泣き虫
第三師団司令の執務室の窓からは敷地内が見渡せる。高い位置にあるのもそうだが、訓練場以外にも広く開けた土地があるからだ。それは駐車場であったり、倉庫群であったり、師団の皆にとっての憩いの場所である一種の公園などだ。
樹々や人工の池、緩やかな斜面に敷かれた芝生。少し離れた所には売店やカフェ擬きも。空いた時間、各々が自由に使って良い空間は、正に公園だろう。
池の周りに施設されたランニングコース、その直ぐ横には散歩だって可能な広い道。業者により花々も飾られていて中々に美しい。
クリームたっぷり、角砂糖三個を入れた三葉花奏御本人特製のコーヒー片手に暫しの休憩をしていた時だ。窓のそばに立ち、何となく公園の方を眺めた。
「陽咲と渚か? 随分と仲良くなったものだな」
パジャマの上に大きめのカーディガンを羽織った渚は車椅子に乗って、いや乗せられている。ポニーテールにした黒髪や小柄な身長から間違いない。そして、その車椅子を何故か嬉しそうに押すのが姪である杠陽咲だ。
陽咲は今日非番だが、案の定と言って良いのか渚に会いに来た様だ。と言うか、一日も欠かしていない。訓練が終わるととんでもないスピードで走り去り、シャワーをやはり凄まじい速度で終えて病院に直行する。多分新たに覚えた念動の移動補助も使っている筈だ。非常に希少な技術なのだが。
「彼処までハマるとはな……ちょっと、いやかなりヤバくないか? ストーカー予備軍になりそうで怖い、我が姪ながら」
確かに渚は誰が見ても可愛らしい。あの戦闘力を知らなければ、病弱で儚い容姿に誰もが構いたくなるだろう。態とではないのは間違いないが、偶に庇護欲を刺激する態度も取るのだ。その魔性に捕らえられたのが男達では無く陽咲だとは……ズズズとお子様コーヒーを飲みながら独言しかない。
「変なことしないわよね……?」
パジャマからチラチラ覗く肌をなんとも形容しがたい視線で見ているのは気付いている。無理矢理などあり得ないだろうが……ましてや悲惨な過去を知った今なら尚更だ。
「でも渚だし……」
我が身を顧みない犠牲心は陽咲だけに向いているのだ。千春を失った罪悪感に囚われ、自ら身体を差し出したり……
「いやいやいや、其れは考え過ぎだ。渚は頭も良いし、陽咲だってそんな非常識じゃない。大丈夫だ」
でも、やっぱり不安が拭えなくて、今度注意しようと決めた。そんな情けない決意を胸に第三師団司令は残りのコーヒーを流し込む。そして振り向き、空になったカップを置いた。
まだ仕事が残っている。
「さあ、話を続けようか。花畑」
「はい。では現在判明しているカエリースタトスの……」
○ ○ ○
風が通り過ぎた事で、周りの樹々がザァーと鳴いた。
パタパタと陽咲から借りたカーディガンが暴れ、渚は思わず左手で押さえる。右手は今も柔らかい包帯で包まれているからだ。おまけにギブスをした脚の所為で、車椅子に乗せられている。正直散歩なんて気が進まなかったが、世話焼きの陽咲が真面目な顔して誘って来たからつい頷いたのだ。
「寒く無い?」
「大丈夫」
肉付きの悪い渚を気遣い、思わず聞いた。
「そっか。此処にいると軍事施設の中だと思えないでしょう? 足が治ったら二人で歩こうね」
「……うん」
殆どが陽咲の言葉への返事で終わっている。うん、分かった、大丈夫、要らない、そんな一言だ。無愛想極まりないが、陽咲は全く気にせず喋り続けた。
「あっちに見える建物、アレってカフェになっててケーキとかも食べたり出来るんだよ。学食並みに安くて中々美味しいし、越野先生に許可貰ってから来ない?」
「……うん」
「あと服! パジャマも買ってくるけど、目を付けてるのが幾つかあるから任せてね。渚ちゃんは細くて脚も長いから何でも格好良いと思うんだ。あ、お金なら心配ないよ? 異能者はお給料が良いし、渚ちゃんの働きに特別手当だって申請中だから。勿論、私が選ぶ以上は手当なんて使わないし」
ゆっくりと池沿いを進みながら、陽咲の話は止まらない。
「お金は……」
「ん?」
「……何でもない」
「そう?」
いつの間にか祖父となっていた遠藤征士郎との取引で金なら余っている。あのマンションに戻れば、床に転がしている鞄に入っているだろう。だが、不法な取引などを後ろの女性に話したら、碌なことにならないのは渚にも分かった。
ほんの少し視線を動かせば、異能により普通ならば映らない風景が目に入る。視野が広がるわけでは無いのだが、異常極まる能力は見る必要の無いモノを渚に届けて来るのだ。
先程からチラチラと、時にはじっとりと陽咲は見ている。勿論対象は車椅子に乗る渚だ。視角的に真上に近いから、まさか渚が気付いているとは知らないのだろう。
少しだけ開いた胸元に視線を感じたとき、我慢出来なくて渚は話し掛けるしかない。
「陽咲」
「なあに?」
「仕事……任務はどう?」
「うーん、訓練ばっかりだよ? しかも座学が増えて頭がパンクしそう。三葉叔母さんも仕事になると人が変わって凄く怖いから気も抜けないし大変。自業自得なのは分かってるんだけどさ。でも渚ちゃんと一緒に居たら癒されるから直ぐに元気になるよ!」
視線が外れたのが分かり、何故かホッとする。同時に三葉の憂慮も良く理解出来た。スライムとの戦いでは幾つも間違いがあったからだ。念動の局面打開力は確かに認めるが判断が甘い。不用意な移動、警戒の薄さ、連携も取れていなかった。
幾ら強力な異能であろうとも、一瞬のミスで死ぬのが戦場だ。実際、渚は自身を上回る兵を何人も狙撃して来た。弱点を見抜けば手は有る。千春の様な埒外の能力は別だが。
「やっぱりPLに行かせられない」
思わず呟いて、すぐに唇を閉じた。小さかったから陽咲には聞こえてないが、それは確信だ。
「そろそろ手術でしょ? 前の日って御飯は食べちゃダメなんだっけ?」
「そう聞いてる」
「そっかぁ。仕方無いね」
身体に刻まれた忌まわしきキズ。其れを消す一歩目が陽咲の言う手術だ。詳しく聞いた筈だが頭に入らなかった。いつ自由に動けるのか、ただ其れだけが興味の対象だからだ。異能による記憶は消せないから、マーザリグ帝国での日々は決して無くならない。
そう。この身体は消えない。元にも戻れない。
睡眠は浅く、二時間以上眠る夜など無い。何かを望む陽咲達には悪いが、結局のところ心の底に澱む絶望は消えたりしないだろう。
このまま陽咲が向ける気持ちに向き合わない事が正しいのか、いくら考えても分からないのだ。
「渚ちゃん?」
「……そろそろ帰ろう」
「そうだね」
介助したくても出来なくて、陽咲はいつも悔しい。車椅子からゆっくりとベッドに移る渚を眺めているだけだ。触ってしまったら悪夢を見る以上当然だが、だからと言って納得出来る訳は無い。
そのまま横にならずベッドに腰掛けた渚は陽咲に声を掛けた。
「陽咲、聞きたい事がある」
「いいよー、何でも聞いて」
車椅子を畳み、病室の角に片付けた陽咲が嬉しそうに近寄る。渚から話し掛けてくれるなんて少ない機会だからだろう。
「私に恋したって言ったよね」
「うぇっ⁉︎ え、えっと、うん。はい」
「つまり、好きって事? 友達とか妹じゃなくて」
「い、妹としても大切だよ! でも違う気持ちもあって……」
慌てた様子だが、視線だけは離れなくて真剣な色だ。
「陽咲は女性だよね。勿論同性との恋愛があるのは知ってる。でも、こんな事初めてだから」
「……ゴメンね、混乱させて。私が一方的に向けてるだけで、渚ちゃんに何かして欲しいとか、そう言うのじゃ……」
「キスしたい?」
「そ、それはね、私も初めてだから」
モゴモゴと口は動くが、上手く声にならない。そして渚が何を伝えたいのか分からないから益々混乱する。
「セックスしたいの?」
「セッ……! い、いや、そんな」
「私の服の下を見てる時があるから、そうなんだろうなって」
「ご、ごめん‼︎ 私って馬鹿で、御免なさい!」
渚が責めていると思って顔が青くなった。最近距離が縮まって調子に乗ってしまったと後悔が募る。
「鍵を閉めて」
「な、何で?」
「パジャマが埃っぽいから着替えたくて。閉めたら着替えを出してくれる?」
「あ、分かった! 待ってね」
渚の視線から逃げたくて、病室と廊下を隔てる扉の鍵をカチャリと閉めた。次は着替えだと木製で四段の引き出しを引っ張る。
パサリ。
背後から間違いなく聞こえた。
ギシリギシリとベッドの軋み、スルスルと何か衣擦れの音。
陽咲は胸がドキドキして、外に聞こえてるかもと強張った。絶対に気の所為だとゆっくり振り返る。
其処には最後の、肌を隠すブラを取る姿。残ったのは一糸纏わぬ渚。夕焼けが部屋を照らし、細い身体と女の子らしい起伏の印影が陽咲の視線を奪う。ギブスがあるのに立ち上がって顔を上げた。
「な、渚ちゃん、何で……」
「カエリーから聞いたんだよね? 私の、マーザリグ帝国の日々を」
胸を隠す事も、恥じらいも無い。
「や、やめよう? こんなの」
「目を逸らさないで。千春にも見せた事はないけど、想像はしてたでしょう。こんな身体だよ、私は」
合計三箇所、見るに耐えないキズがある。胸の下、下腹部、太ももの内側。刃物で刻まれた意味不明な言語。ほかにも沢山……火傷、弾痕らしき跡、何かの破片が突き抜けただろう傷跡も。余りに痛々しい、そして渚の心のキズさえも見えた気がした。
「何度玩具にされたか分からない。どんなに叫んでも駄目だった。この身体で奴等が触れてないところなんて存在しないよ。もう穢れている、陽咲が思う様な女の子じゃない」
震えが止まらなかった陽咲は、冷たい言葉を聞いて強く拳を握りしめた。そして震えも無視して真っ直ぐに見る。渚が何を言いたいのか分かったから。
「だから諦めろってこと? またPLの時の様に一人で、私を置いて。そんなの絶対に許さないし、心も千春お姉ちゃんにだって渡さない。渚は私が守る」
私が守るーーー
渚を連れ出した日、千春が言った。其れが渚の耳に木霊となって反響する。
陽咲は一歩ずつ近づき、ベッドに放り投げていたカーディガンを取って渚の肩に掛ける。傷だらけの白い身体は隠れて見えなくなって、ほんの少し安心出来た。
「キスしたいよ。何度も抱き締めて一緒に眠りたい。でも、それよりも寄り添っていたい。渚ちゃんの笑顔が見たいの。だから……私は諦めたりしない。我儘で御免ね?」
スッと渚は左手を上げた。そして指先をゆるゆると陽咲の頬へと。羽織ったカーディガンが少しだけ肌けて、傷の無い鎖骨が見えた。
「渚ちゃん、駄目だよ。悪い夢を見ちゃう」
一度戸惑って、それでも止めなかった。頬に感じる渚の指先は冷たい、悲しい温度だ。そのうち掌全体で優しく撫でる。
「……見えない」
「え?」
「見えないよ……マーザリグなんて……だって」
ポロポロと澄んだ雫が零れていく。渚の瞳から。
「渚ちゃん……」
「不思議。千春と居た時は泣くのが嫌だったのに……陽咲と一緒だと泣き虫になる。ズルい、よ」
目の前で千春が優しく笑う。長い黒髪が綺麗だ。
そして……陽咲と千春が重なった。




