千春⑹ 〜愛する人〜
マーザリグ城は炎上していた。
強固な筈の城壁は崩壊し、一部尖塔も横倒しになっている。この城には数こそ少ないが、世界的な名声を誇る将軍や魔使いが居て、最新式の武具もあった。前線に戦力を集中しているとは言え、想定外だったのだろう。
特に厄介な異能持ちの異人達は、倒れ伏して呻いていた。
全ての元凶、渚を抱く千春はペースを乱す事なく前へ進む。
四方から凡ゆる魔法や魔弾が飛来するが、千春の障壁を突破する事が出来ない。それどころか其の方向を即座に探知し、まるで自動的に行われている様に反撃の魔法が飛ぶ。
正確で、速く、圧倒的な魔法は光線だった。
真っ白な線は魔使いの張る障壁、城の防護壁、盾を紙のように貫き直進する。身を隠しても意味は無い。唯一の救いは攻撃を加えなければ反撃の光が襲わないことか。
指揮官の怒号、兵士の悲鳴、城が鳴く轟音、ゴウゴウと唸る炎と風。
誰一人としてその歩みを止める事が出来ないのだ。
あの懐かしい世界へ帰る方法を知った今、千春は全ての魔力を吐き出すつもりだった。何より自分の胸に抱かれる渚の温かさは更なる力を与える。苦しいのだろう……絶えず身動ぎして、唇は真っ青だ。歯を食いしばり、それでも意識を失わないよう耐えている。
もう後の事など気にはしない。残る異人達はベルタベルン王が何とかする手筈だ。
時間を掛ければ前線から一流の奴等、飾りでは無い本物の兵士達が参戦するだろう。流石の千春も連中が集まれば厳しい戦いになる。一人ずつなら負ける気はしないが、当然相手が良い子で待つ訳がない。
急がないとーー
「渚、もう少しだから頑張って」
苦しそうに、しかし薄く目蓋を開けて見返す。小さくとも三年の長きに渡り戦って来た戦士だ。流石だと千春は思った。
抵抗しなければ不可避の光線が襲わないと理解出来たのか、魔法の乱発が少しだけ弱まる。視界が広がり、その事で目的地までの距離と方向も明確になった。
散発的に障壁が輝き、ほんの僅かだが魔力が減少していく。この為に開発し予め構成していた魔法はタイムラグ無く反撃を行うので二重に減少するのだ。だが、足を止めるほどではない。
「建物に入ったわ。あとは地下に向かうだけよ!」
ちょっとでも精神的負担を和らげようと、経過を言葉にしていく。はぁはぁと息を荒げ、汗は変わらず止まっていない。千春の腕に熱い体温と揮発する汗の冷たさが相互に襲い、渚の苦しみが伝わる。マーザリグの呪縛から守る為と分かっていても酷く心は痛んだ。
最後の曲がり角を過ぎると、先に目的地が見える。岩に見える扉は幸運な事に開け放たれており、あの広間を見通せた。召喚当初は余裕もなくただの岩で囲まれた部屋と思っていたが、複雑な紋様が床に描かれているのが分かる。
「渚、見えたよ!」
もう駆け足に近い。渚の手前しっかりとした姉を気取っていた千春も、一人の誘拐されて来た女性だ。帰れると思えば、冷静さを失う事を誰が責められるだろう。愛しい世界、過ごした日本、狂おしいほどの渇望。もう少しで陽咲に会える……千春は全く抵抗の無くなったマーザリグに疑問を抱かず進んで行く。
「……? 渚、どうしたの?」
その時、渚が力無い右手で千春の胸を叩いたのだ。そして何とか言葉を紡ぐ。
「ち、はる……油断、ダメ、何か」
戦士としての、長年の狙撃手としての経験が何かを察知した。それは千春にすら無い力。渚は何時も一人で、凡ゆる環境を味方にして戦って来たのだ。そして異能により、不自然な空気の流れが見えたから。
「何か……?」
しかし、千春の感知には一切掛からない。念のためにより強く感知を行った。やはり全く感じない。渚を見れば、再び苦しい感覚と戦い始めたのが分かった。
気のせい? 渚だって普通の状態じゃないから……
だから、千春は判断を誤ったのだ。
圧倒的な魔力と破壊的な戦闘力。目の前には日本へ帰る扉が。戦闘と戦場の経験は、千春であろうとも渚には敵わないのに……
警戒しつつも一枚板の様な岩の扉をくぐる。
「……あっ」
ほんの一瞬、本当に僅かだった。千春の障壁が消えた。防御の上では大した問題にはならない時間。事実飛んできた拘束の魔法には反応が間に合い、見事に弾いた。だが、問題は其れではない。
「渚!」
間違いなく異人だろう。青白く滑る肌、複眼、穴だけの耳、頭髪はない。そして、渚よりも小さな子供。感知にも掛からない無に等しい魔力。この世界の生きるなら少なからず魔力があるのに、この子には……
何より無邪気な心。殺気も敵愾心も持ってないのだ。
その子の腕に渚が抱き締められていた。千春から奪われた愛しい妹は意識を失っているのが分かる。グタリと腕を垂らし、頭も動かない。つまり、呪縛から守る事が出来なくなった。またマーザリグの言うがままに自由を奪われてしまう。
「千春殿、大変な事を仕出かしましたな」
そして隠されていた別の入り口から広間に入って来た男がゆっくりと呟く。両手に革紐を何重にも巻いている。痩せこけた頬に反して身体は異常に大きく、金色した髪は乱雑に流していた。ねめつく目と荒れて傷だらけの顔が嫌悪感を抱かせる。
続いて四人の魔使いと兵士。異人の子供から渚を受け取ると、別の一人に預ける。千春は攻撃が出来なかった。渚には魔法を防ぐ手段がない。
「アゾビズ……まだ前線の筈」
所属していた大隊の指揮官でもあり、マーザリグ有数の魔使い。短時間なら千春とでも互角に戦える数少ない本物の戦士だ。魔使いと言っても接近戦すら苦にせず、膨大な魔力を障壁と肉体強化に割いた攻防一体の厄介な相手……ある意味で千春とは対極な男だった。
「この娘が城に向かっていると知りまして。最近の行動から千春殿が関わっていると判断した次第です。我等も障壁を抜ける方法を研究してきましたが、どうです、この子は。我々すらも感知出来なかったでしょう」
先程の青色した子供を見ながら、愉快そうに笑うのが分かる。
丁寧な口調だが、アゾビズは残虐で人を甚振るのが好きな異常者と千春は知っている。だから渚が側にいない事が不安で仕方なかった。そもそも渚の呪縛は千春の意思で作動させたのだ。奴等に伝わったとしても時間が合わないーー
「何故……渚には」
「おや、ご存知ない」
更にニヤリと笑い、後ろに合図を送った。それはとても汚らわしい笑みだ。
「う……」
意識を取り戻した渚は誰かに抱き竦められていると知り、恐慌に陥った。誰かが、触れている……
「叫ぶな」
しかし、掴んでいる男が一言呟くと渚は声すら上げない。真っ青な顔をそのままに、ガタガタと震え出した。
「この娘は我等のモノ。勝手に連れ出されては困ります。まあ此奴は従順で愛い奴でございますから、その身体で素晴らしい情報を持って来てくれます」
「……アゾビズ、渚に何を」
「御安心下さい、彼女の意思ではありませんよ。彼女の身体は我等の一部で染まっているだけ。中々に骨の折れる行為ですが、楽しくもあるものですよ。毎夜毎夜、貴女がいないとき……三年も掛けたある種の魔法ですな」
醜い、男の肉欲を感じさせる笑み。その意味を、言葉の真意を信じたくない千春は思わず渚を見てしまう。同情、怒り、不信、そして普通なら感じる事すら有り得ない僅かな侮蔑。だが、渚の異能は千春の小さな表情の変化と瞳の色を捉えてしまう。
渚にはっきりと絶望が浮かんだ。そして千春はすぐに後悔する。
「違う! 違うの、渚‼︎」
俯き、ポタポタと涙が溢れる渚はもう千春を見ていない。
「さて、千春殿。障壁を解いてください。話し合いましょう」
「ふざけないで! よくも渚を……」
「ほう、此れは困りましたな……ふむ、では渚よ。この三年間の素晴らしい思い出を千春殿に丁寧に教えるのはどうだ。隠しては駄目だぞ? お前の気持ちも、感覚も、記憶している情景も、吐いた言葉も、全てを千春殿に伝えるのだ」
既に異常な段階だった渚の震えが、見るに耐えない程になった。愛する人に、下劣な行為を行なった男達の前で吐露する。そんな事が出来る訳がない……だが強い呪縛は渚の心を塗り潰して行く。
「わ、わた、私は、初陣、の前の晩に……」
「分かった! 分かったわ‼︎」
渚の精神が狂うと分かってしまった千春は思わず叫ぶ。
「渚、止めろ。くく……そうですな、千春殿には渚と同じ体験をして貰いましょうか。この日を夢見てきましたが、まさか叶う日が来ようとは。貴女が従順である限りは渚は無事だと保証しますよ。さあ、障壁を」
周囲の男達にも下衆な笑みが浮かんだ。
千春にも絶望が襲う。どれだけ魔力が強くても、心を鍛えられない。いや、鍛えてどうにかなるモノでもないだろう。
だが……誰もが予想出来なかった事が起きる。そのアゾビズの言葉を聞いた渚が何かを決意したのだ。ボヤけた頭の中に言葉が響いた。
薄汚い奴等が千春に触れる? あの言葉にするのすら出来ない醜い行為を?
そんなの、そんな事を許せる訳がない……
渚の、衣服に隠された肌に青白い血管が浮き出る。ドクドクと異常な早さで脈動し、経験した事のない悪寒が襲った。直ぐに意識は消え掛かり、視界は暗く狭まる。何より、皮膚を剥ぎ取りたくなる程の気持ち悪さが全身を襲うのだ。瞳は充血し、今にも破裂するのではと錯覚する。
五秒、いや三秒でいい……
気が狂いそうな、いや半分正気を失った渚は、それでも力を振り絞る。
千春は、私の、全てーー
だから、ボソリと呟いた。其れすらも苦痛を呼ぶ。
「……歪め」
ナイフ形態からハンドガンへと変形したカエリー。渚は自らの顎へ銃口を向けて笑う。噛み切ったのか口元からは血が滴った。呪縛は変わらず苛んでいるのに、渚は笑ったのだ。アゾビズも慌てて止めるタイミングを失った。
「千春、今までありがとう。貴女は帰って」
「馬鹿な! 呪縛をどうやって! くっ……渚‼︎ 命令だ! カエリーを捨て……」
間に合わない。
簡単に引き金を引くだろう。渚が自らの死などに頓着しない事は十分に分かっていた。だから、千春もあっさりとすべき事を行動に移した。主人から死を遠ざける役目を負ったカエリーで自死出来るかは不明だったが、万が一を許せる訳はない。
叫ぶアゾビズ達の視線が渚に向かった瞬間、千春は真後ろに魔法を放った。其れは爆裂の魔法で、広間の壁に向かう。
爆発……凄まじい轟音と共に、爆風と瓦礫が飛んでくる。そして千春は瞬間に障壁を解除した。障壁があると爆風も瓦礫も無効化されてしまうからだ。飛んで来た其れ等は千春を襲い、同時に身体ごと吹き飛ばした。
腹部、脚、肩に破片は突き刺さり、頭部にも当たったのか出血が始まる。千春は其れ等を無視して、浮き上がった身体を驚いた顔の渚に無理矢理に飛ばした。距離を殺したのだ。
柔らかくて小さな身体を抱き留めると、飛ぶに任せて壁に激突。やはり障壁は張らない。愛する妹を弾いてしまう可能性など認めないからだ。だから当然に千春は自らをクッションにして渚を庇った。此れらは瞬きすら出来ない一瞬の出来事だ。
「な、なんだと⁉︎ 千春! 貴様!」
千春殿呼びも忘れ、アゾビズは叫ぶ。残りの奴等もふき飛ばされたのか、それぞれが倒れて呻いていた。
そして直ぐに広間に淡い光が漏れ出した。逆召喚の第一段階だ。同時に空間は障壁に似た半透明の壁に覆われる。この瞬間誰一人として広間から脱出は出来なくなった。飛ばされながらも行使した千春の魔力の結果だ。
「おのれ! 貴様ら何をしている! 早く止めろ‼︎」
だが其れは不可能だろう。千春の更なる魔法が放たれたのだから。渚を傷つけた奴等を許す訳がない。
「魔法など、躱してくれ……なっなに⁉︎」
其れも不可能だ。
今まで当たり前に撃っていた光線ではなかった。見た目は薄い白い板、だけれど内包する力は憤怒した千春の魔力。その板はゆっくりとマーザリグの連中に迫ってくる。広間は閉ざされ、逃げる場所などない。魔法の板はピッタリと隙間を覆い、少しずつ近づいて来た。触れなくても分かる酷く暴力的で、見た目に反した恐ろしい魔法……
「な、な……」
ゆっくりと進む。まるで恐怖を煽るように、渚の苦しみを知れと。
千春は床に仰向けになった渚を覆う様に両手をついた。長い髪が垂れて、サワサワと渚の頬を撫でる。
「渚、もう大丈夫よ。怪我はない?」
そして笑顔を浮かべ……
赤く染まった身体をそのままにしてーー




