マリー「ひえっぷし! ひゃっ、ひゃっ、ひゃっーぷしっ! 誰だよもう! へくしっ!」
書いてみた。
フェザント北西部の港湾都市ジェンツィアーナ。
同国海軍のコルベット艦アキュラ号は、港の少し外で投錨していた。
ジェンツィアーナの港に面した立派なホテルのレストランで、フェザント海軍艦長ジェラルド・ヴェラルディは二枚目のステーキを食べていた。つけあわせの大盛りパスタも二皿目だ。
そのジェラルドの手がふと止まり、額を冷や汗が一筋伝う。どうしても腹が減って仕方がないので、彼は待ち合わせの相手が来る前に食事を注文したのだが。その懐にあるのは銅貨が数枚で、この食事の勘定には全く足りない。
そんな事を考えていると。レストランの支配人、もしくはホテルのフロントマンという雰囲気の、きちんとした身なりの男がジェラルドに近づいて来る。
「御客様。ヨハン・トライダー様が御到着なされました」
「あ、ああ! 本当に待ち詫びたぜ、通してくれ」
ジェラルドは凄みのある笑みを見せ、立ち上がる。入り口の方から小柄なウエイターが、ジェラルドと同じくらいの背格好の金髪の貴公子を案内して来る。
「約束の時間に遅れて申し訳ない。アイビス王国のヨハン・トライダーだ。御足労をお掛けした事、重ねてお詫び申し上げる」
「なあにいいって事よ、俺達フェザント人とアイビス人は誰でも友達のようなものだ! そうだろう? ジェラルド・ヴェラルディだ。宜しくな!」
普段はそこまでフレンドリーでもないジェラルドは、自らヨハンの為に椅子を引きながら手を差し出し、握手を求める。
「そう言っていただけると有り難い……私の国の事情に過ぎない案件で、フェザント海軍艦長の貴殿に御足労いただいたのだから」
「いいんだいいんだ、フェザントのパスタは好きか?お前も何か頼むといい」
握手をした両者は席に着く。
「早速で済まないんだが……」
「待て待て、フェザントではこの場合先に一杯飲むのが普通だ。まあこの辺りはともかく、俺の育ったジニアではそうだ」
レストランのソムリエがワインのボトルを二つ持って来る……ジェラルドの額をまた冷や汗が伝う。どちらかを選べというのだろうが、どちらもかなり高価な品だ。
何とかしてこのアイビスからの客に全額勘定を持ってもらいたいのに、勘定自体があまりに高額になるのはまずい気がする。
「折角だから俺の故郷のやつを試して貰いたいね、ジニアの『小さな居酒屋』は無いか? ある? 良かった、それをくれ」
ジェラルドはそう言って、別段好きな訳でもない故郷の安ワインを注文する。そして話を少し長引かせる為、自分の方から質問する事にする。
「アイビス国王陛下直々の案件って聞いたけど本当か? 凄いじゃないか。俺は12歳から海軍に居るが、自分とこの国王なんて遠目にすら見た事もねえ」
「ああ、風紀兵団という国王直属組織の組織があってね……これは国王に直接お目通り出来る代わりに、恩給が一切出ない。忠誠心で腹を満たせというやつだ」
ジェラルドは息を飲む。冗談じゃない。まさかこの男も金がなくて、自分の勘定をあてにしていたりしないだろうか。そこまでじゃなくても、当たり前のように割り勘と言ったりしないだろうか。
そんな事を考えている所へ、あまりこの店向きではない安ワインがやって来た。
「まァ、飲んでくれや……」
「有難う……どうかしたのか?」
急に元気の無くなったジェラルドに、ヨハンは本題を切り出す。
「私はその風紀兵団に属しているが、今回は別に国王から特命を受けて来た。ハマームに現れたフレデリク・ヨアキム・グランクヴィストという人物についての話なんだが」
ジェラルドは考える。この男は今何と言った? 風紀兵団だけど別に特命を受けて来た? ならば予算は出ているのか? 予算が出ているなら協力者に飯代くらい出せるよな? だけど、フレデリクの話をしないといけないのか。
「俺は司令からアイビスの客人に協力しろとは言われた。言われたがだな」
ジェラルドは単刀直入に勝負を掛ける事にして、余所見をしながら呟く。
「一般的な話として話すんだけどな。フェザント人の男に物を頼む時には、酒と飯を奢るといいらしい。まあ、俺はどちらでもいいんだが」
「そうなのか? 勿論ここの勘定は私が払わせていただく」
ジェラルドは立ち上がる。
「ソムリエさんよ! やっぱさっきのやつ二本とも持って来てくれ。よく考えたら『小さな居酒屋』がアイビスの友人の口に合うわけがねェ!」
「待ってくれ、私は気に入ったぞ。素朴で赤ワインらしい赤ワインじゃないか」
「あ、ああ、そうか。まあいいや、さあ! 何でも聞いてくれ!」
ジェラルドは上機嫌で座りなおした。
「ありがとう。まず最初に彼に会った場所を教えてくれないか」
「フォルコン号ってスループ艦の上だ、ロート海峡からパゴーニ島へ行く間だな」
ヨハンはノートを広げ、ペンを走らせる。
「貴殿がフォルコン号に乗り込んだ事情も伺って良いだろうか」
「そいつは臨検の為だった。臨検に到った経緯は誤解だったけどな」
「フォルコン号について教えて欲しい」
「教えろってあれアイビスの船だろ? マリー・パスファインダーつったかな」
それを聞いた瞬間、ワインを一口飲もうとしていたヨハンが盛大にむせる。
「す、すまんッ……ゴホッ……ゴホッ!!」
「やっぱり他のワインにするか?」
「違うッ……今マリー・パスファインダーと言わなかったか!?」
ヨハンは口元を強く抑えながら、テーブルの上に半ば身を乗り出す。
「え? ああ、あれだろ。フレデリクに見た目がちょっと似てる女」
「それだッ!! ゴホ、ゴホ、見たのか、どこで彼女を見たのだ!?」
「だからフォルコン号だって」
「かっ……彼女の様子はどうだった!? 元気そうだったのか? それとも……その」
ヨハンはようやく発作を押さえ込み、椅子に座り直し俯いて言った。
ジェラルドは目を細め、さも微妙という表情で天井を仰ぐ。
「ありゃ元気とはとても呼べねえなあ。青い顔して艦尾の柵にぶら下がってたぜ」
「何て事だ……! フレデリク、フレデリクは、彼女について何と……?」
ジェラルドは少し思案する。このヨハンという男の様子はおかしい。あまり何でもペラペラ話すべきではないような気がして来た。
そういえば。フレデリクは誰かに追われていて、追いつかれると殺されるとまで言っていたではないか。
「いや。俺もフレデリクもイリアンソスで降りたからな。フォルコン号に関してはそれだけだ。フレデリクもたまたま乗り合わせたんだろ」
過去のフレデリクの話をするのはいいが、今もフレデリクはフォルコン号に乗っている可能性があるのだ。この男に悪意が無かったとしても、フレデリクの現在に関わり得る情報は無闇に広めるべきではなく、そこは誤魔化してやるのが友人というものだろう。ジェラルドはそう思った。
「フォルコン号についてもう少し教えてくれ、船長はどんな奴だった? 次は何処へ行くと言っていた?」
ヨハンは尚も食い下がる。彼はまだマリーが船長だとは聞いていない。一方ジェラルドは相手がマリーの事を聞いているのだと思っていたが、正直に言ってその人物についてはほとんど彼の記憶に残っていなかった。
「いや……俺はほんの二晩乗ってただけだからな……あまり印象に残ってない」
「マリー・パスファインダーは何故その船に乗っていた!? 彼女と話したのだな!? フレデリクは彼女についてどう言っていた!?」
「あー、いや。フレデリクと顔が似てるから、それでちょっと話をしたんだ。それだけだ。あんな女が何故船に乗っているのか、それは本当にさっぱり解らなかった。フレデリクも同じ事を思ったと思うが」
ヨハンは「何故マリーが船に乗っていたのか」を聞いているのだが、ジェラルドはそれを「何故マリーが船長をしているのか」と聞かれているのだと理解していた。そしてその答えはジェラルドの価値観では全く解らない。
「君は彼女と彼が話すのを見たんだな!?」
「い、いや、話すっつってもだな、似てますね、そうですね、くらいの話をしただけで、別に友達になったりはしてねえぜ。何せマリーって女はずっと幽霊みたいに青い顔して、甲板の後ろの方でうずくまってるばっかりだったし」
ヨハンは頭を抱えてテーブルに突っ伏していた。
ジェラルドは困惑していた。自分は何か良くない事を言っているのだろうか。なるべく当たり障りがないように脚色したつもりなのだが。
「あのな……俺とフレデリクはその後別の船でハマームへ」
とにかく話を先に進めようとするジェラルド。ヨハンはいきなり顔を上げる。
「待ってくれ! まだフォルコン号の話が終わっていない、それはいつの事だった!? フォルコン号のイリアンソスの次の行き先は!? 大事な事なんだ、思い出してくれ頼む!!」
「待て、待て、フォルコン号のイリアンソスの次の行き先は本当に知らねえ。だがあの船が沿岸航路を回ってハマームを目指していたのは間違いない。俺とフレデリクはそれじゃ遅いってんで、別の船でイリアンソスから直接ハマームに行ったんだ」
このあたりは半ばウソである。ジェラルドはとにかく、フレデリクとフォルコン号は無関係という事にしようと思った。
「ハマームには……行ったと……」
「ああ、俺とフレデリクはハマームに」
「待ってくれ、フォルコン号だ。フォルコン号はハマームに行ったんだな!?」
「俺自身はフォルコン号が来る前にハマームを離れたが、後に他の船の奴から話を聞いた、フォルコン号は間違いなく八月の終わり頃のハマームに居たそうだ」
ジェラルドは当時の事を思い出していた。
フレデリクは何故ハマームで待たなかったのだろう。フォルコン号はハマームを目指していたのだから、フォルコン号に戻りたいならハマームで待てば良かったのに。
だが、フレデリクは追っ手を恐れていた。
しかし……大海賊ファウストもマフムード国王も、トリスタンみたいな化け物でさえも少しも恐れないあの小さな豪傑が、あんなにも恐れていた追っ手とは一体どれだけ恐ろしい奴なんだろうか。
世界にはまだまだ自分の知らない事がたくさんある。ジェラルドはそう思った。
「だが君はハマームではフォルコン号を見ていない、マリー・パスファインダーがそこに乗っていたかどうかは、解らないんだな……?」
「いいけどよぅ……お前フレデリクの事を聞く為に来たんじゃ無かったのか」
ブルマリン事件とその裁判の後、国王の信任を得たヨハンは正式な叙任を受け騎士となった。
それで俸給を受け取れるようになったのは良いのだが、国王の使い走りに出される事も多くなり、レッドポーチやヴィタリスには殆ど行けなくなってしまった。
その為ヨハンは、最近風紀兵団の平団員がヴィタリスでマリーを捕まえたものの、またしても逃げられてしまったという事を、まだ知らなかった。
ヨハンは何とか気持ちを落ち着けようと、ジェラルドが勧めたジニア産の安ワインを一気にあおる。
今回の任務はフレデリクの追跡調査、それは任務とはいえ楽しみにしていたはずだった。フェザントに彼と行動を共にした海軍士官が居ると聞いて来たのだ。
フレデリクの記憶に出会えると楽しみにして来たのに。ヨハンを待ち受けていたのは、もっと残酷な記憶だった。
「取り乱してすまない……フレデリクの話に戻ろう……」
ただでさえヨハンには海軍や船乗りの知り合いが居ない。
その上彼はマリーは船乗りにさらわれ、無理やり連れまわされていると信じ込んでいて、そういう視点でしかマリーを探していなかった。
だから彼には、マリー・パスファインダーが海で何をしているかという情報が一切入って来ないのだ。
「いや……こっちこそ。何か悪かったな」
ジェラルドはそう言ってワインを一杯飲み干し、おかわりを先ずヨハンのグラスに、次いで自分のグラスに注ぐ。
ジェラルドはマリーにはまるで興味がなかったので、ヨハンが何故狼狽しているのか全く解らなかった。
もっと面白くしたかった……




