第十六話:火照った体に冷たい甘さ
大通りを行くと、その一角に探していた銭湯を見つけた。
『スーパー正美』
そう書かれた看板を横目にそこへ入る。
実は銭湯は初体験。
たまに見かける事はあっても、中に入ろうとは思わなかった。
その独特の雰囲気というか、庶民的な雰囲気にどこか慣れるのが難しかった。
番台のおばあさんは本当にベテランという感じで、変にオーラをまとっているように感じた。
とりあえず前にいる男のお客さんのまねをして五十円玉を差し出す。
すると四十三番の鍵を渡してもらえた。
おばあさんが柔らかく微笑んできたので、一応会釈で返しながら奥へ進む。
着替える場所につくと、急に暖かい空気に包まれてハッとした。
その直後には扇風機の冷たい風にやられ、またビクッとしてしまった。
キョロキョロしながら自分の番号を探す。他人から見たら不審だろう。
やがて見つけた番号のところに服を脱ぎ入れ、浴室へ向かった。
浴室への引き戸をガラガラと開けると、蒸気が顔を襲った。
「あぁ、風呂だ……」
そう心の中でつぶやいた瞬間だった。
「ヒッ!」
頭の上から水をかぶり、間抜けな声を出してしまった。
一瞬で体は震えだした。
「は? え?」
頭上を見たが誰もいない。
芸人のネタじゃああるまいし、これは一体どういうことなのだろう。
それ以上に、それを口々にしながらもどこか楽しそうにしているおじいさんたちが微笑ましかった。
「お兄さん、こっちにきんさいやぁ」
ガリガリのおじいさんが手招きをする。
僕はそれを見て自分を指差すと、おじいさんは大きく頷いた。
「あんまり見ん顔じゃけど、どっから来たんね?」
僕はかけ湯をしながら返事をした。
「ちょっと言えないです。さすらいの旅人ですので」
少々恰好つけたが、『病院から逃げ出してきた』とは口が裂けても言えない。
さすらいの旅人というのを聞いてか、おじいさんは大きな口をいっぱいに広げて笑い出した。
「ほうかほうか。ほんなら今の、初めてか?」
今の、というのは頭上から降ってきた水の事だろうか。
という事はこの銭湯には昔からこんな心霊現象が起きていたのだろうか。
「あ、はい。初めて、ですね」
ゆっくりと湯に入りながら答えを返す。
足から入ったのだが、やっぱりこういうところの湯は温度が高めに設定されているのだろう。疲れた体にはよくしみた。
「ほんなら、どこまで行くんかえ?」
「そうですね……自分の満足するまで、ですかね」
答えになっていないのかもしれないが、これが本音だ。
彼女に会う。
それが僕のたったひとつの願望であり、希望なのだ。
それを叶えるまで僕は死ねない。死にたくない。
「若いもんはいいのぅ……おうそうじゃ、今日はどこに泊まるん?」
「そうですね……」
僕は口が止まってしまった。
そう言えば泊まる所なんてない。
仕方なく最低限の答えを選びだしてこたえた。
「野宿……ですかね」
その言葉におじいさんは目を丸くし、「ほぉ~」と腕を組んだ。
「ほんならうち、来るか? おばあさんと二人暮らしで毎日ちいと寂しくてのぉ」
これはラッキー!
最初に出会ったおばあちゃんの時みたいに色々助けてもらえるかも!
僕は迷わず首を縦に振った。
「牛乳コーヒー飲んでまっとるからよぉ」
そう言い残して勢いよく風呂を出た。
意外と元気なんだな。いいことだ。
牛乳コーヒーって、コーヒー牛乳の間違いだろ。
僕は湯を手ですくい、顔を洗った。
それから数分後には風呂を出て、全裸の大人たちに混ざって体を拭いた。
来た時と同じ服をもう一度着た時には生温かくて気持ち悪かった。
のれんをくぐると右手に小さな冷蔵庫みたいなものがあり、その更に奥におじいさんは座っていた。
股引に腹巻を想像していた僕は愕然とした。
なんと皮ジャンにジーパンをはいて足を組みながら牛乳瓶を傾けていたのだ。
あごが外れそう、というのはきっとこの事なのだろうと感じた。
おじいさんに近づくと、すっと立ってポケットに手を突っ込んだ。
「かっこえぇ~……」
多分、顔を隠せばモテモテだろう。顔を隠せば。
「お兄さんも一本飲むか?」
突っ込んでいた方の手からは小銭が出てきた。
「あ、すみません」
「一番のおすすめは牛乳コーヒーじゃけん」
「あ、そうっすか」
だからコーヒー牛乳だろ。
と突っ込みをしたかったが、それをしてしまうと骨が折れてしまいそうなので、代わりに作り笑いをした。
僕と同じくらいの女性が先に買っていって、しかも目の前で飲まれたので、買おうにも買いにくかった。
その女性が走り去っていったのを確認して、僕はコーヒー牛乳を買った。
だがその時、目の前に入ってきたのは『牛乳コーヒー』の文字だった。
「ほんとに牛乳コーヒーだったよ……」
誰にも聞こえないような小声でそうつぶやく。
「はい、百二十円ね」
番台のおばあさんが手のひらを出してきたので、そこにちょうど乗っけた。
「はいありがとうねぇ」
僕は『牛乳コーヒー』を片手におじいさんの元に戻った。
すぐに蓋を開け、一気に流し込む。
風呂上がりの牛乳コーヒーはまた各段に美味しかった。
火照った体に流れ込む冷たい甘さ。
これは癖になりそうだ。
飲み干すと瓶を返し、僕はおじいさんにお礼を言った。
おじいさんは嬉しそうに微笑んで言った。
「孫がもう一人増えたみたいじゃ」
さて、前篇・後編にわけないで欲しいと言ったのはどこのどなたさんだったっけ……。