ニコラ「良かった、戻って来たんだ、もうどこにも行かないでくれよ……その時はそう思った」
戻って来たレッドポーチ。穏やかな、始まりの港町。
200kmばかりの海路を飛ばし、フォルコン号がレッドポーチに着いたのは翌日の朝だった。今回も私は船酔い知らず無しで耐えた! その代わり終始艦尾でぐったりしていたが。
もう海軍は追って来ていないだろうか? あれから一ヶ月以上経ってるし大丈夫だよね……?
そういえばそろそろリトルマリー号を返して貰えたりしないのだろうか。フォルコン号はいい船だけど、いい船過ぎて問題があるのだ。個人的には半々くらいの気持ちで、フォルコン号を返してリトルマリー号に戻りたい気がする。
「岩塩もバジルの油漬けも、買い手がつくかなあ」
「無理に売らなくてもいいんじゃない? 南大陸に持って行ってもいいし」
アレクと私がそんな話をしていると、ロイ爺が言った。
「船長……これからどうするつもりじゃ? こう言っては何だが、パスファインダー商会にはかつてない程の資産があるのではないのかね」
昔どのくらい持ってたのか知りませんが、今は確かにありますね、お金。パルキアが安全なら一度行って白金魔法商会の件を完全に解決してしまいたい。返済用のお金はちゃんととってある。
ナルゲスの乳香、ハマームの香辛料、ジェンツィアーナからハマームに持ち込んだ品物も結構な利益を上げたようで……何なら船を増やす事だって出来るのではないだろうか? そしてさらに内海で商売を続け、いつかは新世界や東洋世界を駆け巡る大艦隊の提督に……
「うっ……ぐぇ」
「ああ……大丈夫かね」
込み上げる吐き気が私を現実に引き戻す。今九月十二日だっけ。あと三ヶ月ちょっと。あと三ヶ月ちょっと頑張ったら私は海から解放されるんだった。
船酔い知らずの服があると言われましても……やっぱり、そんなの無しでも暮らせる陸に居るのが私には合ってるんじゃないでしょうか。
フォルコン号の皆さんは、ハマームで三日間歓待を受けたばかりだそうですが。
「今後の事ね。えー、数ヶ月間の話で言うと、貯蓄がある事に慢心せず、いたずらに商売を大きくしたりせず、地道な稼業を続けたいと思います。ここ数日の話でいうと、ちょっと一日か二日、私を陸に放していただけませんか、ヴィタリスという村に、もう三ヶ月も帰って来ない私の事を心配してる人々が居ると思うんです」
私は故郷を出る時、レッドポーチに行くとは言ったけどそのまま船長になるので暫く帰れませんとは言わなかった。本当は船から父の私物を引き取って、すぐに帰るはずだったのだ。
一応、その時点で引き受けていた針仕事とかは全部済ませてから来たんだけど……夏の山羊追いなんか、誰が代わりにやってくれたんだろう。
「何と……何故前回寄航した時に言わなかったんじゃ、そんなの心配しとるに決まっとるじゃないか」
「そうだよ! 何ていうか……船長って何かにつけて無自覚なんだよなあ」
そんなふうに、私はロイ爺とアレクから怒られてしまった。
「すみません……じゃあちょっと行って来ていいですかね? 日帰りはキツいんで明日か明後日には戻りますから」
「誰かついて行かなくて大丈夫かね?」
「勝手知ったる道ですよ、大丈夫です」
行き先は田舎なので、あまり目立たない姿がいい。私は旅立ちの普段着に着替えて艦長室を出る。
それから不精ひげのボートで桟橋に向かおうとすると……ほら、ぶち君がついて来る。
「今日は5kmや10km歩くからやめときなさい、猫の足にはきついよ」
私はぶち君を抱えてカイヴァーンに渡す。
「一人で大丈夫なの」
「家に行って戻って来るだけだから」
「山賊とか出ない?」
「そんな上等なもん居ないよ、ほんとにただの田舎だもの」
私はそう言ってボートにそっと乗る。船酔い知らずが無いと気持ち悪いし足元はおぼつかないし……私は本当に陸の人間なんだと思う。
ボートで送ってくれた不精ひげに、私は普通の娘のようにきちんと頭を下げる。
「ありがとう。それじゃ、行って来ます」
マリー船長としての意識はここに置いて行く。今回はこの歳まで私を生かし、支えてくれた人達を安心させる為の旅。だからヴィタリスのマリーとして行くのだ。
ただ、桟橋を50m歩く間に私は少し後悔し始めていた。故郷の人々に配ろうと、ジェンツィアーナで買って来た背中の御土産荷物が予想以上に重い。
やっぱり誰かついて来てもらった方がいいか……いやいや、ここで引き返したらまた笑われるよ。
◇◇◇
レッドポーチの北には街道があり、西はパルキア、東はジェンツィアーナに続いている。所々古い石畳が残る、広い道だ。時折人や馬、荷車も通る。それを少しだけ西に行く。
それから、雑木林の間を北に続く田舎道へ。草原の間を通り、小麦畑のある田園地帯を通り抜ける。
その後はずっと緩やかな登り坂だ。材木用の人工林の間をくねくねと続く道。途中一度、二輪の手押し車を引く人とすれ違う。積んでいたのは牛糞の桶のようだ。
丘を登りきると少し視界が開ける。いくらかの畑と牧草地、古い石煉瓦作りの家と新しいけどぼろい木造の家がちらほらと。
村の自慢の、三階建ての教会の鐘の音が聞こえる……ちょうど昼になっちゃった。私は三ヶ月ぶりにヴィタリスに帰って来た。
村の牧草地に山羊が居ない。この季節は高地の草を食べさせているのだ。じゃあやっぱり、あの仕事は誰かが代わりにやってるのね。
そして誰かが私に手を振ってる……早速ですね。久しぶりではさぞや歓迎も手荒いかも……って、手を振るのをやめて洗濯に戻っちゃったよ。まあ、ミレイユさんちは大家族、洗濯は大仕事だからなあ。
「ミレイユさーん」
私はその、小川で洗濯をしていた近所のおばさんの所へ自分から歩いて行く。
「暫く見なかったわね、マリーちゃん。トライダーさんが探してたわよ。でもあの人も最近全然見ないわ、そう言えば」
「私、船に乗ってたんです、それで色々な所に行って……」
「あらいいじゃない! あたしなんかこの村から出た事も無いわ、ホホホ」
「あの、このジェンツィアーナの石鹸、良かったら貰ってください」
「御土産? 悪いわねぇ。ねえ、エミールを見掛けたら帰って洗濯を手伝えって言っておいてくれない?」
三ヶ月ぶりに見た私にお使いを押し付け、ミレイユさんは洗濯に戻ってしまった。
村の中心部へ歩いて行く私。製材所のおじさん達は私の顔は覚えていたが、軽く手を振ってくれただけで、やっぱりすぐ仕事に戻ろうとする。
私は自分から彼らに近づく。
「私レッドポーチで船に乗ってたんですよ。これ、フェザント産の水牛チーズです、良かったら皆さんで」
「おお、ありがとう、そういや親父さん船乗りだったな、元気か? あいつ」
面倒なので私は笑顔で頷いておく。
「あれ? マリーじゃん」
さらに村の道を歩いて行く私は、後ろから余り嬉しくない奴に声を掛けられた。いつも私をチビで糞真面目の本の虫とからかう村の男の子、ガキ大将のサロモンだ。エミールとニコラも一緒だ。
「お前、風紀兵団に捕まって孤児院に行ったんじゃねーのかよ」
サロモンは私の一つ上、あとの二人は一つ下だ。小さい頃はもう少し仲良くしてたような気がするんだけどなあ……と、三ヶ月会わなかっただけで感傷にひたる程、私はこいつらの事が好きな訳でもない。
「私、孤児じゃないもん。エミール、ミレイユさんが呼んでたよ! 早く帰った方がいいんじゃないの!」
「ず……ずっと帰って来なかった奴に言われたくねーよ」
言うだけは言ったよミレイユさん。後は知りません。
次は……オクタヴィアンさんの所に行かないと……針仕事の元締めで、私が仕事をした後で工賃を値下げすると言い出した嫌な人だけど、この人への義理を欠かす訳にも行かない。
「お前、オクタヴィアンの所に行くんだろ」
何でサロモンがついて来るんだ。エミールとニコラも。
「いつかオクタヴィアンの所から出て来た時、泣いてたろお前。泣き虫マリー。仕事の事で意地悪でも言われたんじゃねーの?」
それを言わないで欲しい。腹が立つし悲しい。思い出したくない事でもあり、小作人を抱えた大農家の跡取りなんかにいじられたくない事でもある。
私はお前みたいに、ガキ大将なんかやっていい気になって生きていける身分じゃない。下げたくない頭も下げなきゃならないんだ。
「おい待てよ、何か言えよマリー」
私は立ち止まり、怒りを抑える為に心の中で三つ数えてから、背負っていた荷物を降ろし、中を探る。
自分がヴィタリスに船の誰も連れて来なかった理由を思い出した。自分のこういう姿を仲間には見せたくなかったのだ。
「ジェンツィアーナの飴細工。エミールとニコラに。サロモンは肉の方が好きでしょ。ジニア産の干し牛肉。レッドポーチからのお土産。どうぞ」
私は引きつった作り笑いを浮かべながら、それを渡す。
エミールとニコラは喜んで受け取ってくれた。サロモンは難しい顔をしてこっちを見てる。いらないなら捨ててよ、もう。




