第一話:ボトルレターといつかの彼女
病室から飛び降りても死ねなかった。
それもそうだ。二階から飛び降りたところで、せいぜい骨折するぐらいだろう。
良かったのか悪かったのか、僕は肩と膝の打撲だけですんでしまった。
ふとこの地面に飛びこむ前までいた病室に目をやる。
家族や先生とも今日でお別れか。
お化け屋敷のように見える病院をゆっくりと後にする。
夜明けはもう近かった。
冷たい道路を裸足で歩く。
意外と気持ちが良いものだ。
しっとりとした表面をよろけるように歩く。
この場を通りかかった人はきっと僕の事をお化けだと勘違いするだろう。
海岸にそって伸びているこの道路は、いったいどこまで続いているのだろうか。
果てしない事このうえなしだ。
高校を卒業する今年の夏、僕は癌を発症した。
医者は本当の事は言ってくれなかった。
いつもいつも「もうすぐ直るから」ばっかり。
遂には唯一信頼していた親までも同じことを言うようになった。
だから僕は病院を出たのだ。
高校を卒業する前に、信頼できない大人たちから卒業したのだ。
もう頼れるものなど何もない。
やがて海が見えてきた。
海はどこまでもやさしいものだ。
包み込むようにむかえてくれる。
あの忌まわしい病室から見える海を眺める事が毎日の生きがいだった。
薄暗い空に翻弄されるように、海も静かだ。
海に着いた。
ここにくるのはいつぶりだろうか。
確か最後にここに来たのは入院する少し前だったような気がする。
――ここで僕は、女性を見た。
ある日の昼下がりのことだった。
細い手足の綺麗な女性。
ワインボトルをずっと眺めていた。
僕はその姿を不思議に思い、勇気を出して声をかけた。
「んー……事件捜索ですよ」
そう彼女は答えた。
事件という事は、凶器か何かを探しているのだろう。
「何か良い物ありました?」
「んー、今のところゼロかな?」
もしかして海に流されてしまったのではないだろうか。
そうならば見つけるのは困難だ。
砂がかぶさって、ほとんど見当はつかないはずだ。
「……ごめんね? 今日が初めてなんだ」
「あ、そうなんですか。良い物が取れたら良いですね」
そう言って僕は細かい砂を素手で掘った。
僕も協力したかった。
細かい粒子が気持ちいい。
そんな僕を見てか、彼女は軍手を分けてくれた。
この細かい砂の気持ちよさを味わいたかったから、あえてつけなかった。
でも彼女の優しさがもったいないから、掘っていない方の手につけた。
それから半日くらい掘り続けたが、何も出てくるものは無かった。
「あ、そのもう時間ですよ!」
「あれ? ああ、もうこんな時間ですか……」
ポケットの中に入っていた懐中時計を見ると、もう夕方になっていた。
腰を上げると、ちょうど彼女の顔があった。
下手に目をそらす事ができず、しばらくはお互いにみつめあうことになった。
彼女の顔は夕日に照らされて赤くなっていた。
そんな彼女から目を逸らしてくれたおかげで、僕はやっと緊張がほぐれたような気がした。
「あの、これは?」
彼女が何かを拾って僕に見せてきた。
それは、僕の書類だった。浜風に飛ばされていたのだろうか。
濡れていたら大惨事だった。
感謝の気持ちでいっぱいになった。
「ああ、これね」
彼女に見せながら説明する。
「僕は、癌なんですよ。しかも末期だから、ステージ四だっけ?」
あまりに重い話だからか、彼女は黙ったままだ。
「ここに入る前に何か良いこと無いかなあって思っていてね、そしたら君がいたんだ」
「そうなんですか」
「うん。最初は文字でも書いているかなって思ったんだけど、そしたら君は浜探しをしているじゃない」
「でも、初めてですよ」
「僕もですよ」
そう言って笑った。
彼女も僕につられて笑った。
なんだかその瞬間はひどく幸せだったと思う。
「私、多分貴方の事が好きです」
その言葉に僕は驚いた。
まさか、初対面でそれはないだろうと。
多分、彼女は僕の事ではなく、僕とのこの瞬間が好きなのだろう。
「そうですか? 僕も君と一緒にいると楽しいですよ」
僕がそう言うと、彼女は戸惑ったような表情をした。
それがなんだか申し訳なく思い、僕はそこを離れた。
一応小さく手を振ると、彼女はその何倍も大きく振り返してくれた。
この瞬間が、もっと続けばいいのに。
素直にそう思えた――。
あの時のような希望は今はひとかけらも持っていない。
癌の治療で精神は崩壊しそうになるし、頼れる人もいない。
海だけが、こんな僕をやさしく抱いてくれるのだ。
波のリズムは心を穏やかにさせ、磯の匂いは懐かしささえも感じる。
そんな波が行ったり来たりしているところにそれはあった。
綺麗なワインボトル。
あの日を思い起こすような、ボロボロラベルのワインボトル。
惹かれるようにそこまで走り、ただ真っすぐそれをみつめた。
すると中に紙が入っている事に気付いた。
それが出ないようにコルクでとめてある。
僕はまずコルクを力いっぱい抜き、中に入っている紙を取り出した。
勉強に使うようなルーズリーフに、黒いボールペンで書きなぐるように書かれた字。
そこにはたった一言、『私の恋人になってください』とある。
字体からこの手紙の主は女の子だろうか。
不意にあの日の彼女を思い出した。
長い手足の綺麗な彼女。
もしかしたら、あの後彼女が書いたものだろうか。
それならば話は早い。
答えは『はい』、だ。
彼女なら僕の事もなんとなく分かってくれるような気がした。
でも、この彼女はどこの誰だろうか。
宛先や名前さえも書いていない。
僕は微かに輝いたかのように思えた希望のかけらを心の奥に隠した。
……無理だ。もう一生会えないだろう。
諦めかけたその瞬間、空の色が変わった。
朝焼けの太陽があの日の夕焼けに重なった。
キラキラ光る海も、僕を後押しするかのようだ。
そうだ。やるしかないんだ。
もう後が無い事は分かっている。
体内の癌が僕を蝕んでいるのは事実だ。
ならば最後に、自分に区切りを付けるためにも、旅立とう。
残り少ないエネルギーを使い果たした時、後悔だけは残したくない。
ワインボトル越しに太陽を見た。
どうどうと昇っている朝日に、勇気を感じた。
そして僕は、海を出た。