噂話の中ボス「ワハハハ現れたな勇者ども」勇者噂話「こいつを倒して名を上げるぜ!!」噂話の仲間達「オーッ!」
「おじさまー! おさかなとモロコシを交換しませんかー?」
十日程前、マリーがまだヤシュムから南西の沿岸でアルバトロス船長を探し回っていた頃の話。
ストーク王国の首都イースタッドは北緯60度近くの、大小様々な島々からなる海洋都市であった。
高緯度地域ゆえ、十月ともなると真昼でもあまり太陽が高く上がらず、当然気温も内海などと比べればかなり低い。
ストーク王国の宮廷は憔悴していた。レイヴンから外交特使が来たのだ。
それは、にわかに降って湧いた災難だった。
特使は言う。
ストーク人貴族が内海で暗躍し、レイヴンの高等外務官の活動を著しく妨害し、各地で地元王朝とレイヴンの関係を悪化させた。その男はしまいには、凶悪な海賊を使い、高等外務官を身代金目的で誘拐したという。
その為にレイヴンは外交戦略に大損害を受け、金銭的にも大きな犠牲を払う事になったのだと。レイヴンはストークに損害賠償を突きつけて来た。その総額は金貨76万4千枚に及ぶ。
「実際に我が国が被った損害は金貨数百万枚に相当するのだ。この事件はターミガンに身代金を払って終わりという問題ではない。レイヴンは内海におけるターミガンとの交易利権の多くを、旧世界諸国に奪われる可能性がある。それを防ぐ為にどれ程の資金が必要だと思う? この金額は十分、貴国との友好に配慮したものである!」
レイヴンの外交特使ダグラスはそう言い切り、胸を張る。
「しかし……我が国には本当に心当たりが無いのだ、そもそも……そのグランクヴィストという男がストーク人だったとして、それだけで我が王国がその責務を追うというのは、いささか理不尽ではないのか」
ストークの宰相エイギルは穏当で聡明な人物ではあったが、苛烈な戦術を駆使するレイヴンとの外交に当たるには少々優し過ぎる人物でもあった。
「私は外交特使に過ぎず、一個人としては同情する所が無いでもない。しかし。この件に関してはレイヴン政府のみならず、諸外国、民間、多くの有力者が、ストークの関与を疑っているのだよ。私一人を説得した所でどうにもならぬ」
ダグラスは気の毒そうに肩をすくめて見せる。
「それに……金額が大き過ぎる……我々は貴国のような大国ではない、こんな金額はすぐには捻出出来ない……」
「支払いの方法については、交渉の余地がありますぞ。分割でも結構。相応の金利をいただく事になりますが。もしくは……以前よりの懸案事項がいくつかありましたな。アルテアン港、レンホルム港の割譲は如何ですかな?」
「その二港は……我等が祖先が極北の海に苦心して開いた……」
「しかし、貴国の財政の足枷にもなっている。そうでしょう? そこにレイヴンの旗が登るだけですよ。貴国の財政は改善し港もこれまでと同じように使える。船主からしても、港湾使用料を払う相手が変わるだけ、何の問題もありますまい……それとも? シーグリッド姫を我が王室にお迎え出来るのであれば」
「待たれよ! それは王の臣下である私が承る話ではない! ……とにかく、この場で簡単に御返事出来る話ではない……少し時間を頂きたい」
レイヴンは事あるごとに、別ルートで新世界へ到達出来る可能性を秘めた極北の離島の二港や、国王の愛娘シーグリッド姫とレイヴンの王子の縁談を持ち出して来る。特に後者は、将来レイヴン王室の血にストーク王室が乗っ取られてしまう危険を秘めている。
今やレイヴンとストークの国力の差は10倍以上。地理的にもストークから見て泰西洋への出口に鎮座するレイヴンには、真っ向から逆らえるものではない。
「なぜ……このような事に……」
グランクヴィストと言う人物の事は、現時点ではストークでは何も解っていなかった。
マクシミリアン・ロヴネルはストーク海軍提督としては最も若く、最も新任の提督であったが、同時にストーク海軍の中では最も多くの戦歴を持つ艦長でもあった。
長身で肩幅の広い堂々たる体格、その勇猛果敢な指揮ぶりは、ストークの人々の先祖で、かつては北大陸一帯から内海全域まで進出し交易と略奪を繰り広げた恐怖の海洋民族、ヴァイキングの精神の結晶であるとも評される。
ただ、その噂は本人の派手な戦歴と、むやみに人前に出る事を嫌う性格が災いして一人歩きしている部分もあった。実際のロヴネルは寡黙な銀髪の美丈夫で、宮廷の庭園の片隅のベンチで本を読んでいても……それがストークきっての豪傑の一人だとは皆気づかない程だ。
気候的に日光に恵まれないストークの人々は、庭園の緑を愛する。それは内海あたりの人間に言わせれば病的な程で、イースタッドは街も宮殿も庭園だらけだ。
ロヴネルは本に夢中になっていた。艦隊を連れてイースタッドに戻った所を宮廷に呼び出され、渋々来れば来たで宰相が留守なので待てと言われ……かれこれ二時間もここで暇を潰している。
彼が読んでいる本は自分で持って来た本ではなかった。宮廷のホールの棚に置いてあった本だ。本なら何でもいいと彼が手に取ったのは、アイビスのどこかを舞台にした、貴族の娘とそのメイドの織りなす騒がしい小噺の本だった。
その内容は正直に言ってかなり下らないものだったが、他にする事のないロヴネルは真面目に読み耽っていた。彼が座っている椅子の、テーブルを挟んだ向かいの椅子に、主君であるストーク国王の愛娘、シーグリッド姫がそっと座っても気づかない程に。
ストークは小国であった。国王の愛娘であるお姫様が臣下の提督の真向かいに座っていて、提督がそれに気づかずに本を読み耽っているのに、誰も注意してくれない程度には。
シーグリッド姫は15歳、まだまだ遊び足りない、子供心の抜け切っていない年頃ではあったが、その美貌の噂は海を越えレイヴンやアイビスにも到達していた。
悪戯好きの姫は、静かに、ただじっと……本を読むロヴネルの姿を、微笑みながら見つめていた。
ロヴネルと本の間を、ひらひらと紫色の蝶が通過する……ロヴネルは一瞬、視線を上げた。
「シーグリッド様!おいでとは気づきませんでした!」
ロヴネルは慌てて本を閉じ、椅子から立ち上がり居住まいを正す。
「読書の邪魔をしてごめんなさい……ストーンハートの物語ですのね。私も読みましたの。如何かしら」
やや桃色がかった長い銀髪、白く透き通る艶やかな肌、青い瞳。ストークの女性としてはやや小柄な姫君は、子供らしく悪戯っぽく笑い、口元を抑えた。
ロヴネルは少し困ったように目を伏せて答える。
「正直、武骨者の私には理解出来ませんでした」
「私もそういう感想になりましてよ。ふふふ……」
宰相エイギルは、そこにやって来た。ストークには合理主義者が多いとは言われるがエイギルもその一人で、彼は一頭立ての二輪馬車を自分で操って移動するし、馬が粗相をすれば自分で片付ける。
「ロヴネル提督。すまない、随分待たせてしまった……」
停車場に馬車を停め、ブレーキをかけ、エイギルは少しゆっくりと近づく……傍らのシーグリッド姫が立ち去る時間を作ったつもりだったのだが。姫は立ち上がって会釈をすると、またそこに座ってしまった。
仕方なくエイギルが手でロヴネルを招く仕草をすると。ロヴネルは来たが、姫もついて来てしまう。
「シーグリッド姫……誠に恐れ入りますが、ロヴネル提督に話したい事がございます故……」
エイギルは溜息をつき、ついにそう言った。
「構いませんわ、どうぞお話になって」
「それは……」
「ここは私の家の庭ですのよ。私が居てもおかしくないわ」
エイギルはロヴネルの方を向いて、黙って庭園の外を指差す。
「エイギルおじさま!」
ストーク王国の王女シーグリッド姫は、臣下の宰相と提督の前に回り込み、両手を広げる。
「そんな意地悪をしないで! またレイヴンの使者と会われていたのでしょう? レイヴンの王子様はどうしても私を妃に欲しいのかしら?」
「姫……はしたのうございますぞ……」
エイギルは片手で頭を抱え、溜息をつく。
シーグリッド姫は薄笑いを浮かべる。
「私にも聞かせて。エイギルおじさま」
「閣下。私からも御願い致します。シーグリッド様の身にも関わる事であれば、尚の事」
「提督……貴公までそのような……」
ロヴネルが言い添えるとエイギルはお手上げという仕草を見せる。
「姫はまだ15歳、陛下も今、姫を手放す事は全く考えておりません。ですが……今回はレイヴンに何らかの返事をしなければならない。そこで、ロヴネル提督」
エイギルの言葉から何かを感じ取り、ロヴネルは直立不動の姿勢をとる。
「貴公の乗艦ヒルデガルド号の他に、新型コルベット艦を一隻、後方支援用に古い船を二隻、その分の特別予算を配分し海軍に預ける……これは私と元老院が直々に保障する案件だ……恐らくは……内海で活動している同胞、フレデリク・ヨアキム・グランクヴィストを探し出し、イースタッドに連れて来て貰いたい」
エイギルは自ら持っていた鞄から、書類を取り出す。
「その人物について、現時点で解っている事はこれだけだ……彼がどんな人物なのかはまだよく解らないが、この男のせいで今我が国は窮地に立っている。レイヴンもこの男を捜しているかもしれない。必ず、レイヴンより先に見つけ出すのだ」
ロヴネルは書類の一つに目を留めた。それはシーグリッド姫の父、ヘルマン二世の署名の入った、フリデリク・ヨアキム・グランクヴィスト宛の召喚状だった。
――私がこの男を連れて来る事が出来なければ……
ロヴネルは傍らで微笑んでいる、シーグリッド姫を一瞥する。
――シーグリッド姫をレイヴンに差し出す事は避けられないのだろうな。
フレデリク・ヨアキム・グランクヴィスト……それが単なる偽名なのか、その名に何か意味があるのか。エイギルを初めとするストーク王国の廷臣も、国内での調査に勤しむのだが、目ぼしい成果は上がっていない。
ロヴネルを遠方に派遣するのは、ストーク宮廷にとっては窮余の賭けの部類の策だった。その行動自体をレイヴンに咎められる可能性もあるし、ストークには内海での調査を行う為の独自の資源がほとんどない。
その中で、ペール海の守護者たるべきロヴネルを派遣しようというのだ。
「提督が羨ましいですわ! 私もロヴネル様の船に乗って、フレデリク卿を探す旅に出られたら、どんなに素敵かしら……」
シーグリッド姫はうっとりと目を閉じる。
エイギルとロヴネルは顔を見合わせ、苦笑いを交わす。




