流れる赤
渚は怒りを吐息と共に出そうと繰り返していた。
PLに入る前、以前に会った薄汚い連中にちょっかいを掛けられたからだ。オマケにカエリーが千春の愛しい名前を溢したから、余り起伏の激しい方でない感情が波立った。
一定の距離を取りながら追尾する予定だったが、陽咲達は既に出発した後。足跡などの痕跡を隠してもないから追い掛ける事に問題はない。追跡調査は渚の十八番だが、だからと言って遅れが嬉しい訳がないだろう。
カエリースタトスはナイフ形態に戻し、右手に在る。生い茂る雑草の除去や瓦礫の登坂時などに利用するからだ。周囲からの襲撃の警戒は渚にとって日常で、ましてやレヴリなどは隠蔽すら幼稚だった。ハンドガンにしろとカエリーは煩いが、毎度のごとく無視している。
『マスター、休息を』
頭痛、腹部の痛み、そして先程からコントロールに苦労する感情。
渚は自身に何が起きているか理解し、再び怒りを覚えていた。
「駄目、追い付けない」
『しかし、明らかな不調です。此れは睡眠不足からだけでなく、女性としての……』
「煩い」
間違いなく生理だった。
『実際には初めての経験では? マーザリグでは最初期から抑えてあったでしょう。戦場で妊娠など避けなければなりませんから』
マーザリグ帝国での残酷な日々、奴等は渚に最悪の行為を繰り返した。呪縛は渚を縛っていたが、その中に避妊の魔法が含まれていたのだ。当然だが渚を気遣ったものでなく、戦士として、道具として必要だったからだ。
千春の悲しい犠牲によって渚は日本に帰って来た。何故か世界は変化していて、レヴリや警備軍がその象徴だろう。しかし、渚にとって其れはどうでもよく、千春の愛した妹が生きて存在していることが全てだった。
だから、解かれた呪縛など考えもしていない。その影響が此処で訪れてしまった。
生理用品など用意していないし、薬も、替えの下着も、そもそもの対処の経験すらないのだ。
股間から気色悪い感触が伝わる。戦場では血や油に濡れるのは日常で、意識から外す事だって出来ていたのに。渚は整った眉を歪ませて、それでも歩き続けた。しかし、明らかに進行速度が落ちている。
仕方無く立ち止まり、カエリーを袖に当てた。ビリビリと裂くと、適当に折り畳んで安物の下着の中に突っ込む。ゴワゴワとした肌触りがやはり気持ち悪いが、これ以上出来る事もない。暗いグレー色のパーカーは手首辺りから片袖が短くなり、渚の青白い素肌が傾いて来た太陽に晒される。明らかに痩せていて、薄っすらと骨のラインが見えた。
『効率から考えましょう。休息を入れ体力を戻せば追い付けます。合わせて言えば間もなく夜になり、夜目のきかない彼らの行軍は止まる筈。寧ろこのままでは戦闘にすら悪影響が出ると予想されます』
それでも暫く歩き続けようと足を動かしたが、既に体は重く鈍い。下腹は石でも溜め込んでいるかの様にズシリと沈む。想像以上の不調に渚は唇を歪めた。大怪我だって、数限りない痛みと戦ってきた筈なのに、何故か耐えられそうに無いのだ。そして何よりも、揺れ動く感情に渚は戸惑った。
仕方無く、無人となったコンビニだっただろう建物に入る。冷蔵庫だけは形が無事に残っていて、その隅に身体を下ろした。尻を床につけると股間からの違和感が増し、益々憂鬱になって辟易する。デニムの生地を引っ張り覗き込めば、パーカーの切れ端が僅かに赤く染まっていた。
『アト粒子接続を。警戒を代わります』
そんな渚に全く頓着しないカエリーの声が頭に響く。
普段ならば拒否しただろうが、渚は素直に従った。膝を抱え丸くなる。マーザリクでよくしていた姿勢だ。千春が隣に座り、時に抱き締めてくれたのを思い出してしまった。だからだろう、意識しないまま愛しい人の記録が頭に浮かび、まるで目の前に立っていると錯覚してしまう。
その優しい笑顔を見たとき、渚は瞼が落ちていくのを感じていた。
○ ○ ○
人の気配が消えた夜の街、それは根源的な恐怖を振り撒く。暗闇、静謐、獣や虫の気配。街灯も漏れ出る筈の明かりも無い。全ては過去の遺物で、瓦礫や塵芥は死を連想させるだろう。
全国的に有名なコンビニチェーンの廃墟の中に、消えた筈の人の気配がある。僅かな声も響くが、悲鳴に似た其れは幼かった。
「やめ……て!」
自分の喉から響いた悲鳴で渚は目を覚ました。鮮明に目の前に広がる、何度見ても慣れない悪夢が襲ったからだ。千春が殺した筈のアゾビズ、奴のイヤらしい笑みがこびりついて離れない。
身体は汗で濡れ、酷い寒気を感じる。体調は変わらず最悪だ。寧ろ悪化したかもしれない。だがこれ以上立ち止まっては陽咲に追い付けなくなる。外は既に闇に落ち、虫達の鳴き声が耳をくすぐった。
「……く」
錆び付いたり曲がったりしている棚の残骸を支えにして、渚は立ち上がった。酷く重い身体、ボンヤリした頭、僅かな立ち眩みまで感じる。生理の出血は止まったのか、濡れ具合に大きな変化はない様だ。この不調は、普段の睡眠不足と足りない栄養の所為もあるだろう。
『マスター、戦闘に耐えられない可能性があります。魔力の回復も通常時の70%程度と想定。透明弾などの特殊な魔弾の構成に制限がかかるでしょう。一度撤退を推奨します』
カエリースタトスが警告してきた。其れは想定済みで、渚は当たり前に切り捨てる。
「外の空気を吸えば大丈夫。夜のうちに追いつきたい」
『ですが貴女のソレは重い方なのでしょう。ましてや初経で、しかも個人差が大きいと知識にあります』
人工的に造られた筈のカエリーから、何やら生々しい指摘を受けてしまう。渚は何時もの様に苦い表情に変わった。しかし反論するのも辛く、無言のまま外に出る。
半日分は離されただろう。
多くの痕跡からかなりの戦力、つまり人数と分かる。恐らく中隊規模で以前とは比較にならない。例えレヴリが現れても簡単には負けないだろうし、彼らはその為の軍隊だ。無理矢理に言い訳を心に唱えるが、出発前に聞いた遠藤征士郎からの情報、其れが不安を煽る。
追い付かなくては……
渚は重い足腰を前へと動かし、追跡を開始した。
『再度推奨します。撤退を』
「カエリー、私は行軍に集中する。そのまま警戒を続けて」
『警戒を続行』
普段ならば息をする様に行なっていたが、渚はカエリーに指示を出した。足を動かす事に意識を持っていかれてしまうからだ。
だが、やはりいつもの速度は出なかった。
「居た」
夜通し歩き、陽の光が最も高い位置に近づいた頃、漸く目的の警備軍の姿を捉えた。先程の音は間違いなく彼処からだろう。距離にして1km、遮蔽物が多く狙撃も難しい。とにかく距離を縮めるか、射線を確保する必要がある……渚は無言のままに脚を動かし前に進む。
幸いにも杠陽咲は無事の様だ。
異能による視覚には、不安そうな表情までが明確に映る。彼女の視線の先の小柄な女性、第三師団の三葉司令が腰を落とし向こう側を睨み付けていた。
『戦闘中でしょうか? それにしては動きが少ないですね』
「一斉射が終わったみたい。かなりの数」
渚には散らばる薬莢と、空に消え行く硝煙すら見える。アト粒子接続であろうと、カエリーには不可能な芸当だ。
『しかし、敵影がありません』
レヴリの死骸も見当たらず、動く気配すら感じられない。その内に警備軍から20m以上離れた場所に火炎が立ち上がった。その炎は暫く燃え続けて渚の興味を引いた。
燃え尽きたあと、地面は焼け焦げている。
「……いや、いる」
『何処に?』
「あの池、泥水の」
『マスターがそう言うなら居るのでしょう。どうしますか?』
明らかな待ち伏せだ。蟻地獄や蜘蛛の巣のように、近付く獲物を待っている。渚の力だから見えているが、通常ならば不可視だろう。
蠢く塊、形は絶えず変化している。泥水に感じるのは擬態の一種か。もし澄んだ水ならば、多少の違和感を覚えるのは間違いない。
「水袋の様なヤツで中心辺りに核がある。アレを撃てば死ぬと思う。でも数が多い」
『今のマスターが生成出来る魔弾は、約40。帰還の余力を考えれば、30です。回復量の低下から算出すると更なる減少も』
「分かってる」
『戦闘を想定するならば、援護に徹して下さい。対象者も兵士なのですから』
何よりも渚の生存を第一に考えるカエリーは、そう言葉にした。それはつまり近づくと危険で、同時に遠距離からは完全な攻撃が出来ない事を示唆している。杠陽咲を守る為に接近はするなと警告したのだ。
そして、渚は其れを当然に無視する。
此処からでは魔弾の数が足りない。一発で複数仕留めるには射角が広過ぎるからだ。
「歪め」
カエリースタトスに命ずる。そして間を置かずに狙撃する体勢に入った。緑色した線が這い、明滅を始める。歩く速度を落とす事もなく、渚は初弾を発射した。二秒後に更に二発。
『無駄弾です』
「煩い」
やはり気付いていないのだろう。レヴリが待ち伏せをする池に近づいて行ったから渚は躊躇しなかった。陽咲を守る壁が減るのは許せない。
そして三葉が振り返り、まるで見えている様に此方を射抜く。
「駄目、間に合わない」
遅れが此処で響いた。あと数時間前に捕捉出来ていれば、あそこまで接近を許さなかったのに……
一気に踊り掛かったレヴリ。
散らばる悲鳴と弾丸。
三葉は必死に指示を出している。
渚は地面を蹴った。
でも……どこまでも身体は重いのだ。




