24話
「どうぞ、入ってください」
そう言って、室内に入るよう促される。
東の魔女の家を出てから、あかりはサヤにマンションの一室に連れて来られていた。
ここはサヤが契約している部屋。マゴットの部屋とは内装も広さも雲泥の差だ。
だが、仕事が忙しく、戻って来る暇があまりなかったため、あの施設で生活を送る毎日だったという。
室内は、最小限の家具や家電しかない飾りっ気のない部屋だった。
彼女らしいと言えば彼女らしい。
「……お邪魔します」
東の魔女の家で再開してから二人の間には気まずい雰囲気が流れていたままだった。
それも当然の話ではある。
最後に会ったのは、施設にあやめが来訪した時。そして、例の真実を聞かされた時。
ひなたとの会話を経て、彼女に対しての憎しみはない。だが、それでこれまで通りの関係性にさっぱりと戻れるかと言われれば別問題だ。生憎とこの身はそんな素直にはできていない。
結局、何から話そうかを迷っていたところ、家に来ないかと誘われ、渋々ついてきてしまった。
断ることはできなかった。彼女の表情には疲労がありありと浮かび上がっており、そのまま消えてしまいそうな脆さや儚さがあったし、何よりひなたからの言葉が脳裏にちらついていたからだ。
だが、支えるのに適任だなんて言われても困ってしまう。自分は一体彼女に対して何ができるというのか。魔女についての知識も、経験もない自分が。
左手の中に握っていたペンダントは渡せないまま、ポケットの中へ。
流れる沈黙。
「あかりさん。私はあなたに取り返しのつかないことをしてしまいました。……本当に申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げるサヤに対し、動揺するあかり。
まさか、こんな部屋に入ってすぐに、しかも直球で謝られるとは思っていなかったからだ。
「いや、えと、その……」
「────あの後、私は協会を抜けました。だから、もうあかりさんに何かをしようという気はありません。と言っても、信じてもらえないかもしれませんが……」
「協会を抜けた……? え、抜けた!? 協会を!? どうして!?」
ベッドに腰を掛けたサヤはスーツの腕元を握りしめる。
「……私がいても迷惑をかけるだけですから」
すねたように呟いたその言葉に、目の前にいるのは本当にサヤ本人なのかを疑ってしまいそうになる。
ひなたの死後、協会を守ろうと身を粉にしてきた面影はそこにはなかった。
「みんなには話しているんだよね……?」
「はい。ひどく反対されましたが。全く、私には過ぎた部下たちでした。本当に」
もうすでにやめるように説得された後。それを経ても彼女の答えは変わらなかった。
ならば、ここで自分がすべきことは彼女をこれ以上責めることではない。
「……サヤさんは十分に頑張ったよ」
その言葉に、サヤは目を見開く。
「協会に入ってから、ずっと全力で走り続けて来たんでしょ? 頑張って、頑張り続けたら、責任も重くなって。指示する立場になって。本当はこんな立場になっていい存在じゃないって思いながらも、ひたすらに協会のために頑張ってきた。誰にでもできることじゃないと思うよ。まあ、17歳のガキンチョが何を偉そうなことを言ってるんだっていう話なんだけどさ」
誰にも労ってもらえていなかったのだろう。
内部の魔女たちからは求められるばかりで。
だから、これは部外者の自分だからこそできること。
「偉そうついでにもう一つ聞いてほしい。協会は、サヤさんの居場所だよ。いつでも帰ることのできる場所。功績をあげて、あれだけみんなから慕われて、居場所じゃなかったら一体何なの。だから、今は何も考えずに休憩して、帰りたいなと思ったら帰る。それでいいんじゃないかな?」
「あかりさん……」
「きっと、まつりたちが一番望んでいるのは、サヤさんの笑顔だから」
「どうしてここまで私に優しくしてくださるのですか? 私はあなたを騙していたのに」
あかりは隣に腰を下ろす。
「頼まれちゃったからさ」
「誰に、ですか……?」
「ひなたさんに」
「え……?」
「ひなたさんの家で木箱を見つけてね、全然開かないから時を加速させて開けてみたら、ひなたさんが死ぬ前に時が戻ったの。次の時を操る魔法を使える魔女がその力を持つのに相応しいかを確かめるために木箱に魔法をかけていたんだって」
「そんな、ことって……」
「とってもいい魔女だね、ひなたさんって。名前のとおり、とっても暖かった。みんなに慕われているのがよくわかったよ」
信じられないとサヤは驚きであかりを見つめる。
「先生……、ひなた様は他に何を……?」
「自分が協会に引き入れたことで、サヤさんをさらに苦しませることになってしまったって」
「そんなことありません!!」
突然立ち上がり、大きな声を出すサヤ。
だが、無意識だったのか、ハッとした表情をすると、すぐに座り直す。
そして、複雑そうな顔を浮かべた。
「そんなこと、あるわけないじゃないですか……」
絞り出すように呟くと、大きく息を吸い込み深呼吸をする。
次にあかりに見せた顔には、苦々しい表情は失せ、代わりに力ない笑顔が浮かんでいた。
「あかりさん、今から少しお時間をいただけませんか?」
次にあかりが連れられて来たのは都内の水族館だった。
閉園時間が近付いているのにもかかわらずやけに人が、それも家族連れが多いと思ったが、今日はどうやら休日らしい。
曜日感覚などとっくに消え去ってしまった自分に少し悲しくなる。
薄暗い館内を歩きながら、あかりは自身の過去を振り返った。
水族館に最後に来たのはいつだっただろうか。おそらくは家族に連れてきてもらったのだろう。
あの頃の自分は目の前で泳ぐ魚たちを見て、一体どんな感想を抱いたのだろうか。
そんなことなどもう忘れてしまった。
ふと、先を行くサヤの足が止まる。
気付けば館内で一番大きい水槽の前に来ていた。
大小様々な魚が混じって泳ぐこの水槽はまるで海の一部を切り取ったかのようだ。
「先生はよくこの水族館に幼い頃の私を連れてきてくれたんです」
「思い出の場所なんだ」
「はい。でも当時の私にはその優しさを受け入れることはできなかった。信じられなかったんです、自分を含めた周りの存在を」
そう言って、水槽を見上げる彼女の目はどこか遠いところを見ていた。
「それは、協会に入る前にいた場所のせい?」
少し間があり、サヤは口を開く。
「はい。両親を魔女に殺され、孤児院にいた私は同じ境遇の子どもたちと一緒にそこへ加わりました。でも、私は殺害されたその瞬間を見たわけではありません。両親が死んだ後、そう聞かされただけなんです。結局、今になっても本当に両親が魔女に殺害されていたのかは定かではありません。聞いた話をそのまま信じることができればどれほど楽だったことでしょう。ですが、生憎と私はひねくれていたんです。だから、その証拠をこの目で確かめるまでは信じ切ることができなかった」
こぽりと大きい泡が一つ、水面へと昇っていく。
昇れば、消えてしまうことがわかっていながらも、その身を止めることはできない。
諦めているのか。あるいは、それを望んで身を任せているのか。
その様子をぼうと、眺めながら。
「魔女を憎まなければならない環境でした。魔術とは、相手を殺すための手段。もはや、何が正しいかではありません。そうするしか、そう思い込んで行動するしかありませんでした。他に自分の居場所などありませんでしたから」
ひなたが言っていたとおりだった。
「あの日のことは今でもはっきりと覚えています。音も、においも、感触も。雨が降っていた日です。傘を差していなかったからとても冷たかったはずなのに、体の震えは寒さから来るものではなかったことを私は知っていました」
「あの日……?」
水槽から目を離し、こちらに視線を向ける。
彼女の潤んだ瞳に間の抜けた自分の顔が反射する。
それがわからないほど、鈍くはなかったはずなのに。
「────私が初めて魔女を殺した日です」
「……!」
「周囲から降り注ぐ称賛の声はもはや雨とは区別がつかず、私は呆然と立ち尽くしたままそれらが自分を濡らしていくのに身を任せることしかできませんでした。相手は協会の魔女。それも、かなりの地位だったようです。それを皮切りに協会との抗争は激化していきました。殺し、殺され。同じ時期に加わった仲間は全員死にました。そうして、確かな信念もないまま戦いに身を投じ、命を奪い続けた私は段々と自分の中で何かが崩れていくのを感じました。そんなときに、先生は私の前に現れたのです。いとも簡単に私を返り討ちにした先生は私に声をかけました」
『────そんな借り物の憎しみで私は殺せないよ』
「全てお見通しだったんです、先生には。そうして、私は先生に着いていくことにしました。つまりは、これまでいた場所を抜けることにしたんです。反対されましたよ。憎んでしかるべきだ。憎まないのはおかしい。裏切り者。洗脳されたのか」
なんて声をかければいいかわからなかった。
「先生が手を差し伸べてくださらなければ私は今もあの日々を送り続けていたかと思うと、ゾッとします。確実に救われていますよ、私は。だから、先生には感謝しているんです」
「サヤさん……」
「協会が私の居場所だというのなら、やはり私が戻るわけにはいきません。そのような大切な場所を、彼女たちを危険な目に遭わせるわけにはいきませんから」
複雑そうな顔を浮かべるサヤ。
スーツを握りしめている手に力が入っていく。
「……あえて言うよ。協会は組織。組織内の問題はみんなで解決するものでしょ? それに、まつりたちもサヤさんの力になりたいと思っている。それなのに、一人で抱え込んでみんなを遠ざけたら、自分たちは使えないんだ、力になれないんだって落ち込むのは当然のことだよ」
「ええ、わかっています」
十分に、と言葉をこぼす。
「……それでも、私はもう目の前で仲間が死ぬのを見たくないんです。彼女たちの思いを踏みにじっても。これが独りよがりの思いであっても」
その言葉には重みがあった。
確かな経験に基づいた重みが。
それならば、もう何も言えなかった。
そこで、あかりはあることに気が付く。
周囲にはあかりとサヤ以外の姿がない。
それどころか、水槽にいた魚たちさえも。
一切の静寂に包まれた薄暗いその場。
あかりの様子を見たサヤもどうやら気付いたらしい。
「サヤさん、これって」
「……どうやら、私たちはいつの間にか術中にはまっていたようですね」




