横顔
「少し上に行こうか」
「はい」
抱き抱えた身体から高い体温が伝わってくる。
まだまだ新人の一人とはいえ、杠陽咲も厳しい訓練を繰り返してきた軍属の人間だ。平均より低い身長や少し垂れ目の瞳で幼く見えても、一般の女性とは違う。念動を併用する事も可能だが、その必要は感じない。
それ程に軽いのが、渚だった。
僅かに少女らしい柔らかさはあっても、痩身なのは明らかで……益々酷くなっていた目の隈、高熱、先程の吐瀉物は胃液ばかり。
「やっぱりご飯とかちゃんと食べてないのかな……」
独り言だったが、間違いないとも思う。
「予報通り朝まで降りそうだね。こちら側に屋根があって良かった」
「ですね」
つい先程から雨が降り出したのだ。土砂降りではないが、シトシトと長雨になりそうな雨音が聞こえる。
PL侵入前に幾つかの情報確認があるが、そのうちの一つが天候の予測だ。レヴリとの戦闘への影響にはじまり、兵士の疲労やストレスにも関わってくる。また人の手が入らない街では、崩落や浸水などの危険性まで高まってしまう。
工場跡らしい此処は、半分以上が崩れてしまっていた。雨晒しになった機械類は錆びて茶色く染まり、床も抜けて地面が露出している場所も多い。恐らく金属の加工をしていたのか、旋盤などが残っているようだ。
渚を抱えた陽咲と土谷は階段を登り、事務所らしき部屋に入った。
「彼処がいいな」
フェイクレザーの長椅子がある。恐らく応接の為のものだろうが、余り傷んだ様に見えない。土谷は背中に背負っていた背嚢から薄手の雨合羽を取り出した。それを長椅子に敷けば簡易的なベッドの出来上がりだ。
「ありがとうございます」
労る様に、壊れ物を扱う様に陽咲は渚を横たえる。
やはり頬は赤く、息遣いも荒い。
「タオルを濡らして来るよ。抗生物質は持ってるかい?」
「あ、はい」
同じく降ろした背嚢に有ると視線で伝えた。
「目を覚ましたら飲ませた方が良いかもね。彼女は何も持ってないようだし」
「分かりました」
落ち着いた土谷がいる事で何とか冷静さを保っていた。もし一人だったなら涙が溢れていただろうなと思う。外に向かう彼から視線を外し、再び渚を眺める。
「また助けられちゃった。私が渚ちゃんを護るって言ったのにな……」
横向きに寝転んでいるので、腰を下ろした陽咲のすぐ目の前に渚の顔があった。思わず黒髪を撫でると、まともなケアもしていないだろう事が分かってしまう。
大切な人、姉である千春を殺したと渚は言った。しかし、三葉の言葉が絶望の淵へと落ちるのを止めたのだ。何一つ確証など無いのに正しい答えだと理解している。
「だって、何時も見守ってくれてる。まるで千春お姉ちゃんみたいに」
今度は自分が助けてみせる。
朝が来たら急いでPLを抜け、病院に連れて行かないと。いや軍病院ならば最新設備が整っているし、渚ちゃんの生活の不安も相談を……眉にかかった前髪を優しく払いながら、陽咲はつらつらと考えていた。
「はいコレ」
絞った濃い緑色のハンドタオルを陽咲に渡し、土谷は離れた場所に座った。非常時と言っても、彼ならば目の前の少女に興味を持ちそうなのに……少しだけ意外だなと思いながら渚の頬や口周りを拭ってあげる。
吐いた物が気管に詰まっては駄目だと今は真上に向いていない。濡れタオルを額に置くのは後なのだろう。
少しでも楽にとデニムのベルトを緩めようとした時、土谷が抑えた声で制止した。
「陽咲ちゃん、余り触らない方がいいと思うよ」
全く悪気の無い労る気持ちを指摘され、思わずムッとしてしまう。
「……どうしてですか?」
「そうだな……こっちへ。その娘を起こしたくないし」
二人は其処から離れ、横倒しになった椅子を起こして座った。渚は視界に入っていて、肩の上下で呼吸の有無すら分かる距離だ。
「最初に言っておくけど、あくまで推測だからね? さっき天使が倒れた時に触らないでって言ったけど、以前もあったと聞いた。確かなのかな?」
「は、はい。間違いないです」
「彼女の様な反応は何度か見た事がある。戦場の恐怖、受け止められない人の死、凄惨な現場に出くわした記憶や過去。要因は様々だけど、心的外傷後ストレス障害……所謂PTSDだ。この場合のトリガーは人との接触かな。しかも、正直かなり重症だと思う」
「……はい」
「心当たりがあるみたいだね」
「何となくですけど、拒絶感とか、身体の細さとか……目の下の隈だって酷いですから」
「そっか。陽咲ちゃんには辛い事かもしれないけど、心構えは必要だ。つまり、見た目から多分14,5歳だろ? その若さで常識を超えた戦闘能力を持ち、詳細不明な異能、そしてそれに耐え得る精神。おまけに身元も不明。ごく当たり前の人生なんて送って来た訳が無い。内容の言及は避けるけど……多分凄く酷い目に遭って来た筈だ」
俯く陽咲を見た土谷だが、慰めはしなかった。まだ新人の異能者であるが、杠陽咲は決して愚鈍な人間ではない。恐らく既に察していたのだろう。
異能の発現にはテストが必要で、通常ならば国家の保護の元に行われる。精神の不安定な未成年は特に慎重な対応が求められる上、厳しい法規制も存在するのだ。しかし横たわる少女は規定の年齢に達していない。高度な戦闘訓練を乗り越えて来たのは確実で、違法な手段であるのも間違いないのだ。そして、それを行った連中に人の常識などあろうはずが無いだろう。
「それに、あの馬鹿げた黒い銃も」
そして、アレこそ異常の極地だ。天使の直ぐそば、錆びた金属台の上に真っ黒な塊がある。もしここに居るのが花畑多九郎だったなら涎を垂らしていたかもしれない。
「専門の人に見て貰いたいところだけど、中々難しそうだ。簡単に治る様なものじゃないし、あそこまでの症状は滅多にないからね。だから対応を慎重にしないと益々距離が離れてしまう、そう思ったんだ」
「……はい」
「同性の方がいいだろうから俺は近付かない様にするよ。何かあれば手伝うけどね。それと帰ったら司令に相談しよう」
「ですね……よろしくお願いします」
「キツイだろうけど、気持ちをしっかりね。余り暗くすると逆効果かもしれないし。やっぱり綺麗な女の子は笑顔でいて欲しいから、さ」
言いながら、左手首につけた時計を見る。土谷は態とらしい、くだけた空気を醸し出した様だ。彼なりの気遣いだろうと、陽咲も少しだけ肩の力を抜いた。
「夜明けまで約6時間だ。見張りを交代しながら休憩しよう。場合によっては背負ってでも進まないと」
「渚ちゃんは軽いから大丈夫です。念動もありますし」
「念動か……汎用性高いなぁ。さすが希少なだけはあるよ。触らなくて済むから彼女には良いかもね」
土谷はもう一度周囲の確認をしてくると階段を降りて行った。それを見送った陽咲は渚に視線を合わせる。
初めて名前を教えて貰った日、そして今も横顔を眺めている。
整った鼻筋、長い睫毛、真っ白な肌。
記憶の中に鮮やかな世界が浮かんで来た。
公園で話した時も、この夜も幸せな時間ではない。だけど目が離せなくなって、ジッと見詰めてしまう。いつの日か笑顔が咲いたら、咲かす事が出来たなら、千春お姉ちゃんも喜んでくれる……そんな風に思い出しながら……
○ ○ ○
今夜みたいな雨じゃなく、あの日は土砂降りだった。
台風みたいな風と鳴り止まない雷。誰かが言ったのだ
……雷鳴と雷光の合間が短い時、落ちる場所は直ぐ近くだと。
其れを聞いてしまった陽咲は怖くて怖くて姉である千春の部屋を訪れた。しないと怒られるノック、そうして返事を待つ。
カチャリと開いた扉の向こう側に嫉妬するほど綺麗な黒髪の女性が立っていた。クセもなく、艶やかな黒を今でも覚えている。キャミソールと細身のロングパンツ、ガウンカーディガンを合わせた暗めのネイビー。ワントーンカラーで大人っぽくて、ルームウェアなのに素敵だなと思う。
「なに?」
中学生になっても陽咲はずっと子供で、姉である千春は憧れの女だった。あの頃は距離を置かれて悲しい思いを抱え、毎日後をついて回ったりもした。それが鬱陶しくて、悪循環を生んでいると気付きもせずに。
「お姉ちゃん、ごめんね。怖くて……」
枕を抱えて来れば、答えは最初から分かる。
「陽咲。そのすぐ謝るクセ直しなさい」
少し厳しい声が降ってきて、陽咲は枕をギュッとした。
「……入って」
それでも結局は迎え入れてくれるのだ。
「うん」
随分入る事が減った千春の部屋は整頓されていて、女の子っぽい物は少ない。本棚には何やら難しい題名の本や小説が並んでいる。医学系の書籍や英語関連の参考書など、明確な夢を持つ姉が遠く感じてしまう場所だ。
外がピカリと光り、殆ど同時にゴロゴロと雷鳴が轟いた。ついでバシャーンと酷い落雷音が耳をつん裂き、陽咲はビクリと肩を揺らす。
「鳴り止んだら自分の部屋に戻る?」
「分かった」
「全く……雷嫌いは相変わらずね」
優しい声音。それを聞くとホッとした。二人お揃いの学習机には意味不明な記号の並ぶ本とノートがあって、何となく悔しい。
「お姉ちゃんは怖くないの?」
チラリと表情を伺うと、呆れた様に返すのだ。
「怖いに決まってるじゃない。陽咲と同じだよ」
誰でも怖い。気にする事も、情けなく思う事だって普通だよと慰めてくれている。
「そっか……お姉ちゃんも怖いんだ」
でもあの頃はもっと幼くて、その気遣いを理解しない。だから単純に嬉しかった。
「雷が煩くて集中出来ないし、寝よっか」
「うん」
「ちゃんと歯磨きした?」
「したよ」
「そう」
言いながら、机の上を片付けて振り返った。長い黒髪がフワリと揺れて目を惹く。それを見た陽咲は千春を真似して髪を伸ばし始めるが、癖毛が邪魔して直ぐに断念したりした。
「奥がいいんでしょ?」
「いい?」
「駄目って言っても諦めないクセに。"でも"とか"だって"とか」
フンワリ笑う。
雷鳴は変わらず、それでも幸せな夜へ……
セミダブルのベッドで二人の姉妹は肩を寄せ合って眠る。
恐怖は消え去り、隣で緩やかな寝息を繰り返す美しい姉を眺めていた。起こさない様にそっと腕に抱きつく。感じるのは優しい体温と仄かな香り。
決して色褪せない幾つもの記憶。
渚と千春の横顔が重なった。




