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海人の漁火

作者: 宍戸浩

 

 

 アマノイザリ―「海人の漁火」と書く。夜、漁師が魚を集めるために線上で焚く火のことだ。

墨をべっとり塗ったような暗い海上で一つポツンと明るく灯るそれは魚でなくても無性に惹きつけられる何かがある。剛にとって親父はそんな「海人の漁火」のように明るく人を魅了する存在だった。町で一番の人気者周りにはいつも光に誘われた魚のように人が集まり、笑い声が絶えなかったことを記憶している。


 だが、そんな親父は一か月ほど前に死んだ。

 

 親父と言っても実の父親でも、かといって継父でもない。ただ「親父」という呼称のほかに彼を表現するのにぴったりな言葉が剛の貧困なボキャブラリの中では見つからないからそう呼んでいるだけだ。だが実際、漁師仲間も町の人も彼を「親父」と呼び慕っていたから、やっぱりそうだったのだろう。

 剛と親父が出会ったのは約十二年前。養護施設での酷い扱いに耐えかねた剛は身一つでそこを逃げ出した。剛は当時十歳。食料も十分でなく弱り切った彼に晩秋の冷え込みは容赦しなかった。そしてとうとう剛は行き倒れた―そこに通りかかったのが親父だった。


 その時のことは今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。波止場に無造作に置かれた冷たいテトラポットに身体を預けて空腹と疲労で虚ろな剛に親父はこう言った。「メシ食うか。」頷く自分に親父は「ん。」と顎を引いた。ついて来いという意味らしい。かくして剛は親父の家に住み着いた。学校には行かず、朝から晩まで親父の漁を手伝うこと早十二年。町の人が親父の後継者と認めるほど剛は確かな腕前と経験のある一人前の漁師になっていた。親父もそう感じていたのだろう。ここ数年は町の伝統である一人で行う漁を剛にさせる機会も多くなっていた。剛が漁を終えて波止場に帰るのを親父が一升瓶片手に大柄な体を揺すり高らかに笑いながら出迎える光景も大して珍しくないものになっていたのだ。

 

 親父が死んだのは冬終わりかけの寒い日だった。町の集会への出席を剛に押し付け、親父は一人で夜釣りに出かけた。そうしてそれっきりだった。漁師仲間が光を灯す親父の船に平生とは違う何か不吉なものを感じ、声をかけたらしい。が、返答は無く、不審に思って船に乗り移ったところ、甲板の上で冷たくなった親父を発見した。豪快で騒がしい親父にしてはやけにあっけない最期だったが、海をこの上なく愛していた親父らしいといえばらしかった。会場から溢れ出る通夜の参列者の一人がこぼした「親父はきっと海に帰ったんだねえ。」という言葉にも確かに頷ける。

 

 そんなことを考えながら剛は仕事終わりの一服をしていた。春と言ってもまだ肌寒い。煙草のけぶりをべたつく潮風がさらっていった。波の音だけが静かに波止場を満たしている。

「剛。」

不意にそう呼ばれて剛は振り向いた。立っていたのは親父の一人息子の洋平だった。洋平は全くと言っていいほど親父に似ていない。恰幅の良い赤銅の肌の親父と違い、洋平は線が細く、虚弱体質で、日光アレルギーのため病的なまでに白かった。その体質のために彼は早々に家業を継ぐことを諦め、今は弁護士を目指して大学に行っている。

 洋平は性格も親父に似ていない。傷つきやすく、卑屈で攻撃的な所がどこかあった。剛が住み着き始めた時、三つ下の彼は隠そうともせずに敵意を露わにしてきた。体質のせいで町の同級生たちから馬鹿にされてきた彼がそうなるのも無理はない。そんな彼の唯一の心の支えは「親父に息子である」ことだった。

「早くメシ。腹減ったんだけど。」

横柄な態度でそれだけ言うと不機嫌そうに踵を返す。親父が死んでからというもの洋平の剛への当たりは日増しに強くなっていった。剛には正確な身元というものがない。孤児である彼は親の顔を知らずに育ち、養護施設も逃げ出したため、何千、何万と言われる失踪者の一人でしかないのだ。そのことが自らの生まれを誇りとする洋平に酷く優越感を与え、剛への蔑みを助長する。二人のやり取りを見ていた漁師たちの一人が洋平に何か言おうとしたが、剛は黙って首を横に振った。

 

 「もうすぐ四十九日かぁ。」

ある日漁を終えた剛に顔見知りの漁師がポツリと言った。言われてあっと気付く。親父が死んでもうそんなに経つのか。

「送り火しなきゃな。」

伝統的な漁で生計を立てるこの町には死者の四十九日には家の門の前で火を焚き死者をあの世へ送る風習が未だに残っている。夜、潮風に吹かれながら沖からそれを見ることが何度かあったが、さながらそれは「海人の漁火」のようであった。

「時が経つのは早いなぁ。お前さんがこの町に来てから十二年もなるんだから、四十九日なんてあっという間か。」

頷いて眼前の海に想いを馳せていると、漁師が思わぬことを言った。

「ゴウ、四十九日が終わったら、ウチの子になんねえか。」

「ゲンさん?」

吃驚して聞き返す。するとゲンさんはいつになく難しい顔をして剛を見つめた。

「ゴウ、お前は町の誇る漁師だ。一人前の漁師なんだよ。そんなお前が親父の世話になったからとなんで洋平の面倒まで見なきゃならない?

最近ますますあいつのお前に対する態度は悪くなってきている。とてもじゃないが見ていられんよ。お前はよくやっている。もう十分じゃないか。お前は親父の後継者だがこの町の、俺らの息子でもあるんだから。」

聞いたとき単純に嬉しいと思った。皆、自分のことをそんな風に思ってくれていたのだと。だが、その申し出を引き受けることを考えたとき、剛の胸にはジワリジワリと何とも言えない暗い感情が広がった。ゲンさんの提案は有難い。引き受けろと誰かが頭の中で囁く。にも関わらず剛の口は石でできたように返事ができなかった。そんな風に固まってしまった剛にゲンさんは笑ってゆっくり考えればいいと言った。親父の居た家を離れるには寂しいもんなとも。

「大体、洋平は親父の息子、親父の息子のだって威張り腐ってやがるが、お前のほうがよっぽど親父の息子らしいよ。洋平が本当に親父の息子かどうかなんて怪しいもんだよ。」

ゲンさんの苦々しい発言に剛は再び驚いた。


「洋平は親父の息子だろ?」

「良くわからん。親父の奴、ある日フラッと街の外に出て行ったと思ったら赤子の洋平を連れて帰ってきた。聞いても俺の息子だとしか答えん。噂じゃ昔の女との間にできた子だって話だ。」


 だから洋平が本当に親父の息子かどうかなんて誰も分らんのさ、とゲンさんは続けた。そういえば親父は洋平が自分の母親について聞くと、いつも必ずちょっと寂しそうに笑いながら「いい女だった。」とだけ口にしていた。

 

 なんだかとんでもないことを聞いてしまった気になりながら剛は自分の部屋として使っている離れの網小屋に戻った。十八の歳に剛自らがそう望み、それ以降そこが剛の生活の場である。洋平が今日は友人の家に泊まると言っていたのを思い出し飯の準備の前に網の修繕でもしようと決めた。そこではたと気付いた。最近船の調子がおかしいからと非常事態に備えて道具を一式船に置いてきてしまった。出鼻を挫かれた気になって後ろに倒れこむ。シミだらけの天井を見つめて数分が経過した。埃っぽい部屋の中で年季の入った時計の音だけがチッチッと響く。

 

 そういえば親父の部屋に道具箱があったなと上半身を起こした。親父の存命中は決して触らせてくれなかった。わざわざ剛に道具箱を一つ与え、自分の道具箱を使わせないようにしていたほどだ。母屋にサンダルを脱いで上がると、奥にある親父の書斎に進む。書斎と言っても大したものじゃない。漁関係の本以外には本といった本はなく、道具や酒瓶が乱雑に転がる部屋。親父の死後もそこはそのままになっていた。薄く積もった埃だけが時間の経過を教えてくれる。果たして親父の道具箱は机の上に置きっぱなしになっていた。それを抱えると剛は網小屋に引き返した。塗装の剥げた箱を床にそっと置き、表面の埃を拭う。少し躊躇してからそれを開けた。何てことはない普通の道具箱だ。探していた裁縫道具のケースを箱から出したとき、箱の底に薄茶の紙の端が見えた。慎重に取り出すと、その正体は封筒だった。首を捻りながら中の便箋に目を通す。


 そこに書いてあったのは剛が全く予想しないことだった。


 苦しいと感じてやっと自分が息をしてなかったことに気付く。それは剛の息を止めるには十分であった。だって信じられるだろうかこんなこと―洋平と親父は血が繋がってないだなんてことを。

 


 手紙の差出人は洋平の実の父親であった。母親は洋平の出産で命を落とし、自分も末期癌で余命幾ばくもないから息子を頼むという簡潔な文章のあちこちのインクが滲んでいる。きっと親父はこれを読んで涙したに違いない。便箋は二枚あって、二枚目は洋平にあてた手紙だった。ことの経緯と先立つことを許して欲しい、愛しているという言葉に彼の父親の思いが痛いほど伝わってきた。心底羨ましい、と思う。自分は実の両親に愛されたかなんて分からない。多分愛されていなかったのだろう。冬に段ボール箱に入れられて施設の前に捨てられていたのだというぐらいだから。

 手紙を読み返すうちに剛はあることに気が付いた。親父にあてた手紙の中で、洋平の実父は十八になったら彼への手紙を渡して欲しいと書いてある。洋平は今年もう二十歳だ。便箋の端が丸くなっていることから手紙の存在を忘れていたわけではないことは容易に想像がつく。ではどうして親父は―その答えはすぐに出た。親父は事実よりも洋平の心を選んだのだ。「親父の息子」であることが全ての彼にもしこの恐ろしい事実を告げたならどうか。これが親父の愛情なのだ。見なかったことにすべきだと思いながらも剛の胸の内には得体の知れぬどす黒い感情がゆっくりと広がった。

 ひょっとして、ひょっとしなくてもこれは好機だ、いつも自分を蔑む洋平に意趣返しする。散々ひどく言われ続けてきたのだ。そろそろ報われてもいいはずだ。この手紙を見せるだけでいい。洋平の父親は彼に真実を告げることを望んでいた。その願いを叶えるだけだ。言い訳じみた考えが剛の脳をよぎった。結局剛はその便箋を箱に戻すことはしなかった。網を繕う間中このことが頭から離れなかった。

 

 「ゴウ、どうしたボーっとして。」

町の集まりの最中にそう声を掛けられ、剛は我に返った。何でもない、大丈夫だと答えると、すぐ近くに座っていたばあ様たちがからかってきた。

「ゴウちゃん、珍しく考え込んじゃって。好きな娘でもできたんじゃないの?」

「違えよ、ばあちゃんたち。」

まさか洋平のことを打ち明けるわけにもいかず苦笑いで返すと、

「面白くないわねぇ。折角いい男なのに。」

ちょっとゴリラみたいだけど、と余計な一言が付け足される。この類の話は苦手だ。早く家庭を持ちなさいと言外に言われているようで、落ち着かなくなる。まだ二十二だよ、俺はと心中で呟くと剛は曖昧に笑った。

「ところでおっちゃん、俺明日は仕事休むから。。」

話題をすり替えるために漁師仲間を振り返りながら剛はそう声をあげた。ああ、四十九日だったなとその場にいた大半が頷く。

「洋平ももちろんその場にいるよな。」

誰かがそう口からこぼした。その言葉に少し棘のようなものを感じた。

「大丈夫、あいつは親父の息子だから。」

剛がそれを祓うようにニッと笑うとそうだなと場の空気がユルリとほどける。そうして何もなかったかのように話し合いが再開された。

 

 「洋平、今日は四十九日だから早めに帰って来いよ。」

大学に向かう洋平に玄関先で剛は声を掛けた。

「はあ?」

あからさまに不機嫌な声の洋平。親父の葬儀は終わっただろうという彼に剛は町のしきたりだから頼むと頭を下げた。

「面倒くせぇ。」

フイと顔を背けると洋平は毒づいた。

「大体なんだよ、送り火って。街のしきたりだとか古臭いことぬかしやがって。そんなもん大事にしてっからこの町は遅れてんだよ。年寄ばっかのこの地域には未来なんてねえよ。馬鹿みてぇ。」

歩き出した洋平の前に剛は無言で立ち塞がった。

「のけよ。」

「もっぺん言ってみろ。」

腹の底から静かに吐き出す。空気が一気に凍った。

「送り火は親父が大切にしてきた街の伝統だ。」

お前には言って欲しくなかった。家族たる、血族たることを親父に許された洋平、お前だけには。胸の奥に沈めていた暗く重い感情に火が付き一気に燃え上がった。

「なんだよ。」

おびえたきった眼差しで洋平は剛を見つめる。剛は洋平にたいしてほとんど怒ったことはなかった。だから洋平は剛に対して高圧的になれたのだ.。百八十センチを優に超す鋼のような隆々とした肉体の剛を前にして、洋平はその怒気に気圧されているようだった。

 


 そんな彼を前に剛には怒りとは違う感情が芽生えていた。今、こいつにあの手紙を叩きつけたのならどうだろう、と。どんな顔をするだろうか、俺が日頃受けている屈辱は知れるだろうか。喉の奥でごぽりと生まれたそんな考えに任せて剛は手をポケットに滑り込ませた。擦れて丸くなった封筒の輪郭を指の腹でなぞる。手紙を掴んで引き出そうとしたが、何故だか手が動かなかった。

「早く帰ればいいんだろう。」

下を向いてきつく唇をかみしめた洋平はそう言い残すと、逃げるように家を出て行った。洋平が去ったあと、剛はしばらく動けなかった。体の力が抜け、その場にしゃがみ込む。自分は今何をしようとしていたのかと考えようとしても頭がうまく動かない。瞼を閉じると遠くで潮の喧騒が聞こえた。そうして剛は長く低く息を吐いたのだった。

 

 意外にも洋平はまだ明るいうちに帰ってきた。送り火の用意を二人がかりでする。この町で長く行われている送り火は人の背丈ほどの支柱とその上に取り付けられた籠を使う。この籠は昔の海人の漁火の名残らしい。納屋の奥にあった用具一式を引っ張り出して家の前に置いたころには、日はもう暮れていた。遠くで夜の漁を行う船の明かりが黒い水面に浮かんでいる。マッチを擦って籠に放り込むとゆらゆらと静かに燃え始めた。洋平と送り火を挟んでただ眼前の海を眺める。こちらの世界と向こうの世界で炎が揺らめく光景は幼いころに見たそれとは同じようで違っていた。綺麗だというにはあまりに重い虚無感が、かつては感じなかった深い思いが剛の周りの空気をひどく沈めているのだ。潮風に頬を撫でられながら、剛はそこに縛られたかのように立ちすくんでいた。


「一緒に船乗りたかったな。」


 ポツリと洋平の口から転がり出た言葉に剛はハッとした。炎に赤く照らされた横顔からしてきっと誰かに聞かせるつもりはなかったのだろう。ただ、それは彼の本心であった。自らの体質のために親父の後継者になれなかった少年。そんな彼を守るために、親父は得意でなかった嘘を生涯をかけて突き通したのだ。

「ああそうか。」

なんだか泣きたいようで笑いたいような気持ちになった。それと同時に心の中にかかっていた霧が晴れ渡っていくのを感じる。ズボンのポケットに手を突っ込み、例の封筒を取り出して一瞥すると、剛は暖かく揺れる火の上にそれをおいた。薄茶色の紙は端からジワジワと黒くなって形を変えながら途中でクシャリと丸まって燃え続けた。

「なんだそれ。」

「お前には関係ないやつ。」

いつか洋平が事実を知る日が来るかもしれない。でもそれは少なくとも今じゃない。大事なのはその時洋平の秘密を剛が知らなかったという彼にとっての真実なのだ。だから今はこれでいい。手紙から出た煙が白い一本の絹糸のように濃い藍色の空に吸い込まれていく。剛はふと親父の顔を思い浮かべた。親父は今の俺を見たらどういう反応をするだろうか。親父ならきっと笑ってくれるに違いない。



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