1話
私よりも一回りほど小さいうえ、華奢なその体躯。絹のように滑らかな肩ほどの銀髪。白のワンピース。それら全てに加えて、あどけないその表情は、相対する者の庇護欲を掻き立て、警戒心を諌めさせるだろう。
──その瞳さえなければ。
碧色の瞳は、一目見ただけで彼女が人間ではないことを理解させた。色の問題ではない。一つの銀河を内包しているかのようなその瞳は、見続けていると体が動かせなくなるような妖しげな魅力を放っていた。それは、人間が発することのできるそれを遥かに凌駕しており、故に本能的な恐怖を感じさせた。
心臓の鼓動が速くなる。脳内の危険信号に従い、なんとか目を逸らす。そのまま見続けていたら、魂を抜き取られてしまうのではないか。大げさではなく、そう感じてしまうほどの。
一度深呼吸をして精神を落ち着かせる。そして、今度はあまり瞳を見入らないように肝に銘じて彼女に向き直った。
「あなたは誰……?」
若干声が震えていたかもしれない。
「私はあなたの味方。だから安心して、危害を加えたりなんてしないから」
玉を転がすように澄んでいながらも、落ち着いた声色だ。
警戒を解かせるためなのか、なおも笑顔で語りかけてくる。
だが、人間と相対する時には決して感じることのない冷たさ、無機質さを感じた。
味方。危害を加えない。
その言葉は嘘という可能性もある。
だが、ここで自分に何ができるというわけでもなく、逃げ場所もないので彼女の言葉を信じるしかない。
警戒していると悟られることで彼女の機嫌を損ねてしまうかもしれないので、精一杯、警戒を解く。
「どうして私はこの電車に乗っているの?」
そこで、当初の疑問をぶつけてみる。人間ではない彼女なら答えを知っているかもしれない。そんな一縷の望みに懸けて。
「それはきっと、私が存在しているから」
「え……?」
要領を得ない回答に、思わず困惑の声が漏れてしまう。
「もしも、運命によってあらかじめそうなるように結果が定められているとしたら、その結果に至るまでにしてきた努力は無駄だと思う?」
「運命……?」
「答えを知るためには、その存在が運命に定められた結果を認識し、その事象が、結果に至るまでの途中なのか、結果そのものなのか。それを判別できなければならない」
「あなた、何言って……?」
揺らしていた足を止め、少女はゆったりとした動作でこちらに向き直る。
こくりと喉が音を立てる。
「でも、たとえそれが無駄であったとしても、私はあなたの努力を認めましょう。世界の誰もがそれを否定したとしても、私だけは」
瞬間、周囲が暗闇に包まれる。電車がトンネルに入ったらしい。
「困惑しているよね。でも大丈夫。今はそれだけ覚えていてくれさえいれば」
「だから、何を……?」
瞼が重い。どういうわけか睡魔が襲ってくる。釈然としない彼女の回答に対する苛立ちも意識とともに薄れていく。おかしい。先程も寝ていたから、眠気はもうないはず。それなのに集中できない。
待ってよ。聞かないといけないことが山ほどあるのに。
彼女の輪郭がぼやけていく。
「私はあなたの力になりたい。あの日、私を救ってくれたあなたの力に」
意識が、手放される。
「だから、私の努力も認めてくれるよね。ねえ、────あかり」
「ぁ……り……。……か……り。ぁか、り……」
「…………」
「あかりさん!」
「はい!!」
びくっと体が跳ねる。魂に刻み込まれた自分の名前に反応し、反射的に返事をしてしまった。
自分が頬杖をつきながら寝ていたのだと気付き、周囲を見渡す。
突き刺さるのは無数の視線。そして、くすくすと笑う声。
ここがどこで、今がどういった状況なのかを理解し、みるみるうちに紅潮していく自分の顔。
「あ、その。えっと……」
わたわたと意味もないのに忙しなく動いてしまう手。
「浜野田、あかりさん……!?」
徐々に圧をかけて呼ばれる私の名前。
語気に呼応するように国語の女教師のメガネが鈍く光っていく。
馬鹿な、おかしい。今日は私の出席番号まで順番が回ってくることはないはず。
これはそう。きっと夢なんだ。
そうじゃなければ、音楽教師じゃないのに人の名前を呼ぶときクレッシェンドを用いるはずが……。
現実逃避から意味不明なことを考え出した私の机がとんとんと叩かれる。
「あかり、63ページ! ほらここ!」
その日、少女は女神に出会う────
────────
「いやはやどうなることかと……ほんと助かったよ~~~~」
放課後、期間限定商品であるロイヤルストレートデコレーションフラッシュパフェを食べに、私たちは駅前のカフェに集まっていた。
「あはは、あのときは危なかったね」
間一髪、親友である隣の席のななみのおかげで私は一命を取り留めたのだった。
「神様仏様ななみ様! 私は今日からななみ教に入信することをここに誓います!」
「そんなおおげさな……」
正面に座る彼女に対し、私は手を合わせる。
「まあ体育の後なら眠くなるわよね~」
そう言って、幸せそうな顔をしながらパフェを頬張るのは別のクラスのなお。
「わかりみ度、マリアナ海溝より深し」
腕を組み、わざとらしく頷くのは同じく別のクラスのさつき。
二人とも私と同じ中学出身だ。三人とも別々のクラスになってしまったが、今でもこうして変わらず集まれるのを嬉しく思う。
「でもおかしいなぁ。今日は私の当たる番じゃなかったはずなのに」
「まあ、あれだけ寝てたら先生の目に付いちゃうのも無理はないかもね……」
「わ、私そんなにだった……?」
「良い夢でも見てたんじゃないの?」
「夢、ねえ」
手持ち無沙汰にスプーンを振り子のように左右に揺らしながら思い出してみる。
うーん。うまく思い出せない。見ていたような。見ていなかったような。でも、見ていたとしても幸せだったり、怖かったりしたものではないと思う。そうであれば、起きたときに影響がありそうだ。
「そういえば、夢なんて最近見てないかも」
なおはぽつりと呟いた。
「さつきは?」
何気なくそう尋ねたななみに不敵な笑みを浮かべるさつき。
「私は毎日。いや、いつだって見ているよ」
「いつだって?」
「どんな夢を?」
「──イケメンと、付き合う夢をね……!」
「「「……」」」
流れる沈黙。
そういうことではない。
こいつに聞くべきではなかったとこの場にいる全員が思ったことだろう。いや、別に上手いことを言ったわけではないのに何だその得意げな顔は。まあ、こんなやり取りももう何度繰り返したことかわからない。むしろ、高校に入ってななみという共感してくれる存在が増えただけマシなのかもしれない。
そう、ななみは高校に入ってからできた友達だ。今年度からこの学校に転校してきて、同じクラスになった。私は交友関係が広いわけではないし、積極的に友達を作ろうとも思ってはいない。だが、隣の席になったクラスメイトとの交流を全くしないわけでもない。それこそ、「人並みに」といった言葉が正しいのだろう。
その結果、どうやら性格的に相性の良かった彼女とはめでたく意気投合し、こうして仲良くさせてもらっている。少々控えめな面はあるが、先程の私のピンチのときに助けてくれたりなど、気遣いができる優しい彼女のことが私は好きだ。
「あ! たけるくん!」
沈黙を破ったのはなおの一言。
見れば窓の外には笑顔でこちらに手を振る同じ高校の男子の姿。整った目鼻立ちはさつきの夢見るイケメンというやつだろう。
食べたパフェ代を机の上に置いて急いで席を立ち、走っていく彼女の背中。それをぼんやりと見つめる。
「いつもより声が2オクターブ高かったな……」
「絶対音感!?」
「いや、また適当言っているだけでしょ。てかさつき、真顔で穴が開くほどたけるくんのことを見つめるのはよしなさい! たけるくん手を上げたままドン引きフェイスで固まってるから! 脇汗が滝のようにものすごい勢いで染みていってるから! なおが来るまでにさっきの爽やかスマイルを取り戻させてあげて!」
「イケメン、ズルイ……ワタシ、ユルサナイ……!」
「怒りで言語能力が……」
店の外へ出たなおが彼のもとに辿り着く。その瞬間、彼は先程の笑顔を取り戻……せていなかった。明らかに笑顔が引きつっている。目の端でこちらをちらちらと見ている。見ないで。
「というか、腕上げた状態で脇汗って染みていくものなんだね。初めて知ったよ……」
「うん、なんか余計な知識がついた」
「ま、まあ、なおと会うのに緊張したという風に見えなくも」
「にしてもあの量はちょっと」
「うん、いくらかっこよくてもあれは無理かも」
「なおには黙っててあげよう」
「そうだね……」
彼のぎこちない反応に気が付いたか、気が付いていないのか。なおはぐいと彼の手を引いて、二人で歩き去っていく。
彼女がこちらを振り向くことはなかった。もうすでに恋の世界に浸っているようだ。
少しの寂しさを感じながら、黙って見送る。
恋というものはこんなにもあっさりと友情を追い抜かしてしまうものなのか。
たけるくんとの時間よりも、私たちと過ごした時間の方が長いはず。
それをこんなにもあっさりと。
恋の延長線上は結婚?
なら、これが成長し、大人になっていくということなのだろうか。
完全に見えなくなった後、さつきはため息をついて肩を落とす。
「見せつけられた……!」
「多分、ここで会ったのは偶然じゃないかな」
「にしても! あんないちゃいちゃしているところを……!」
「いちゃいちゃしてた、かな……?」
「してなかったと思う。誰かさんのせいで」
「想像するだけで気が狂いそうだ! くそ! いいないいないいなー! 私だって本気を出せば彼氏の一人や二人……!」
「いや、二人はまずいでしょ」
冷静な私のツッコミは無視。暴走機関車は止まらない。
「どうしてあんたらはそんなに冷静でいられるの! 悔しくないの!?」
「幸せになっているのなら、祝ってあげるのが友達の務めじゃない?」
「彼氏、ほしくないの?」
うんざりとした顔から放たれたその言葉に私とななみは顔を見合わせる。
「うーん。いらないと言ったら嘘になるんだろうけど、積極的にほしいわけではないかな。だってまだ、自分が誰かと結婚している姿とか想像できないし」
「結婚?」
「え? この人となら結婚してもいいかなと思える人と付き合うものなんじゃないの?」
「あかり、あんたはハードルを上げすぎ。結婚なんて先のことまだ考えなくていい。恋愛っていうのはもっと気楽にするものだから」
「結婚を考えないのに付き合うの? 終わるの前提で付き合うってこと?」
「違う違う。私が言っているのは、したいから恋愛をするでいいってこと。私たちはまだ10代。恋に恋するお年頃じゃん! 結婚なんてものは成り行きですればいいの。今からそれを意識していたら、全力で恋を楽しめないでしょ」
「恥ずかしげなく真剣な顔してよくそんなことを言えるなっていうのは置いといて。なるほどね、若いうちは先を考えるより今を楽しめってことか。そういうことならまあ、理解できなくはないな」
「この人となら結婚してもいいという考えをこの人となら一緒にいてもいいに変えてみるとハードルが下がると思うけど」
私は恋愛の目的を結婚に置いていた。さつきは恋愛の目的を恋愛することに置いている。私もまだ結婚を焦る年齢ではないことを自覚しているから、積極的に恋愛をしたいとは思っていない。つまりは受け身だ。けれど、さつきは恋愛をしたいから、恋愛に対し積極的だ。どちらが人生を楽しんでいるかと言われれば、それは後者に違いない。
しかし、さつきは一つ勘違いをしている。私は結婚を抜きにしても、別に彼氏がほしいとは思っていない。現状の幸せで十分に満足しているからだ。だが、この考えも大人になっていくにつれて変わっていくのだろうか。
私も好きな人ができれば、その人との幸せを何よりも優先するようになってしまうのだろうか。
──なおのように。
ぴりと胸の奥に痛みが走り、周りに気付かれないように浅くため息を吐いた。
「ななみはどうなの?」
次に声をかけられた彼女の方にちらと視線だけを向ける。
「えっと、今の話を聞いてみて、私にはまだ早いかなって」
「恋愛に早いも遅いもない! あの人いいなとか、かっこいいなとか思ったことないの?」
「これまでに思ったことがないわけではないけど、付き合いたいとかまではないかなぁ」
「まったく、しけてんなぁこのシケガールどもめ! そんなんじゃいつまで経っても燃え上がれないぞ~?」
「そういうさつきさんは燃え上がれているんです?」
「さっきの反応を見ればわかるでしょ」
「ワタシ、ユルサナイ……!」
「ああっ、また瞳孔が開いて……!」




