2話
土曜日の昼下がり、あかりは自室のベッドで仰向けになっていた。
目の端で床に放りだした家庭用ゲームのコントローラーを捉える。左側の持ち手部分が崩れ落ち、砂のように細かくなったプラスチックの粒子が絨毯に散らばっていた。
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異変の始まりは、木曜日だった。放課後に駅前のカフェでパフェを食べたあの日。彼氏と会ったなおを見送り、これからバイトだというさつきと別れたあかりとななみは帰路に就いていた。
「あ~あ、私は一旦家に帰ってから塾だよ。ったく、めんどくさいなぁ」
「週に何回通ってるんだっけ?」
「3回。部活に入っていないとはいえ、うんざりする。ななみはこの後なんか予定あるの?」
「私もさつきと同じくバイト。まだ時間はあるから焦らなくて大丈夫だよ」
「バイトかぁ。自分のお小遣いは自分で稼げ的な?」
「うん。あかりのとこはお小遣い制?」
「そうそう。バイトは大学生になってからすればいいってさ。せいぜい甘い汁を吸わせてもらいますよ~っと」
「あはは。ってことはあかりは大学に進学するんだ」
「ん~。まあ、特にやりたい仕事もないしね。学びたいこともあるわけじゃないけど。とりあえず行っとけって親には言われてる。そういや来年受験生か、今から憂鬱だな。ななみも進学?」
「ううん。私は就職するよ」
「やりたい仕事があるの?」
「そう。今やっているバイトもそれ関連」
「具体的には?」
ななみはいたずらっぽい笑顔で人差し指を口に添える。栗色の髪が風に揺れた。
「それはまだ秘密。もしもなれなかったら恥ずかしいから! そこに就職できたら教えてあげるからそれまで待ってて」
「じゃあ、なんとしてでも頑張ってもらわないとね」
「えへへ、ちゃんと応援してね」
「そっちもね」
駅からあかりが自宅に帰るには、一つの橋を越える必要がある。特筆すべき点もない、至って平凡な橋。
二人は歩みを止め、中央の車道を時々通る車を何となしに目で追いながら、欄干に背を預ける。9月の風はまだまだ熱を帯びており、じっとりと額に滲む汗を乾かす当てにはならない。
「……ねえ、卒業しても私と遊んでくれる?」
「どうしたの? 急に」
「何か急に不安になっちゃって。彼氏ができても、結婚しても、こうして4人で集まってっていうのは高望みなのかな」
車道に背を向けたななみは欄干に腕を乗せ、遠い目で川を眺める。
「……。今みたいな頻度では、難しいかもしれないね」
「そう、だよね」
「私さ、夢があるんだ。さっきのさつきじゃないけど」
「夢……」
「その夢を叶えるために、やりたい。いや、やらないといけない仕事があるんだ。その夢は褒められたものじゃないけど、叶えないと私の気がすまないというか、なんというか。あはは、表現が難しいな。だからさ、その。うん。それを叶えるまでは、会うのは難しいかも、しれない」
ずきと胸が痛む。
口の中が乾いていく。
呼吸が少し浅くなる。
言葉を紡ぐ唇が細かく震え出す。
会えるよって。一言。ただその一言だけを聞ければ、安心することができたのに。
優しいあなたにそんな風に気を遣うように言われてしまったら、夢を叶えるのがそれこそ人生を懸けるくらいに難しいもので、会える見込みがほとんどないことを裏付けることになってしまうよ。
結局、自分だけか。
このままこの場所に留まっていたいと思っているのは自分だけか。
途端にこれまでの時間が馬鹿らしくなってくる。
わかってる。わかっているよ、そんなことが無理だなんてこと。
みんなそれぞれの道を歩んでいくなんてことは。
でも、無理でも。もう少し、惜しむような素振りを見せてくれてもいいじゃん。
それら全てを気付かれないように抑えて。抑えて。
抑え込んで、笑顔の面を貼り付けて。
「そっか。私は応援するよ、その夢。だって、ななみの夢だもん。いつか笑顔で、叶えたって報告してよ」
今はただ、ななみの良き友人としての役割を。
「……ありがとう、あかり」
「さてさて! なんかしんみりしちゃったね。行こっか、そろそろ」
そうして、寄りかかっていた体を起こそうと後ろに手を突いた瞬間にそれは起きた。
「……え?」
触れたはずの欄干の硬い感触はもうそこにはなかった。
傾いていく体。視線は青い空を仰ぐ。
あ、私これから落ちるんだ。
体重を預けられるものと思っていた思考は理解ができず、やがて停止する。
だが。
胸元に強い衝撃が走る。
ワイシャツの襟元が掴まれたのだと気づいたときには、あかりはななみに抱き留められていた。
二人は橋側に倒れ込む。
「あかり! 大丈夫!?」
焦燥しきった彼女はあかりの両肩を掴み、叫ぶように言い放つ。いくつかの通行人の足が止まり、視線がこちらに向けられる。
「怪我はない!? 痛いところは!?」
「うん……大丈夫……」
彼女のこのような表情を見たのは初めてだった。自分が落ちかけたという事実よりも。それを彼女に救われたという事実よりも、その様子に気を取られていた。優しくて穏やかな彼女もこんな表情をするんだな、こんな大きな声を出せるんだな。ぼんやりとそんなことを。
「よかった。本当によかった……」
涙を流しながら、強く抱きしめる彼女の体は小刻みに震えていた。
それを見て、自然と笑みがこぼれる。
彼女はこんなにも自分のことを強く思ってくれているのに、私はなんて自分勝手なことを考えていたのだろう。
将来、私たちが離れてしまったとしても、今ここで、この瞬間。こうしてお互いのことを大切に思っていることには変わりない。
この時間を蔑ろにしていい理由にはならない。
まったく、なんて私はわがままなことを考えていたんだ。これでは、欲しい物を買ってもらえずに拗ねた子どもと何ら変わらない。
「うん。助けてくれてありがとうね、ななみ」
あかりも彼女を抱きしめる。
けれども、その際に気が付いてしまった。
左手に残る違和感。
どくりどくりと脈を打つ感覚をはっきりと感じる。
恐る恐る、背後を振り返る。
そこには脆くなって崩れ落ちた欄干。遮りなく流れる川が目に入る。
途端に膨らみだす疑問。
欄干とは果たしてこのように崩れ落ちるものなのだろうか。
さっき、凭れていたときは、脆さなど微塵も感じることはなかった。
左手をもう一度見つめる。
もしも、これが、────私の引き起こしたものであったなら。
そんな馬鹿げたことを。思ってしまっていた。
さあっと血の気が引いていく。
頬を伝う汗がいやに時間をかけて流れていく気がした。
集まりだした群衆の声がななみの泣く声と混ざり合いながら、雲一つない青空に溶けていった。
────────
おもむろに天井へと腕を掲げ、ぼんやりとした表情で手の甲を見つめる。
疑惑が確信に変わる瞬間。
それは、今朝ゲームをしようと触れたコントローラーの持ち手が触れただけで崩れ落ちてしまった瞬間だ。
それも、左の持ち手だけ。
そして、あのときと同じく、左手に残る違和感。
偶然じゃないのか。
そう目を逸らしても、因果関係が結びついていく。それしかないと脳が騒ぎ立てる。
左手で触れたことで、物体が脆くなった。
掲げた腕をベッドに下ろし、目をつむる。
考えただけでめまいがする。
「一体何がどうなってんの……」
ただの日常を過ごしていたはずだ。
何も変わったことなどしていない。
これは何だ。能力、なのか。そんなの物語の中だけの話だろう。
もちろん憧れたことがないわけではないけれど。それこそ、誰もが一度は夢を見たことだろうけど。
別に今の私はそういった刺激のあるものを現実世界に求めていない。この穏やかで安定した生活がずっと続けばなと思っているただの一般人だ。
そんなのはゲームや小説、アニメで間に合っている。私自身が面倒事に巻き込まれるのはごめんだ。
第一、こんな力を持っているなんてこと誰かにばれたらどうする。きっと、周囲と今まで通りの関係性ではいられなくなるだろう。それが何よりも怖かった。限られた4人での時間を短くするわけにはいかない。
それに、こういうのは何かきっかけがあるはずだろう。
超常的な存在に会うとか。修行を積んだりだとか。
一体どこからやってきた。
どうして自分なんだ。
いつまで続くんだ。
もっと別な形で出会えていたら、好きになれたかもしれない。誰かを救うとか。
けれども、親友を心配させて泣かせてしまったこの力を好きにはなれなさそうだ。
あのときは誰にも怪我がなくて良かった。けれど、これからもそうである保証は?
溢れ出てくる雑多な感情を押し殺し、状況を整理する。
そうであったとして、最優先で考えなければならないことは何だ。
それはこの能力を理解し、制御すること。それが第一だ。
発動条件は?
左手で触れること。とりあえずは利き手ではなくてよかった。じゃなくて!
触れた際に必ずしも起きるというわけではなかった。
なら、触れたときにはどういう条件を満たしていた?
手のひらの全体? 部分? 目を開いていた? 閉じていた? どういう気持だった? どういう動作をしていた? 対象の共通点は?
とりあえずは。
「そこを調べるところからスタートだなぁ……」
溢れんばかりの不安に、未知を解明できる期待を一滴ばかり垂らして、あかりは気だるげに目を開けた。
薄暗い部屋の中。
女の前には折り重なって倒れている二人の女の姿があった。
下敷きとなった体の背には、深々と刺さった刃物。
状況からは、上に重なっている女が押し倒す形で刺したと推測できる。
今もその範囲を広げていく赤の絨毯を窓から差し込む月光が照らす。
充満していく鉄錆の臭い。
ぴくりともしない二人の体を見下ろし、顔をしかめながら女は口を開いた。
「……本当に死んでしまうなんてね」
なんとまああっけない最期だろう。
自分が手を下すまでもなく、こうもあっさりと。
「ね? 私の言うこと信じてくれた?」
女の背後には少女がいた。
背中の方で手を組みながら、無邪気に微笑む。
明らかにこの場には似つかわしくないその表情。
「でも、あなたが私の味方だという保証はない」
「やだなあ、私たちの目的は同じでしょう?」
こつこつと、少女はこちらに歩みを進める。
木製の床が静寂の中で、若干の軋みをあげた。
「あなたがそれを忘れないでいる限り、私たちはお友達だよ」
「……」
心が揺れているぞと、暗にそう指摘されているような気がした。
「私の目的は変わらない。一瞬たりとも忘れるものか」
「そっか、それはよかった」
そう言うと、少女は月光の差し込む窓を開ける。
寄せては返す、さざなみの音に耳を澄ましながら、夜空を見上げる。
「なら、私たちは不幸でないといけない。不幸でい続けなければいけない。だって、そうでなければ、こんな世界は間違っていると主張できないから。この世界で誰かから幸せを受け取ってしまった瞬間に、私たちの体は泡になって消えてしまうの」
「……」
「ねえ、フェレネ。綺麗な景色だね。とってもとっても、素敵な夜だね」
「そう」
「そこに横たわっている彼女は、二度とこの景色を見ることはできないんだね」
「だったら、何よ」
「そんな風にさせてしまった私たちは、この世界で幸せになってはいけないね」
言葉だけではなく、現実を脳に擦り込んでくる。
逃さないぞと、釘を刺されているかのようで。
自分が言えた義理ではないが、なんと性格の悪いことだ。
「……何を今更」
「そうだね、今更だったね」
少女の赤い瞳に映る月が歪む。
「────本当に、綺麗な夜」