9話
夢中で駆け出していた。
たちの悪い冗談だ。
何であんな冷たい反応を。
何も言わずに、連絡も取らずに二日間も姿を消していたからか。
でも、携帯は持っていなかったし。姿を消していたっていうのも、別に自分のせいではないし。
この息苦しさは、走っているから? それとも、悲しいから?
わからない。わからない。わからない。何もかも。
楽になりたかった。布団にくるまって、寝て。明日、朝に目が覚めれば、いつもと同じ日常に戻ってはいないだろうか。
途中で立ち止まって咳き込んでは、また走り出すのを繰り返す。
それを何度繰り返したことだろうか。
気が付けば、家の前に立っていた。
肩で息をしながら、汗を拭う。
寝よう。とにかく。
風呂に入り、エアコンの効いた自室で、冷たい飲み物を飲んでから。
鍵を開ける。
ようやく、帰ってきたんだ。
動悸は治まらない。
おかしい。
自分の家なのに、どうしてこんなに緊張している?
「……うちに何か用ですか?」
背後から声をかけられる。
振り向くと、買い物袋を手に持ち、怪訝な顔をしている母親がいた。
「お母さん」
消え入りそうな声で呟く。半ば無意識だった。
だが、違和感。
「私、だよ……? あかり。あなたの娘のあかり……」
つま先から、頭まで見られる。
つばを飲み込む。
どうしたの。怒るなら、早く怒ってほしい。
なんでも良いから、早く、私の存在を、認めてほしい。
だが、あまりにも無慈悲に。
「私はこの家で夫と二人暮らしですけど」
夕暮れに染まる河川敷の土手で、あかりは一人項垂れていた。
何もかもが信じられない。もう何も考えたくない。
世界に存在を否定された気分だ。
否定され、帰るべき場所を奪われた。
涙はとうに枯れている。
これから、私は一体どうすればいい。
自嘲する気力すら湧きはしない。
「ななみ。あなたの言うとおり、確かにこの世界はふざけてるよ。ふざけすぎているよ、あまりにも」
体育座りをしたまま、額を膝に押し付けるようにして。
「幸せ、だったな。あのときは。どうしてこうなったんだろう。こうなるって知っていたら私だって。……私もあのときにななみと一緒に死ぬべきだったのかなぁ」
「思い詰めてるねぇ。まあ、気持ちはわからないでもないけどさぁ?」
声が、聞こえた。
顔を上げて、周りを見渡す。
「誰も、いない……?」
いや、確かに聞こえた。
まさか。
そう思い、足元に目を向ける。
黒猫が、いた。
「あなたは、────」
「やぁやぁ。これで会うのは三度目だね。こういうの、何て言うんだっけ? 二度あることは三度ある? 三度目の正直? どっちでもいいか!」
人間と同じように、口を開けて喋っている。
声がその口から発せられている。
不思議とそこまで驚きはしなかった。
それほどにもう疲れ果てていた。
「一度目は学校で。二度目は夢の中。そういう認識で合ってる?」
「花丸大正解」
「あなた、最初から話せたの?」
「いやいや、話せるようになったのはつい最近だよ。ようやく、許可をもらえたんだ!」
「誰に?」
「それはもちろん彼女に」
「彼女?」
「夢の中で会っているでしょ?」
ああ、と思い当たる。
電車で会った銀髪の彼女。
三度目には姿は見なかったが、一体どこに行ってしまったのだろうか。
「というか、あなたは誰?」
「彼女が言っていたでしょ? 協力者を用意したって。それが私」
「そう言えば、そんなことを言っていたような」
「あなたの可愛い可愛い猫ちゃんですにゃん♡ あ、名前はスェトスルーダ・ヴァキって言います。よろしくにゃん♡ 猫の手を借りたくなったらぜひ呼んでね~!」
「スエ……何?」
「スェ」
「セ」
「スェ!」
「セ!」
「「……」」
「……言い難かったら、セトちゃんでもいいよ」
「ご、ごめん」
「ううん、いいの……」
「……ねえ、私の周りで今何が起きているの? 私はどうなっちゃうの? これから何をすればいいの?」
「ん~。今の君の状況は様々な事情が複雑に絡み合っているから、ここで全部を話したところで理解は難しいと思うな~。まあ、少しずつ順番に理解していくのがいいと思うよ。じゃあ、どうすれば少しずつ理解していくことができるか。つまりは、これからすべきこと。それをシンプルに教えるね」
「うん」
「どこかの魔女の組織に所属すること。これが一番だねぇ。あとは流れに身を任せていれば大丈夫」
それを聞いて、真っ先に思い当たったのが、東の勢力。もっと言えば、サヤのところだ。彼女たちはあかりに仲間になってもらいたがっていた。
「ん。もう大丈夫そうだね。じゃあ、そろそろ私はお暇させてもらうよ。私は私でやらないといけないことがあるからさ~。あ~めんどくさい」
「あ、いつの間にかこんなに暗く。明日からはサヤさんにお願いしてみるとして、今日はどこに寝よう。もう家には帰らない方がいいよね? なんか私のことを忘れているっぽいし」
「忘れているというか、『浜野田あかり』という人間の痕跡が無くなっているからね。そもそも、初めから世界に生まれてすらいない判定なんだよ君は」
「それは、どう、して……?」
「魔女としての君の存在が確定したからだよ。現段階ではこのくらいの知識でちょうどいいんじゃないかな? それじゃね~」
「魔女としての、私……。本当に魔女になっちゃったのか……私……。魔力だの魔術だのって、本当にあったっていうこと……?」
「あ、そうだ。一つ言っておいた方がいいことがあった」
そう言って、立ち去ろうとした黒猫は振り返る。
「君はまだ未熟な魔女だから、せいぜい気を付けるんだよ」
そう言い残し、次に瞬きをした瞬間には、もうその姿はなかった。
膝を抱えて、深いため息をつく。
「ネカフェって、制服じゃ泊まれないよね。まずは代わりの服を買うところからスタートか……。うぅ、一人ぼっちは心細いよぉ」
スカートを軽く払いながら立ち上がろうとする。
その瞬間。
「なら、お姉さんと一緒に遊ぼっか」
「……え?」
背中に強い衝撃を受ける。
突然の出来事に、体は反応できるわけもなく、あかりはそのまま坂を転がっていく。
蹴り飛ばされた。その事実に気付いたのは、転がるのが完全に止まったときだった。
立ち上がろうとするが、ズキと腰に痛みが走る。
痛みに気を取られた時。
顔の横に誰かが両足で着地する。
「お前、サヤのところの魔女だろ。見ない顔だが、体に纏わりつかせたその魔力、間違いなくあいつのものだ。こんな状況になっているのに、あいつの魔力を纏って一人で出歩くなんて、かかってこいと挑発してるってことでいいんだよな?」
「一体、何のこと……?」
「おいおい、とぼけんなよ」
痛みをこらえながら何とか見上げると、そこには女がいた。
長い髪を後ろで束ね、スリットの入った長いスカートを履いている。
会話の流れからして、おそらく魔女なのだと。そう思った。
片腕で、襟元を掴まれ、体ごと持ち上げられる。
とてもその細腕で持ち上げているとは信じがたい。
「ぐ、ぅ……」
「ほら、言えよ。お前らが殺したんだろ? 東の魔女を。だから私は反対だったんだ。あいつのことを受け入れるなんて」
「殺してなんて、ない……」
「ふん」
投げ飛ばされたあかりは、そのまま地面を転がる。
そして、女が聞こえないほどの声で何かを呟いたかと思うと、犬のような体躯をした蒼い炎に包まれている何かが3匹地面から浮かび上がる。
「おい、立てよ。まだ何にも始まっていないだろうが。戦うか逃げるかしないと、このまま食い殺されちまうだけだぞ? ま、裏切り者の末路としてはそれもふさわしいといえば、そうなのかもしれないが」
あれが、魔術というものなのか。何かを召喚した?
命の危機に瀕している状況なのはわかる。
しかし、心身ともに憔悴しきっている状態では、何もできない。
そんな体力も気力もどこにも残されていなかった。
協力者だとか言っていた先程の黒猫も、周囲にいる気配はない。
女が指を鳴らすのを合図に、こちらに迫って来る三匹の何か。
それをあかりは立ち上がることもせず、ぼんやりと眺めていた。
ああ、ここで終わるのか。
結局、何も知ることができず、振り回されるだけで終わるのか。
でも、もうこれで苦しむことはなくなるんだよね。
だが。
間に割り込むように、黒い影が舞い降りた。
影はそのまま流れるように三匹の間を縫うように駆け抜ける。
その後、影の動きが止まるのと同時に、それらは全て霧散した。
月明かりに映し出されたのは、紺色のセーラー服を着た少女だった。
手に持った木刀は、どういうわけか淡い光を放っている。
姿に見覚えはない。
敵か、味方か。それを図りかねていると、少女はあかりを軽々と脇に抱える。
「え! ちょ、え!?」
「あいつの魔術は、私と相性が悪い。だから、ここは引く」
その声は、どこかで聞いたことがあるような気がした。
途端に、体が強く揺さぶられる。
気付いたときには、あかりは少女と橋の上にいた。
「と、飛んだ……!?」
「喋らないで。舌を噛むから」
口を閉じ、必死で目をつむる。何度も、何度も体が揺さぶられる。
これは、飛び移っているんだ。
自分と同じような体格の少女が、自分のことを脇に抱えて。
そんなことが本当に。これが、魔術だというのか。
「ここまで来れば、もう大丈夫」
そう言って、地面に降ろしてもらう。
目を開けると、景色は先程から一変して、街中の路地裏だった。
「私のことを、助けてくれたの……?」
「当然、あかりはもう私たちの仲間だから」
「え?」
「仲間、でしょ? 違うの?」
そう言って、少女は首を傾げる。
「あの、名前を聞かせてもらっても……?」
「黒瀬なな。お昼にも会ってたけど、もう忘れちゃった……?」
囁くような。それでいて、抑揚のない特徴的な話し方。
確かに声は聞いたことがあるんだけどなと、今度はあかりも首を傾げる。
「あ」
「思い出した?」
「あの、ご飯が山盛りだった……!?」
「よかった。覚えてくれてて嬉しい」
そうだ。正面に座っていた山盛りのご飯で顔が見えなかった誰かの声。
あのインパクトが強すぎて、顔の印象があまり残っていなかった。
手に持っていた木刀をいつの間にか縦長の収納袋に入れ、紐を肩に引っ掛けて持ち歩いている。
見た目は完全に部活帰りの剣道少女だ。
「でも、よく私があそこにいるってわかったね?」
「嫌な予感がするから、あかりのところに向かえって、サヤ様が」
「あのままだったら、本当にどうなっていたことか……」
「とりあえず、人通りの多いところに出よう」
「あ、うん」
「あいつも、人が多いところでは、襲えないから」
「襲えない?」
「あかりは、東の魔女の方針を知ってる?」
「えーと、何だっけ?」
「魔女による人への被害を拡大させないこと」
「あーそんなこと言ってたような」
「だから、襲えない」
「ん? ちょっと待ってよ。そうなると、さっきのは東の勢力に属している魔女ってことになるけど……」
「そういうこと」
「いや、そういうことって……」
そこで、ななのお腹が盛大に鳴った。
「「……」」
「……あかりは食いしん坊だね」
「鳴ったのはあんたのお腹でしょ! あんな山盛り食べてたじゃん! 話もそうだけど、あの量のご飯はどこに行っちゃったわけ!?」
「ちょうどこのあたりに行きつけのラーメン屋があるから、連れて行ってあげる。私はお腹が減っていないけど」
「……もしかして、それが食べたくてここに降りたりした?」
「そそそそんなわkっけなんなんななな」
「このうえなく動揺している!」
馬鹿らしいやり取り。とはいえ、そんなやり取りのおかげで張っていた緊張がほぐれ、空腹が首をもたげてきたのは事実だった。
「……いいよ。ご飯食べに行こう」
ななの目がパアッと明るくなったかと思えば、これみよがしに腰に手を当て、誇らしげに胸を張る。
「安心しなさい。今夜はこの先輩が、新米さんに奢ってあげるから」
言い切った後、ななのお腹が再び鳴る。
「……あかりは食いしん坊だね」
「ループしてるから! これ続けていたらきりがないから!」




