エミール「この中で一番の男が、彼女と結婚出来るのだと……皆思い込んでいた」
ヴィタリスのマリー、故郷に帰る。
針仕事の元締め、オクタヴィアンさんの家は、石煉瓦作りの頑丈な建物だ。何百年も前の帝国時代に建てられた、由緒ある物なんだとか。
今のヴィタリスの人々は丸太と薄い板で家を建てる。私の家もそうだ。石煉瓦の家と木の板の家では、冬の暖かさが全く違うらしい。
「ああ。マリー君、暫くぶりですねえ」
「ご無沙汰しています、オクタヴィアンさん。これ……ジェンツィアーナの御土産です、良かったらアドリーヌちゃんに」
「ほう、有難う……悪く無い生地じゃないか」
悪くないどころじゃない。ジェンツィアーナで一般人が買える中では最高の絹織物ですよ、それにこれだけあればアドリーヌちゃんのドレス、三着は作れるんじゃないですか。
「マリーお姉ちゃん!」
その、7歳の女の子、アドリーヌちゃんが私を見つけて飛びついて来た。この子はわりと私に懐いてくれていて、この家では唯一の私の癒しだ。
「アドリーヌ、マリー君は旅から帰ったばかりだからね」
オクタヴィアンさんはすぐに、アドリーヌちゃんを私から引き剥がす。そうですね。埃だらけの私に抱きついたら、アドリーヌちゃんの服が汚れますよね。
「一休みしたらまたレッドポーチに戻らないといけないんですけど……私、来年にはきっと戻って来ますから。その時はどうか」
「勿論。君が16歳になったら何の問題も無いんだよ。その時は正式な御針子として雇ってあげる、そういう約束だからね」
私はお礼を言ってオクタヴィアンさんの家を出た。良かった。ここが一番心残りだったのだ。私が居ないからといって、他の人を雇われてしまったら困る。
「今日は泣かされなかったんだな」
そしてエミールとニコラは居なくなったのに、サロモンはまだ居る。さっさとどこかに、昼飯でも食いに行け。ヴィタリスのマリーは、昼飯を食べる事はほとんどない。
鍛冶師のベルナールさんにも道端で会えた。
「マリーじゃねえか、暫く見ないと思ったら随分大きく……なってねえな! ガハハハ! えっ土産? フェザント製の砥石か、こりゃ助かるぜ、重かったろうに」
建具師のゴーチェさんは文筆家のジェルマンさんちの扉を修理してる所だった。
「ようマリー、親父さんは見つかったか? そうか……ん? ジェンツィアーナの鉋? おいおい、いいのかこんな良い物貰っても」
「早くお父さんが見つかるといいねえ。私にもペン先を? 業物じゃないか……ありがとう」
割と世話になっている人には、御土産もいい物をはずませていただいた。
それからあっちで菓子、こっちで調味料……私は方々に物を配って歩く。
「お前そんな金どこにあったんだよ。盗んだ物じゃねーだろうな」
サロモンがまだついて来るけど、相手をしたら負けだ。まあ次の行き先は教会だ。説教嫌いのサロモンはその中まではついて来ないはず。
ヴィタリスの教会は、この村には過ぎた持ち物だと思う。何せ村人を全員集めても礼拝堂の椅子が満席にならないのだ。祖母の墓に花を添えた私は、その礼拝堂にも立ち寄る。
「マリーさん! ご無事でしたか!」
ここまでの他の村人より二周りは高いテンションで、ジスカール神父は駆け寄って来てくれた。
「トライダーさんがここに来て、貴女は船乗りにさらわれて何処かへ連れて行かれたと聞いたのです! 心配していたのですよ! 元気そうで何よりです……マリーさん、本当に、王立養育院は貴女が考えているような場所ではありません、素晴らしい場所なのです……考え直してはいただけないのですか」
私はこの人を苦手にしているものの、たくさん世話にもなってしまっている。どうしても食べ物が無い時はここで食べさせて貰ったし、トライダーから逃げるのに匿って貰った事もある。母が出て行った時、父が帰って来ない時、何かにつけ私はこの場所を頼って来た……その割に私はあまり信心が厚くはないのだが。
「船乗りに誘拐されていたというのは大きな誤解です。私は父の船で面倒を見ていただいてます。ちゃんと保護されています、だからどうか、ご安心下さい」
「そうなのですか……トライダーさんは真剣に悩まれておりましたよ……私に告解を求め、熱心に祈っておられました」
この話、聞かないと駄目なんでしょうか……出来れば耳を塞いでしまいたい。
「神父様。これは私の父からの寄進です。私が救われたように、ここを訪れる全ての人が救われますように」
私はそう言って、コインが数枚と紙が一枚入っている封筒を差し出す。
「フォルコンさんは……見つかったのですか?」
「いいえ。ですが父の船の人々は、皆父がまだ生きていると信じています。ですから……私は明日にでもレッドポーチに戻らないとなりません」
「しかし……貴女はまだ15歳の女の子なのですよ? それはどうしても貴女が今やらなくてはならない事なのでしょうか? 王立養育院に行けば18歳まで、清らかで平和な場所で、学問と信仰の日々を過ごせるのですよ?」
私は一瞬、馬を駆り銃を撃つ自分の姿を思い出す。
「私も様々な人に支えられ、日々を生きております。私の行き先を決めるのは、その人々の想いと神の意思だと思います。私一人で決められるものではありません」
心にも無い事を言って礼を捧げ、私は教会を後にする。
私は教会の裏口から外に出た。サロモンは居ないわね? もうここで撒いちゃえ。
通りを忍び足で走る私。こういう事は上手くなったな私は。
そしてようやく、私は帰って来た。ヴィタリスの我が家。申し訳程度に積んだ石の上に建つ小さなボロ小屋。王国の衛兵さんの分隊駐屯地の並びにある、私の棲家だ。
「……ただいま」
引き戸を開け、私は中に入る。ああ……全てがうっすらと土埃を被ってる。
これでもフォルコン号の艦長室と比べたら倍くらいの広さはあるけれど、田舎の村の建造物だと思うとあまりにも狭い。オクタヴィアンさんちの物置より狭い。
とにもかくにも、私は家の開けられる所を全部開けて掃除をする。まあ出掛ける時にも綺麗にして行ったし、埃と蜘蛛の巣を払う程度でいい。
こんな所に四人住んでた事もあるんだよな。
それから、母が出て行って、十年間。祖母とここで暮らした。
私は三ヶ月前まで毎日寝起きしていた、藁のベッドに横たわる。ああ。私という動物の臭いがする。心が安らぐ……明かり取り用の小さな木戸の向こうに、青空が見える。九月の大きな雲が流れて行く。気持ちいい。このまま昼寝をしようか。
――トン、トン、トン。
誰かが戸口を叩く……なんだろう。私はベッドから起き上がる。
「マリーが戻ってると聞いたんだが。衛兵隊の礼装用チョッキのサイズ合わせを頼む、近々要るらしいんだ」
私はベッドから転げ落ちる。隣の駐屯地の分隊長のオドランさんは、たった今戻ったばかりの私に針仕事を持って来てくれた。
故郷は思った程センチメンタルではなかった。みんな日々の生活があるのだ。




