「初恋でした」といつかは笑って話すのでしょう。
ある娼婦が客の男に恋をした。真剣な恋だった。
男はそこそこ裕福な商家の跡取りだった。
店を継いだら、女を身請けすると約束をしていた。
だが、ある日を境に男の来館がぷつりと途絶える。
女は心配した。手紙を送ってみてもなしのつぶて。周りの商売仲間たちは捨てられたのだ、諦めなさいと諭した。客に本気になるなど間抜け、と馬鹿にする者もいたが、ほとんどが女を心配してのことだった。商売女に本気になるはずがない。遊ばれたんだよ。可哀想に。早く忘れなさい。そう諭した。
しかし、それから一年後、ひょっこりと男が姿を見せた。
いつもきちんとした身なりをしていたのに、どこか薄汚い。
何があったのかと尋ねれば、悪い男に騙されて店を乗っ取られ、借金まで背負わされたのだという。もう自分は死ぬしかないが、愛するお前と離れるのは辛い、一緒に死んでくれないか。男は女に心中を持ち掛けた。女は頷いた。
二人で手をとりあい向かうのは蜜月のときに寝物語に話した湖。いつか女を身請けしたら二人で見に行こうと誓い合った場所。
湖畔にあった小舟に乗りゆらゆらと漕ぎ出す。
月明かりが、水面へ映り明るい。
男が用意した薬を差し出してきた。これを飲めば眠るように死ねるという。緑色の宝石のような欠片。女はてのひらに転がしながらうっとりとそれを見つめている。
風が吹いた。
小舟が揺れて、目の前の男に影が差した。
(本当にいいのかしら)
女は知っていた。一年前、男が来なくなったのは別の娘と婚姻を結び家庭を持ったから。男の家よりも随分と格上の貴族のお嬢様だという。だから、男は女の元へ来なくなった。妻に遠慮して。しかし、元々遊び人の男はすぐに悪い癖が出て、半年もすればまた遊び始めた。女の元ではなく新しい娼婦と情を交わし懇ろの関係になった。それが妻にバレて咎められ離縁。妻の家の圧力で店は傾き、借金を重ね、ついには破産し路頭に迷う始末。もう死ぬしかないが、一人で死ぬのは恐ろしい。そこで女のことを思い出した。自分にぞっこんだった女なら同情し一緒に死んでくれるだろう。優しく抱きしめてくれるだろう。
最低な男。最悪な男。――そんな男のために命を捧げてやるのか。
女は今になって躊躇いを覚えた。
だが、それも一瞬のこと。再び月が男を照らしたときには迷いはもうなかった。
女は男を愛していた。だから、一緒に死んでほしいと言われて断る理由がなかった。
数日後、寄り添う二人の遺体が発見された。
話題になった恋愛小説をアナベルも話のネタにと読んでみたが、恋のために命までも捧げる健気さに笑いたくなった。
ただ自分の思いだけを握りしめて、溺れ落ちていく。
何も考えず、何も疑わず、ただ信じたいものだけを信じたいように信じて。
愚かだと思った。実に愚かだ。男が嘘つきなろくでなしと分かった瞬間、目を覚ますべきなのだ。それなのに、ずっと好きでいつづけた女がアナベルにはわからない。自分ならそんな真似はしない。心中を持ち掛けてきた男に嫌味の一つでも言って追い返し、別れてよかったと思うだろう。何故、あんな男を、いつまでも好きで、命まで捧げるのか。
(愚かな男を好きでいる女も愚かだわ)
アナベルは図々しく女の元に戻ってきた男よりも、女の方に腹立たしさを感じた。
もっと毅然と振舞うべきだ。
本を貸してくれた姉に感想を述べれば、姉はふふふっと笑った。
「それができないのが恋なのよ。どれほど聡明な人間も恋の前では愚か者になってしまう。好きという気持ちは、理屈ではないの」
訳知り顔で言われて、アナベルは少しだけむっとした。
子ども扱いされたようで、面白くなかった。
「でしたら、恋なんてろくなものではないですわね」
だから、呆れたように言い返した。
それは、もうずいぶん前の、アナベルがまだ少女だった頃の話。
◇
「アナベル! 君は醜い嫉妬からリゼルを虐めているそうだね。お茶会にも招待されないよう手を回していると聞いた。そのように心根が腐っているとは思わなかった。失望したよ。自らの過ちを悔い、ここでリゼルへ誠心誠意謝れ」
学内のカフェの一角。昼どきの、人が大勢いる時間帯に、場違いな罵声が響いた。
デビット公爵子息が婚約者のアナベル侯爵令嬢を糾弾している。デビットの傍には話に上がったリゼル男爵令嬢がデビットに守られるように立っている。
皆が、息をひそめるようにして、その様子を見守っていた。
アナベルは、二人の顔を見つめた。
自分たちの振る舞いは正しいと信じて疑わず、リゼルを被害者としてアナベルを糾弾する二人をじっと。
それから、少し前までデビットと良好な関係だったのが嘘のようだとぼんやりと思った。
デビットとリゼルが出会ったのは三ヶ月前。
リゼルからデビットへ「マナーを教えてほしい」とお願いしたのがきっかけだ。
そのことをアナベルが知ったのは、カフェテリアで二人がお茶をしていると噂になったからである。公爵家の子息と、男爵家の令嬢。あまりにも接点のない者が、同じテーブルについていれば目立つ。
アナベルもデビットにどういうことかと尋ねた。
「彼女は男爵家の養女でね。これまでずっと市井で育ってきたので、貴族社会のマナーに疎いらしい。それで僕に教えを乞うてきたのだよ。公爵家の人間なら一番そういうものに詳しいだろうってね」
アナベルは驚いた。
男爵家の娘が何のツテもないのに、いきなり公爵家の子息に頼みごとをするなど非常識だ。学院では爵位による身分を振りかざすことなく、一学生として振る舞うことと決められてはいるとはいえ、ありえない。そもそも、何故、同性ではなく異性に頼むのか。男性と女性の社交は違う。本気で貴族社会に馴染みたいなら、女性に頼むべきではないのか。
「んー、そうなんだろうけど、同性の目は厳しいだろう? ある程度の自信をつけてからでないと、最初の印象で失敗したら後々それを覆せなくなって困るからと言われてね」
その通り、最初に失敗したらそれは汚点としてついて回るのが社交界だ。
リゼルの言い分は正しそうに聞こえる。
だが、それで何故デビットに教えを乞うのか。
「ふふ、なんだい? 焼きもちかい?」
デビットはどこか楽しげに言った。
この時、アナベルが一言、そうです、と告げていればその後の結末は別のものになったかもしれない。だが、アナベルはそうしなかった。
アナベルは正しくあればいいのだと思っていた。
アナベルは侯爵家の娘として生まれ、将来は家の利益になる相手に嫁ぐことが決められていた。そのために必要な教育を受けてきた。社交界で侮られないための強さ。どんなときでも凛として、気高く、夫を支えられるようと、そのような教育だ。
アナベルは実によく学んだ。同じ年の令嬢の中では頭一つ抜きんでている。貴族の令嬢として完璧な振る舞いだと誰もが認めた。
彼女は正しくあった。自身が求められるものに正しく応えた。
だからこのときも、少し不快には思ったのは事実だが、嫉妬などみっともない感情は負担になるだけ。デビットを煩わせるべきではないと考えた。恋の駆け引きというものを、彼女は知らなかった。知る必要もないものだった。何故なら、彼女にとってデビットと婚姻する未来は確定したものだったから。彼の負担になることがないよう、彼の役に立つよう、そのようなことばかりを思っていた。
「いいえ、そのようなことはありません。ただ、婚約者のある身で、他の令嬢とお二人で過ごすのはあらぬ誤解を招くもの。どうぞ、ハミルトン家の名誉に傷がつくような振る舞いはなされませんよう、ご注意ください」
正しい忠告だった。
どこまでも、正しい。
だが、正しさは正しさでしかない。
「ただ、学友とお茶をしているだけだ。疚しいことなどしていない。それとも、君は僕をそのような不埒者だと思っているのか? 随分と馬鹿にされたものだな」
デビットは吐き捨てるように言った。
二人の道が、違えた瞬間だった。
アナベルは剣呑な言葉を投げられてから、デビットが冷静になるまで少し距離をとるべきと考えて冷却期間をとった。
その間にデビットとリゼルは恋仲になっていた。
デビットは「自分はそんな不埒者ではない」と言っていたが、今ではリゼルに夢中になり人目も憚らず逢瀬を重ねている。それは目に余るものでデビットには「アナベル嬢が可哀想だ。余所の女にうつつを抜かさず彼女と仲を深めろ」と、リゼルには「婚約者のいる殿方と二人きりで会うのはやめるべき」と苦言を呈する者もいた。
だが、二人は態度を改めることはなかった。恋は反対されるほど燃え上がるもの。アナベルのせいで二人は結ばれない。愛のない婚約のくせに、真実の愛の邪魔をするあの女が悪い。――そのような悲劇に酔いしれている。どうしてここまで愚かな思い込みができるのか。熱病に犯された脳は、よりロマンチックで、より切ない展開を求め、更に恋の燃料にしたがるということだろう。
デビットはもうアナベルが知るデビットではなくなった。
リゼルと恋に落ち、そして、知性も品位も落とし、愚か者になりはてた。
そして本日、カフェでアナベルを糾弾するという暴挙に出たのだ。
「何か言ったらどうだ!」
ふん、と憎々しげにデビットはアナベルを睨みつけた。
リゼルがきゅっとデビットの袖を掴んだ。怖いわ、というように目を潤ませてびくびくとしている。その姿は幼い子どものごとき庇護欲をそそるものだ。
アナベルは気の強そうな顔立ちをしているため現状だけを見れば本当にアナベルがリゼルを虐めていたのではないかと思えてくる。
実際、アナベル嬢って怒らせると怖そうだもんなぁ、リゼル嬢なんてひとたまりもなさそう、ちょっと可哀想だよな、と二人の逢瀬の噂を知っているにもかかわらず、無責任にひそひそとリゼルに同情する男子生徒もいた。
リゼルとアナベルならリゼルが守られる側にいる。
ただ真面目に、貴族の令嬢として正しい振る舞いをしていればいいと、そう信じてきたアナベルにとってそれは悲しい現実だった。正しさは、正当性は、アナベルにあるのに、正しさだけでは人の心は動かせない。「女」としての振る舞いはリゼルが上手だった。
アナベルは認めるしかなかった。真っすぐに正面からぶつかることしか知らなかった自分の幼さを、恋というものの狡さを醜さを愚かさを。
「わ、わたしは……一言、謝ってくださればいいのです。アナベル様……」
黙ったままで動かないアナベルに、救いの手を差し伸べるようにリゼルが言った。それに対し、あんなに虐められていながらなんと優しいのか、とデビットがリゼルの手を強く握る。
見事だな、とアナベルは思った。
リゼルはあくまでも被害者。そのような立ち居振る舞いを平然とやってのけるのだから。
アナベルは、ぐっと奥歯を噛み締めた。
何故? どうして……そんな苦しい胸の内を感情のままに叫んで罵ってしまいたい。
けれど、アナベルのこれまでの日々が、そのような振る舞いを許さない。
だから、すっと姿勢を正した。
そして、目の前の、自分を睨みつける、デビットに向けて静かに告げた。
「……デビット様。わたくしは、五歳ではじめてお会いし、十歳で婚約を結び、本日にいたるまで、貴方様のことをお慕い申し上げておりました。
ですが、貴方様はそこにいるリゼル様に心を移されました。人の心というのはままならぬもの。仕方ないこととはいえ、私はそのことに傷つき、枕を濡らしました。
けれども、それを理由にリゼル様に嫌がらせをするなど、恥知らずな真似は決してしておりません。一体何をもって、そのようなことをおっしゃるのでしょうか?
私の潔白は、調べていただければわかること。そうであるのに、デビット様はわたくしを非難し、謝罪しろとおっしゃった。お調べしてはいただいていないことは明白です。わたくしは、そのことにも深く傷つきました。
けれど、何より! 何よりも、仮にわたくしがリゼル様に嫌がらせをしていたとして、それをこのような公の場で糾弾する必要がありますでしょうか? わたくしだけに忠告をするという方法もあったのではございませんか? そうしてくだされば、わたくしはすぐにでもそのような真似はしていないとお返事申し上げました。けれど、貴方様はそうはなさらなかった。
これは明らかにわたくしの名誉を傷つけ、恥をかかせるためのものでしょう。
長らくの間、貴方様をお慕い申し上げ、貴方様と夫婦となることを夢見ていたわたくしに、どうしてここまでむごたらしい仕打ちができるのでしょうか?
それほどまでわたくしは憎まれているのですか?
ならば……一切の思いやりも、情けも、かける必要はなく、辱めていいと思うほどに嫌っているというのならば、早々に婚約解消を両家に進言し、関係を断てばよろしかったではないですか。
わたくしは貴方様からそのように話してくだされば、真摯にお応えいたしましたのに、貴方様はそれさえもしてくださらず……このような濡れ衣を着せようとまでされた。
何故です? 何故、ここまで、わたくしを苦しめるのですか? わたくしは、わたくしは……」
最後は声にならず、すぅ、とアナベルの目から涙がこぼれた。
慌てて扇を広げてそれを隠すようにするが、その細い肩が小さく震えているのは誰の目からも明らかだった。
アナベルが泣いている。貴族の令嬢の見本とも言われ、いつだって凛然としたアナベルが。
それだけではない。語られた内容も――これほどの人がいる中でデビットを慕っていたことを告げ、その思いが叶わなかったことで傷ついた胸の内を吐露し、その上でリゼルを虐めていないと身の潔白を訴えた。
それは誠実で真摯なものだった。
常日頃から気高くあるアナベルだからこそ、その切実さは、人の胸を打ち絶大の効果を与えた。
「アナベル様!」
最初に動いたのは、アナベルの友人の一人で、一緒に昼食をとっていたリリー侯爵令嬢だった。
「アナベル様……アナベル様はいつも立派に振舞っていらっしゃるから、そこまで傷ついていたなんて思わずにおりました。そのお心により添えずにいたこと友人として不甲斐なく思います。けれど、当然ですわよね。婚約者が他の女性と親しくしているなど、辛くないはずがありません」
「その通りですわ。アナベル様は何も悪くはありません。いつも凛として、淑女として、デビット様の婚約者として恥じぬように努めていらっしゃったアナベル様が、嫉妬からそれまでのご自身の努力を否定するような真似するわけありませんわ。そのような疑いをもつことこそ、アナベル様への冒涜ですわよ。一体、何をもって、アナベル様を悪くおっしゃるの?」
「いいえ、仮にアナベル様がリゼル様に嫌味を言ったとしても、それは正当性のあるものですわよ! 婚約者を奪われそうになって、それを黙って見ているなんてそんなことできませんもの。それなのに、虐められただなんて、まぁ、まるでご自身が被害者のような台詞ではありませんこと? 厚かましいわ」
「まったくだわ。だいたい、リゼル様を虐めるななど、よくも言えたものですわね。そもそも、そうなっているのは、デビット様の不誠実が原因じゃありませんこと? 本当にリゼル様を守りたいなら、アナベル様との婚約を解消するよう動くべきではありませんか? それもせず、アナベル様を婚約者に置いたままリゼル様と親しくする。そのような状態でアナベル様がリゼル様を憎むのは自然のことだわ。いいえ、それでもアナベル様はリゼル様に何かをするような愚かな方ではございませんけれど、何かをしてもおかしくないほどひどい状態にデビット様がしておきながら、アナベル様が悪いようにおっしゃるなんて」
「リゼル様だってたいがいよ。先に謝らなければならないことをしていたくせに、アナベル様を悪者にしたばかりか、謝ってくれればいいだなんて! 馬鹿をおっしゃらないで。貴方は今、大勢の前で咎人としてアナベル様に謝罪を望んでいるのよ。アナベル様の名誉を貶めた上で謝罪させようとしているの。これは謝ってくれたらいいとはいいません。本当にそう思っているなら、当事者だけの場所で話し合えばいいのですもの。でもそうはしなかった。ご自身が被害者で、アナベル様が加害者であることを多くの方に見せしめようとした。そのような真似をしておきながら、謝ってくれたらいいなんて謙虚を装い、さも自分は優しいといわんばかりに! よくもそんなことが言えたものね」
リリーを皮切りに、次々と令嬢たちがアナベルの味方をし始めた。
当然である。いつもことあるごとに目を潤ませて甘えてばかりの、ただか弱いだけのリゼルとは違う。あのアナベルが初めて人前で涙を見せたのだ。
今日までどれほど苦しんできたか。どれほど悲しんできたか。それでも貴族の令嬢らしく表には出さずに平気な振りをしてきたのに、その心の傷に気づきもせずに、あろうことかアナベルを苦しめ続けてきた原因であるデビットとリゼルが、アナベルを糾弾するという形で最後の引き金を引いた。
アナベルはもう白旗をあげるしかなかった。そして追い詰められた末、これまで言わずにきたこと、貴族の令嬢としてではなく一人の女性として、隠してきたその心の内を話したのだ。
そのような真似をさせられたアナベルを放っておけるわけがない。
アナベルを強い女性と思い、悪しざまにせせら笑った先程の男子生徒たちも、己の浅はかさに恥じ入った。
健気なアナベルと不誠実なデビット、盗人猛々しいリゼル――その真実の姿が詳らかになった瞬間だった。
「そ、そんな。ひどいわ。わたし、そんなつもりじゃ……」
リゼルはいつものか弱さを披露するが、それは火に油である。
「あら、ではどんなつもりでしたの? どういうつもりでアナベル様の婚約者のデビット様と懇ろの関係になられましたの? ねぇ、婚約者のいる男性には近づかないようにと忠告を受けましたわよね? それでもやめなかったのは、どういうつもりですの?」
「そ、それは……わたしたちは、ただ愛し合っただけで……」
「愛し合っただけ? 愛し合っていたならアナベル様が傷ついても構わないとそういうことかしら? そして傷ついたアナベル様をもっと傷つけようとした。随分な愛ですわねぇ」
「ちが……ひどいわ……」
リゼルはぽろぽろと泣きだすが、もう誰もその涙に同情する者はいない。
リゼルは焦りながら、先程と同じようにデビットの袖を引いた。だが、デビットは、呆然とアナベルを見つめている。その顔は心なしか赤く染まり、ぽぅっとしている。
「デビット様?」
リゼルが不安そうに名を呼んでも反応はない。
デビットは、ふらりと一歩アナベルに近づこうとした。だが、その前に
「皆様、申し訳ございません。わたくし……取り乱してしまって。失礼させていただきますわね」
アナベルが涙声で、それでも毅然と告げて、その場を去ろうとした。
「では、エスコートさせていただこう。今の貴女を一人にするなど、私にはできない」
そこへ一人の男子生徒が現れた。
隣国の第三王子、ライナス殿下である。こちらに遊学に来ている。
アナベルは驚いたが、断りを告げるより先にライナスが彼女の腰に腕を回し入り口へと促した。そこまで強い力ではないが、簡単には振り解けない強引さに、アナベルは諦めて身を預けることにした。
だが、緊張がとけたのかより緊張したのか、一歩、歩みを進めたところでクラリと目眩がしてそのまま意識を手放した。
「目が覚めましたか?」
優しげな声に、アナベルはハッとする。
自分がベッドに横になっていることに気づいて、ゆっくりと起き上がる。傍にはライナスがいた。
倒れた後、保健室へ運んでくれたのだ。
寝顔を見られていたかと思うと、たまらなく恥ずかしくなる。
「申し訳ございません……わたくし」
「倒れるとは思っていなかったので、少し驚きました」
くすりとライナスは笑った。
それはアナベル自身にも予想外のことだった。どうやら自分は思う以上に小心だったらしい。
「だが、うまくいったようでよかったです」
うまくいった――そう、あれはすべてアナベルが計画したことだった。
二人が、アナベルを糾弾しようとしていることを知り、対処方法を考えた。
真っ向から彼らの主張を否定し正論を告げるだけでは足りない。それでは貴族の令嬢として勝っても、女性としてはリゼルに負けたままだ。そんなものに拘る必要はないと思うが、アナベルにだって矜持がある。か弱いふりをして、その実像は、人の婚約者を平然と奪い、あまつさえ奪った相手を更に貶める真似を平気でするえげつない女。その正体を、きちんと公にしてやりたい。
だから、アナベルもリゼルと同じ、か弱さと涙を武器にした。
友人たちにも援護をしてくれるように頼んだ。
その計画を、ライナスに知られたのは偶然だった。
彼は、面白そうだと協力を申し出てきた。
隣国の王子が颯爽と現れて味方をする。それは、より印象的なものになるだろうと。
「……けれど、少しも心は晴れませんわ」
アナベルはライナスにというより、独り言のようにつぶやいた。
虚しかった。
アナベルは今、空っぽだった。
もっと、すっきりすると思っていたのに。ざまぁみろと、せいせいすると思っていたのに。
すると、ライナスがアナベルの心を見透かしたように言う。
「私は、彼が羨ましいですよ」
羨ましい? それはどういう意味か、問いかける前にライナスは真っ白なハンカチーフを差し出してきた。
「本当は芝居なんかじゃなかったのでしょう? あれが貴女の正真正銘の本心だった」
ライナスの目は優しげだった。
「私は彼が羨ましい。貴女にあそこまで思われている彼が。あのように思われるのが何故私ではないのかとそう思いました」
声はますます、熱を帯びた。
「……でも、今、貴女に付け入るのは卑怯ですね。今日のところはこれで退散します。どうぞ、こちらをお使いください。しばらくは、ここには誰も近づけさせませんから」
それだけ言うと、ライナスはアナベルにハンカチを握らせて保健室を出て行った。
一人残されたアナベルは思ってもみなかった指摘に呆然とした。
(あれがわたくしの本心?)
(いいえ、違うわ。わたくしは、か弱い女を演じただけ)
アナベルは、一途にデビットを慕っていたのに、それを踏みにじられ、おまけに悪女だと糾弾されている可哀想な女を演じ、同情され、逆にデビットとリゼルがどれほど愚かで非道であるかを周囲に示したかっただけだ。それが、アナベルの復讐だった。
だから、カフェで言ったことは本心などではない。
たしかに、デビットのことは嫌いではなかった。貴族社会というのは狭い。まして上流階級となればかなり狭い。その中で年回りが近く身分も釣り合う者として何度も会っているうちに親しくなった。そこに熱烈な気持ちは生まれなかったが、デビットとの婚約を両親から打診されたとき、彼とならと頷いた。政略結婚ではあるが受け入れられる相手だった。でも、それだけだ。アナベルを裏切りリゼルの元へ行った時点で、デビットのことなどとっくに見限っている。あんな男を好きでいつづけるほど奇特でも愚かでもない。
(ライナス殿下は何を勘違いしているのだろう?)
そう思う。思ったが……。
ぐらりと視界が歪んだ。
それはけしてたどり着かないようにしていた、傍に近寄らないようにしていたもの。
次々と浮かんでくる、温かな思い出。
優しい人だった。穏やかな人だった。情熱的な感情を抱くことはなかったが、静かに、静かに、積もっていく思いがあった。年を追うごとに厚みを増していくそれを大切にしていた。
ずっと続いていくと思い、この人を支えていくことが使命と信じて、それを幸せなことだと感じていた。
だから、勉学にも励んだ。貴族の令嬢として、彼の隣に立つとき恥ずかしくないように。彼の隣に立てるなら、どんな厳しい内容もやり遂げようと頑張ってきた。
自身のためでも、家のためでもなく、ただ、彼に見合う存在であるために。
アナベルは気づけばはらはらと泣いていた。
止めようにも、自分の意思ではどうにもならず、あとからあとからとめどなくあふれてくる涙は、握りしめていたハンカチの隅々まで冷たくなるほどこぼれ落ちつづけた。
読んでくださりありがとうございました。
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