演技するタイプに見えるか? 私が」
「いいえ?」
「そうだろう」
「……撃ったこと、ありますかぁ?」
「いや」
「そうですか、じゃあ」
銃口を自分に向けて、差し出す。
あやめは屈んでそれを受け取る。
「……最期に言い残すことがあれば聞くが」
「うーん、そうですねぇ」
れいはわざとらしく言葉を考えあぐねる振りをする。
話すことなどすでに決めていたというのにもかかわらず。
「この一連の騒動の元凶は私です。私の目的はエルダビューラ様を殺害し、祈りの魔力を思うがままに振るうこと。その目的のために、あなたは操られていたんです」
「……」
「死にかけのあなたの魂にネルヴァージ様の魂を融合させ、その後エルダビューラ様を復活させた。つまり、これまでの行動に朝狩あやめの意思は一切ありません。わかりますか?」
「あぁ」
「そんな中、必死の抵抗で自分の人格を取り戻し、即座にネルヴァージ様の人格を切り捨てた。そして、元凶を止めて被害の拡大を防いだあなたが協会の魔女であることに誰も疑いの余地はない。むしろ、その功績は評価されるべきもの。あなたは予定通り、東の魔女へと就任できるでしょう。……あぁ、それと忘れないうちに」
れいはもう片方の手に持っていた、自らの羽を差し出す。
灰色。
どちらにも染まる素質を備えつつも、どちらにも染まり切ることのできなかった、彼女自身の色。
いや、染まりきることのできる者の方が少ないのかもしれない。
れいもまた、ありふれた者の一人。
それをあやめの手に握らせて。
「これには『私自身』の全魔力をこめています」
彼女固有の魔術。
それは、日常の小さな運を蓄え、好きな場面で使用できるというささやかなもの。
放ったコインが連続して同じ面が出る。
そんな取るに足りない運をいつかの使用するべき場面のためにずっと蓄えていた。
「どこかで役に立つことを地獄の底から祈っていますよ」
「そうか」
「ええ。ということは、です」
ちらとサヤの方にも視線を向ける。
「……もう誰一人としてあなたの仲間はいないんですから、協力し合わないとだめですよ」
「善処はしてみる」
「ふふ、天使様との約束ですよぉ?」
カチャリと。
微笑む彼女の眉間に銃口が向けられた。
拳銃を持つ手を、優しく包み込む。
「意外と重いでしょう? 支えてあげます」
違う。
この手が震えているのは、拳銃の重さではない。
冷たい雨のせいでも。
「けど、だめですよ。引き金は自分で引かないと。……あなたの手で終わらせなければ、意味がありませんから」
震えが強まった。
なんだ、案外可愛らしいところもあるじゃないか。
れいは思わず笑みをこぼした。
それは、本物の天使を彷彿とさせるような柔らかく朗らかなもので。
「あなたの人生は裏切りに満ちていた」
彼女が自分の心に正直になった、最初で最後の純粋な笑顔だった。
「────だから、その裏切りで私はあなたを救うんです」
一連の騒動は、天ヶ崎れいの死亡によって幕が閉じる。
彼女が起こした甚大な被害および保有していた多量の魔力から、殺害はやむを得ない状況として判断された。
捜索されたあやめの本拠地からは、エルダビューラの頭部と翡翠きょうかの体がどちらも息絶えた状態で発見された。
朝狩あやめは説明した。
全ての元凶は天ヶ崎れいであること。
それを止めたのは自分であること。
それらは、現場にいたサヤの証言によって裏付けられた。
その他、自身はネルヴァージ・ドルレスの魂と融合したが、彼女の人格のみを切り離したこと。
融合していたことで、彼女の記憶も有していて、生き返らせる魔術や魂を入れ替える魔術が存在すること。
ヴァストヴェーレの残党は日本から逃げ出したことも説明された。
「私が弱いから、きょうかは死んだ! 私が何もできない役立たずだから!!」
サヤの拠点。
全員が集まった食堂で、あかりは自分の気持ちを吐き出した。
溢れ出る涙が、机に落ちる。
「何が時を操る魔法だよ!? 仲間の命も救えずに、ましてやりんの目すら治せずに……!!」
特務班の一人である蝶月りん。
彼女の左目をあかりは時を戻して治すことができなかった。
それは、その原因となった彼女の魔術が複雑だったから。
だが、単純にそれを告げたところで、今は逆効果だろう。
そう思ったサヤは口を噤む。
「ごめん。みんな、ごめんなさい。私のせいできょうかが死んじゃった……! あの場面で何もできなかった!! あそこで死ぬべきはきょうかじゃなくて──」
「あかりのせいじゃないっすよ。……悪いのは全部、天ヶ崎れいとヴァストヴェーレの奴らっす」
「でも、でも……ッ!」
「あかり」
顔を上げる。
名前を呼んだのは。
「まり……」
「思い出して、繭園ゆらに怪我をさせられた私のことを助けたことを。あなたはあなたにできることを十分果たしてくれているじゃない」
「でも、きょうかが……」
「きょうかは無駄死にだと思ってる?」
「そんなことはない!! そんなことは……。ただ……」
「きょうかの死が意味のあるものか。それを決められるのは、彼女に助けられたあかりだけ。あかりのこれからの行動次第で、きょうかの死は無駄じゃなかったことが証明されるの。だから、あかりがするのは無力さを嘆いて自分を責め続けることじゃなく、前を向くこと。前を向いて、思いつく限りその死に見合うだけの行動を取り続けること。それが、命を繋いでもらった者の使命。それが、……誰かの死を背負うということ」
両肩に手を置かれ、まっすぐに見据えられる。
「魔女の世界にいる限り、これからも同じことが起きるわ。……厳しいことを言うと、私たちの誰かだってそうなる可能性は十分にある」
「あ……あぁ……」
「その度に残してもらった誰かが、死を背負う。背負って、その死に報いるだけの行動を取る。それが、残酷なこの世界のルール。でも、──」
まりはあかりを抱きしめる。
自分がサヤにしてもらったのと同じように。
その瞬間、あかりは気が付いた。
彼女の声が震えていることに。
「──私たちは機械じゃないから、少し泣くことくらい許されるよね。ねえ、あかり……?」
「うん……ッ! うんッ!!」
そうして、声を上げて泣く二人。
それを見て、自然と全員の目からも涙が溢れ出していった。




