目の前に現れたのは、記憶喪失の妻でした
チリンと鈴の音のような、小さく、微かに優しい音がしたような気がした────・・・
「あれ、お前、買い物に行ったんじゃなかった?」
俺が振り向くと、買い物に行くと言って出て行ったはずの妻がそこに座り込んでいた。
「・・・?」
どうも様子がおかしい。よく見てみれば、いつもと何か雰囲気が違う気がする。何が違うとはっきりと口にできないので、そんな気がするだけかもしれないが。
それに、俺の言葉に反応がないし、どこか不安そうな、縋るような目で俺のことを見ている。
俺は不思議に思いながら少し首を傾げ、「どうした?」と口を開こうとしたときだった。
「ど・・・どちら様、ですか・・・?」
妻の口からそんな言葉が出てきた。驚いて、俺は反応に遅れる。
「・・・・・・えっ・・・・・・?」
こうして、俺と記憶喪失らしい妻の不思議な一日が始まった。
俺と妻はリビングで向かい合って座っていた。
「えーっと・・・俺は松下 律治。お前の夫だよ・・・って、そもそもお前、優歩で合ってるんだよな・・・?」
俺は心配になって、目の前に座る妻らしき女性に確認をとる。
「合って、ます・・・井浦 優歩です。ここでは、松下 優歩と名乗った方がいいでしょうか?」
妻は、やはり俺が知っている妻と同一人物らしいが、虚ろで静かすぎる雰囲気を纏う彼女を妻だと思うには、少し時間がかかりそうだった。
「・・・その、お前は・・・どこまで覚えてるの・・・?」
何とも言えない沈黙が流れそうで怖く、俺はなんとか質問を口にする。
「どこまで、ですか・・・正直なところ、私は何も覚えておりません。自分の名前と、天の部族の者だということだけ・・・ここは、天の部族領でしょうか?」
「あぁ、ここは天の部族領だ。そうか・・・それ以外は何も覚えていないということでいいんだな?」
「はい」
優歩のさらさらとした茶色く透き通るような髪が、虚ろな彼女の雰囲気を一層増したものにさせる。
優歩はいわゆる美人という枠の人だ。その美しさが、今は儚さを助長させており、黙っていると今にも消えてしまいそうで怖い。
「うーん・・・ちょっと、外に出てみる?そしたら、何か思い出すかも」
俺は少し考えて、そう提案してみた。
すると、先ほどまでほとんど目も合わせず、下を向いていた優歩が顔を上げ、不安そうな表情で俺のことを見た。
外に出て、知り合いにでも会ったらどうするの。
そんなふうに訴えているように感じた。
「大丈夫。俺がついてるし」
俺は安心させるように笑みを浮かべてそう答え、まだ少し不安げな優歩を外へと連れ出した。
まずは近所をぶらつきながら、俺は自分のことを話した。
俺と優歩が知り合った理由はもちろん、一番重要な天の部族領の領主だということも話した。
優歩はずっと、無表情だった。少しも何の反応も示さない。
領主だと言えば少しは何か反応があるかと思ったが、まったくない。
まぁ、苗字からその可能性も考えていたのかもしれないが。
天の部族領の者だという認識があるのなら、天の部族領をどの一族が司っているかくらいは覚えていてもおかしくない。
沈黙になるのが怖いとか思っておきながら、結局は沈黙が流れるようになってしまった。俺がいろいろ話ができるような人間じゃないことが原因だろう。
「ねぇ、律治、さん」
「呼び捨てでいいよ。呼び捨ての方が今は慣れてる。敬語とかもいいからね」
意外にも優歩がその沈黙を破った。
どう呼べばいいかわからないと困惑した様子の優歩に、俺は呼び捨てでいいと伝える。
「なんだか、人に見られているような気がするわ」
俺は優歩にそう言われて、周りに目を向ける。
「あぁ・・・ま、俺は領主だし。それに・・・憧れの夫婦ランキング一位らしいからね、俺たち」
自分で言うのはなんとも恥ずかしいのだが、実際にそうなのである。
その証拠に、俺たちを見る人々の目は素敵だとか憧れだとか、そういう目をしている。悪くはない注目なので、俺もその目にはもう慣れたというもの。
「私たち、結婚してどれくらいなの・・・?」
「まだ一年目だな」
優歩は俺の答えを聞いて、「そう・・・」と目を伏せる。
いちいち優歩の仕草が気になる俺だったが、深くは何も言わなかった。
「そうだ。何か食べるか?」
俺は優歩を連れて、よく行く団小屋へと入った。そして、優歩が気に入っているみたらし団子を頼む。
「はい、お待ちどおさま」
「ありがとうございます」
優歩は女将さんに礼を言い、優しく微笑む。その表情を見て、俺は少し目を見張った。
だが、優歩はすぐに先ほどまでの静かな雰囲気を纏い、運ばれてきたみたらし団子を、ゆっくりと口に含んだ。
「どう?お前、ここのみたらし団子がお気に入りだからさ」
「おいしいです・・・」
俺が訊くと、優歩はどこか感情を押し殺したように答えた。
普段の優歩なら、子どものように表情を緩め、幸せそうに食べるのだが、目の前の優歩はそうはならない。そうしないようにしているのだろうか。
団子を食べ終わり、店の外へと出て、俺は優歩に一言声をかけた。
「ちょっとごめんね」
そう声をかけると同時に、優歩を抱き上げ、跳躍する。屋根の上をどんどん跳んでいく。
優歩は何が起きたのかわからないというように下を見下ろしながら、落ちないようにキュッとオレの首に手を回す。
その様子を見ながら、可愛いな、なんて俺は思っていた。
「よっと・・・」
俺は、誰もいない高台までやって来て、優歩を地面に降ろした。
「ここだと、天の部族領が見渡せるでしょ?」
俺が優歩にそう声をかけると、優歩は下へと目を向ける。
「・・・どうして、ここに?」
「ん?天の部族領を見渡してたら、何か思い出すかなって。ま、思い出すまでいくらでも付き合うよ」
「どうして、そこまでするの・・・?」
「だって、お前は俺の大事な奥さんだからね」
「でも、私たちは政略結婚なんでしょ?」
優歩の言葉に、俺は優歩の方を見た。
優歩は真剣な表情で俺のことを見ている。
「たしかに、政略結婚だけど・・・そこに愛はあったよ。ちゃんと、俺たちは心を通わせて、結婚まで踏み切った」
俺は優しく微笑んで、天の部族領を見下ろす。
「領主の妻になるってのは大変なことだからね。お前の負担を少しでも減らしてやりたいと思ってる。大事だから。何を差し置いても、俺はお前を大事にしたいんだよ。誰よりも、愛してるんだ。でも・・・」
俺はそこで言葉を区切って、再び優歩の方に目をやる。
そして、優歩の頭をポンポンと撫でた。
「お前を一人にしてしまって、ごめんね」
「っ・・・!」
優歩は涙をこぼしていた。ずっと我慢していたのだろう。優歩が何度自分で涙を拭っても、それは止まらなかった。
俺はそんな優歩の頭を、優しく撫で続けた。
「っ・・・いつから、気づいてた、の・・・?」
優歩は声を詰まらせながら訊いてきた。
「わりとさっきだよ。確信したのは、本当にさっき。お前、高所恐怖症なのに、怖がらなかっただろ?」
優歩は高所恐怖症だ。
だが、俺が何度も抱いて飛んでいたから、最近はおさまってきていた。
「あぁ・・・そっか・・・もうすっかり、律治と一緒に跳ぶのが怖くなくなっちゃってたからな・・・」
「あとは、団小屋の女将さんに笑いかけていたこと。そこで気づいたけど、お前が人に見られてる気がするって言ったのは街行く人たちじゃなくて・・・政略結婚に反対していた人たちに見られている、って意味だったんだろ?」
俺の言葉に、優歩は困ったように笑った。
やはり、そういうことか。どうりで、俺の答えに反応が薄かったわけだ。
「あれだけの視線は久しぶりだったから・・・でも、どうしてわかったの?私が一人になったって・・・」
「それは簡単だよ。時折、お前が俺に向ける視線。懐かしむような、泣きそうな、そんな視線を向けられたら、わかったよ。俺は、お前を置いていってしまったんだろうって・・・」
ようやく涙が止まってきたところだったのに、優歩はまたくしゃりと顔を歪めた。
そして、俺を抱きしめた。
「この頃の私たちは仲が良かったけど、あるときから私たちは必要最低限の言葉しか交わさなくなった。だから、私は不安だった。もう、あなたには愛されてないんじゃないかって。それ以前に、政略結婚だったから、もともと愛はなかったのかもしれないって・・・そんな矢先で、あなたは他の部族との抗争で死んでしまった・・・」
俺は優歩の話を聞きながら、優しく抱きしめ返した。
「俺がお前を愛していないわけないよ。愛さなくなるはずがないよ。ただ、俺は器用な人間じゃないから・・・お前を護ることで必死だったのかもしれない。何が何でも、お前が生き残れる道を進もうとしたのかもしれない。そのために、俺は自分の命を投げ打ったのかもしれない」
未来の俺が何を考えているかなんて、今の俺にはわからない。
だけど、俺の行動の根底には、優歩を護るという確固たる信念がある。それはどれだけ年を重ねようと、曲げるはずがないものだと俺にはわかる。
「でも、お前を傷つけてちゃ世話ないね。許してくれとは言わない。ただ、せめてもの償いだ」
俺は優しく微笑んで、首に下げた鈴の付いたお守りを服の中から出す。
「このままだと、お前は元の時代に戻る。だから、今度は俺が────・・・」
優歩は俺の言葉を聞いて、目を見張った。
こうして、俺と優歩の不思議な一日は終わりを告げた。
私は、気づくと自宅に戻っていた。
そして、目の前には、今から抗争に向かおうとしている夫がいた。
あのとき、どうして私は何も言わずに送り出してしまったのだろう。
そんな想いが出てきた。
これは、最後のチャンスだ。過去の夫がくれた、最後のチャンス。
「っ・・・律治!」
私が声を張ると、少しだけ律治がこちらに視線を向ける。
それと同時に、私はうしろから抱きついた。
律治がぎょっとしたのを感じる。
「行かないで・・・」
このチャンスを逃して、また一人になったあの気持ちを味わいたくはない。
私は声を震わせながら、絞り出すように口にした。
「お願い・・・行かないで・・・私を、一人にしないで・・・っ」
必死だった。
何でもいいから言わなくてはと。引き留めなくてはと。
「私は、あなたを愛してるの。だから、失いたくないの。私だって、あなたが大事なのよ・・・」
同じ気持ちなら、私の気持ちがわかるでしょうと。私は涙をこぼしながら伝えた。
「・・・優歩」
低い声に、私はビクリと肩を揺らした。思わず、律治を抱きしめる力を緩める。
怒ったのだろうか。
たとえ、どんな理由があろうとも、行かねばならないのだと。それが、領主の務めなのだと。
だが、どうやら違ったようだ。
律治は私の方に体を向けると、私を抱きしめながらキスをした。
「参った。お前に泣かれるのは困る」
そう言った律治の顔は、昔と変わらない優しい表情だった。
「でも、ごめんね。俺は行くよ」
だけど、やはり行くのだと律治は言う。
私はその言葉に顔を歪めた。
そんな私のことを、律治は優しく抱きしめた。
おかげで、律治の顔が見えない。
「この抗争が終わったら、どこか旅行に行こうか。たまには、仕事を下の者に任せて羽を伸ばしてもいいだろう」
ただ、優しい声は私の耳元に心地よく届いた。
「帰ったら、お前のぶり大根が食べたいな。用意しておいてくれるか?」
私はその声に、ポロポロと涙をこぼした。
「わかった・・・用意する。用意して待ってるから・・・ずっと、待ってるから」
だから、ちゃんと帰ってきて。
そんな想いを胸に、私は静かに答えた。
その答えに安心したのか、律治は私を離す。
「いってきます」
昔、律治は言っていた。
「いってきます」という挨拶は「おかえりなさい」とセットなのだと。
だから、「いってきます」と言ったからには、「おかえりなさい」を聞くために、ちゃんと帰らなければならないのだと。
「・・・いってらっしゃい。気を付けて」
大丈夫。律治は、約束を破る人じゃない。
一度言ったことを、曲げる人ではない。
あのときは聞けなかった、「いってきます」を今度は聞くことができた。
それならば、帰りを待とう。
そして、帰ってきたらちゃんと言うのだ。
────おかえりなさい、と。