3話
今日の授業も、あかりは上の空だった。
理由は当然、芽生えてしまった自分の力のせいだ。
結局、土曜日を最後に、力の発動は今に至るまで一度もなく、発動条件を調べることができずにいた。
もうこの体からあの謎の力は消え去ったのか?
そうであれば、一安心だ。
だが、その確証はない。
物であればまだいい。
だが、人間を脆くさせてしまったら。
想像しただけで寒気がする。
力のせいで悩んでしまい、最近はよく眠れていない。
眠っても、何かを崩してしまう夢を見て、飛び起きてしまうことも多い。
授業中に居眠りしなくなったことは良いことだけど。
周りからは国語の授業の件で心を入れ替えたと思われているのかもしれない。
それ自体は良いことだけど。
「浜野田さん、左手大丈夫……? 火傷したって聞いたけど」
「大丈夫~?」
「女子力アップのために料理してたらね。いやいや、慣れないことはするもんじゃないな~」
そう言っておどけて見せる。
土曜日のあの一件以降、私は左手に黒い手袋をつけるようにした。
そうすれば、もしも力が発動したとしても、最初に脆くなってしまうのはこの手袋だからだ。
これで、触れた何かを突然脆くしてしまうという事態は防げる。
手袋をつけている理由は、火傷のせいにしている。
そうすれば、みんな触れにくいだろうなと思ったからだ。
確かに男子生徒は気を遣って触れてはこないけれど、女子高生の貪欲な好奇心を舐めていた。
火傷の傷がどの程度なのか、心配する振りをしてこうして話しかけてくるのだ。
「どのくらいひどいの?」
「見せてくれれば、合ったクリームとか教えてあげられるかも」
「あはは、それはちょっと……」
待てよ。もしこれで、手袋を外して見せたらどうなる?
本当は火傷なんてしていないこの左手。
それを見せれば、────
『うっわ、浜野田さん。もしかして、それってファッションだったりする……?』
『浜野田さんって、結構イタい人だったんだね……』
あれ、意外とイケるのでは?
幻滅した彼女たちは私との接触を避け、金輪際近付いてくることはなくなるだろう。
いや、でもそれが助かるのは、きっとこの力を持っている期間だけ。
この力が無くなってもそれが続くのはちょっと……。
「あかり! ちょっとトイレ行こ」
「あ、うん」
椅子を立ったななみが私を促す。
やはり彼女は救いの手を差し伸べてくれる女神だったのだ。
「ごめんね、私ももっとガツンと言えればよかったんだけど」
階段の踊り場に連れて来られた私はひらひらと顔の前で手を振る。
「いやいや、助かったよ。ありがとね」
「みんな、デリカシーがないよね。あかりはとても辛いのに」
その言葉に胸がチクリと痛む。
彼女に嘘を付いている。
その事実は、彼女が優しくしてくれる度に牙を剥く。
ななみには真実を言ってもいいのではないか。
そんな考えが思わず頭をよぎる。
「でもその火傷、本当に料理で……?」
「え?」
「実は誰かに火傷させられたとかじゃないよね?」
「ななみ、もしかして私がいじめられていると思ってる?」
私はいじめられて火傷させられて、さっき声をかけてきたクラスメイトがその一味だと思っているだろうか。
「いや、ううん。違うんだったらいいの。でも、ちょっと心配で」
「いじめられているとかじゃないよ。これは私のせいだから」
「そっか。ごめんね、変なこと言って」
「いやいや、謝ることじゃないよ。むしろ、そこまで心配してくれてありがたい限りだよ、私の女神様」
「もう、何言ってるの」
そうして笑う私たちの前を複数人組の女子生徒が通り、階段を登っていく。
「最近、夢見てないなぁ」
「覚えてないだけじゃないの?」
「あ、でも私も見てない」
「夢を見ないほど疲れてるとか」
「私のクラスでも話題になってるよそれ」
「夢を見ないって?」
「そんなことある?」
そんなくだらない会話しながら。
「さ、私たちも行こ」
だが、ななみは彼女たちを見つめたまま動かない。
「……ななみ?」
「ねえ、あかりは知ってる? さっきの噂」
「夢を見ないとかいうやつ?」
「今、学校中で噂になってるんだよ」
「まさか、そんな集団で見ないなんてことある?」
「でも、もしも本当だとしたら何が起こっているんだろうね。気にならない?」
「みんなきっと、大人の階段を登っているんだよ」
遠くを見つめてしみじみとした雰囲気を演じながらそう言うと、ななみは吹き出す。
そんな夢を見ている見ていないで盛り上がれるなんて、みんな女子高生してるなあ。
私の気苦労を知ってほしいくらいだよ。
というか、私の悪夢を分けてあげたい。
「くそ、まさか忘れ物をしてしまうとは……」
その日の夜、あかりは学校に戻ってきていた。
週明けに小テストをやる教材を取りに来たのだ。
今日は金曜日、小テストは月曜日。
明日明後日という貴重な休みの時間を忘れ物を取りに来るために学校に来る時間に費やすのは全くの無駄。
そんなわけで、上履きを履いて、自分のクラスに向かう。
部活の生徒も全員帰った頃か。
職員室の電気はまだ点いているが、生徒の姿は見えない。
夜の学校はワクワクする。
昼間と全く違う様相を呈したこの場所からは、学校生活の場という青春弾ける雰囲気は消え失せており、静寂の一色がその場に塗りたくられている。
非日常感。
それが、気持ちを高揚させた。
だが。
ごくりと喉が音を立てる。
夜の学校を想像すると、思い浮かぶのは怖いイメージ。
幽霊だの何だのって、強く信じているわけじゃないけど、もしかしたらと。
そう思ってしまう。
でも、大丈夫だ。
今の私にはこの力がある。
そう思うと、忌々しいこの力が急に頼もしく思えてくる。
幽霊が出てきたとしても、消し飛ばしてしまえるかもしれない。
異能には異能をぶつけんだよ!
いや、その時に使えるという保証はないが。
階段を登っていく自分の足音がいやに反響している気がした。
あかりのクラスは二階の一番端の教室だ。
教室で目的の物をバッグにしまう。
帰り道の廊下で足を止め、何気なく窓から校庭を眺めた。
部活終わりにトンボで均されたグラウンド。
運動部か。
中学生の頃は何となくで運動部に所属していたが、高校に入ってからはそもそも部活そのものに所属しなくなってしまった。
所属するのが面倒くさくなってしまったという理由もある。だが、一番は高校に入学して勉強を頑張ろうと思っていたのだ。
大抵は将来に繋がらない部活よりも、将来に繋がる大学受験のため、勉強を頑張るべきだという今思えば短絡的な考え。
でも、結局学生生活全てを勉強に捧げるほどの情熱が湧き上がることもなくここまで来てしまった。
幸い、勉強ができないわけではないからクラス内でも成績は上位だ。
そのおかげで何とか自分のした選択に対し、強い後悔を覚えることはないが。
今も十分幸せな毎日を送っているが。かけがえのない友人に出会えてはいるが。
私が部活に所属していた世界線があったとしたら。今よりももっと。
そんな「もしも」に思いを馳せ、鏡に映る自分に手を伸ばす。
その瞬間。
ぴしりと窓に罅が走った。
「……!」
飛び跳ねる心臓。瞬間的に手を引く。
そんなわけはない。
だって、今窓に触れたのは、右手のはず。
まさか。
「そんな」
右手にも力が……?
その推測にめまいがする。
ふらついた体を壁に凭れさせ、そのまま滑るように床へへたり込む。
「嘘、でしょ」
一体何なんだ、これは。体の中で何が起こっている。
「……あかり?」
その声にびくりと体を震わせる。
恐る恐る自分が歩いてきた廊下の方へと目を向ける。
そこにいたのは、困惑した顔をしたさつきだった。
「さつき……あんたどうしてここに……」
「それはこっちのセリフでもあるけど。というかどしたん? どっか具合でも悪いの?」
「ちょっと立ち眩みがしただけ。少し休んだら大丈夫」
「本当か? ならいいけど。──あっ!」
「な、なに!?」
「実は夜の学校で教師と禁断の逢瀬とかしていたんじゃないだろうな……」
「いやいや、ないからないから。来週月曜日にある小テストの教材を忘れただけだから」
よかった。この様子から見るに、さっきのことは見ていないようだ。
「いやびっくりしたよ。階段登ってたら誰かの声が聞こえるもんで、ひょっこり見に来たらあかりがいるなんて」
「さつきは何で学校に?」
「え? 私の部活知らなかったっけ?」
「何だっけ」
さつきはやれやれといった様子で髪を掻き上げた後、びしと人差し指をこちらに突きつける。
「天文部だよ!」
「の割には身軽な恰好な気がするけど。もっと望遠鏡とか持ってくるもんなんじゃないの?」
「まあ、その本質は形骸化していて、こうやってたまに屋上でお菓子とか食べながら喋っているだけなんだけどな~」
「そっか、さつきもなんだかんだで青春していたんだ」
「あかりも青春しなよ?」
「私の青春は戦場にあるのさ」
「FPSだっけ? 銃を撃ち合うゲーム。私にはよくわかんないけど」
「命のやり取りの先に真の青春はあるってわけよ」
「その春、随分と赤色に塗れていませんかね? まあいいや、とりあえず立ちなよ。ほら、手を貸してあげるからさ」
そうして、彼女はあかりの右手を掴む。
──崩れていったあの橋が脳裏にフラッシュバックする。
思わずあかりは、その手を振り払ってしまっていた。
「な、何だよ……」
払いのけられた手を軽く振りながら、先程よりも濃い困惑の表情を滲ませる。
「火傷したのは左手だろ? 右手は大丈夫なんじゃないの?」
「あ、ごめん……」
「でも考えてみれば隠すくらいひどい火傷なんだろうから、パニックになるのも無理はないよ。ごめん、私の配慮が足りてなかった」
「違う、さつきは何も悪くない。謝る必要なんて、ない」
その様子を見て、さつきはふっと微笑む。
「さて、気を取り直して。せっかくだし、あかりも一緒に加わるか? みんな喜んでくれると思うぞ」
願ってもない提案だ、この力がなければ。
さつきがいる場はいつだって明るいし、きっと楽しいことだろう。
それも、夜の学校の屋上なんていう青春溢れる場所で。
「いや、今回は遠慮しておこうかな。今もう親が夕飯作っちゃってる最中だからさ。でも、誘ってくれてありがとう、さつき」
「そかそか、じゃあまたな。気を付けて帰れよ」
ああ、なんて私は友人に恵まれているのだろう。
校門まで歩いてきたあかりは最後に校舎の方を振り返る。
あの屋上ではまさに今、さつきが天文部のみんなと楽しんでいる最中なのだろうか。
「せっかく誘ってくれたのに、さつきには悪いことしちゃったな」
そう呟いて、自分の右手を見つめる。
「……こんな力がなければ」
その言葉を皮切りに、自分の中で沸々と怒りが煮えたぎってくるのを感じた。
その苛立ちをぶつけるように、右の掌を何度も重い校門に押し付ける。
だが、校門は重いまま。崩れていってしまうこともない。
一体何なんだ。何でさっきは発動した。何で今は発動しない? 条件は一体。
どうして私だけ。
堰を切ったように溢れ出てくる疑問。一度流れれば、それを止めるすべはなく。
いつしか呼応するように、頬を熱いものが流れていた。
途端に滲んでいく視界。
「あーもうクソ! ふざけんなっての!」
ガンと思い切り足で蹴飛ばす。
まったく、不自由ったらありゃしない。いつまでこんな日が続くっていうの。
そこで、視線を感じることに気が付いた。
足元で何かがこちらを見つめている。
鼻をすすり、腕で涙を拭う。
よく目を凝らしてもう一度見てみる。
そこには猫。
一匹の猫がいた。
黒の毛並みに金色の瞳。
目の前で座り込み、こちらをじっと見つめている。
時々揺らすその尻尾の動きは、紫煙をくゆらせるかのように緩慢で。
あかりはその場にしゃがみ込む。
「みっともないところ見せちゃったね」
なおも黒猫は動かずにいた。
随分と人に慣れている猫らしい。
「ごめんね。何かお菓子でも持っていれば、あげられたんだけど」
そう言って、微笑みかける。
動かずに座っているその様子を見て、無意識に頭を撫でようと伸ばしていた右手を引っ込める。
「……もう、直接撫でられないんだった。ごめんね」
それにまるで返事をするかのごとく、黒猫はひとたび鳴いた。
ふっと、口の端から息が漏れる。
このやり取りは全て、ただの鳴き声のぶつけ合い。
お互い言葉の意味などわからない。
だが、反応が返ってくる。
ただそれだけで、今の彼女は十分に救われた。
「私左手だけじゃなく、右手にも謎の力が芽生えちゃってさ」
「にゃー」
「来週からは、右手も手袋して学校に来なくちゃね。あーあ、みんなになんて言い訳すればいいんだろ。さすがに右手も料理で火傷したっていうのは流石に無理がある気がしてさ」
「にゃ~」
「やっぱり厨二病として生きていくしか選択肢は残されていないのかねえ」
「にゃ?」
「もしくは、本当に火傷してみるとか……?」
「にゃー!」
「いやいや、冗談。さすがにそんな度胸はないよ。でも、本当にどうしよう」
「にゃー……」
そんなとき、あかりのお腹が空腹を告げる。
「……あはは。相手が猫といえど、少し恥ずかしいね」
「にゃん」
「さてと、そろそろ帰りますか。じゃあね可愛い猫ちゃん、話聞いてくれてありがと。あったかくして寝るんだよ?」
「にゃ」
「よいしょっと、ってあれ」
立ち上がったその時には、足元に黒猫はいなかった。
周囲を見渡すが、どこにも姿は見えない。
なんと俊敏なことだろう。さっと現れて、慰めてくれたかと思えば、さっと消える。
きっと猫界でもモテモテに違いない。
「まあ、きっとまた会えるよね」
そう言って歩き出したあかりの顔に涙はもう残っていなかった。