不精ひげ「もしかして俺、これを持ち逃げするかもと思われてるのか」
やっと終わったハマーム編。
パスファインダー商会は平常運転に戻れるか?
私、マリー船長は思案していた。
やはりビーフステーキには胡椒をかけて食べたい。
フォルコン号はハマームからここ、ジェンツィアーナまでの間は、自分達が飲み食いする物しか買っておらず、何も売っていなかった。
アレクがハマームで大量に仕入れて来たのは、数種類の胡椒を始めとする香辛料である。
ハマームから陸路を200kmも行くとサウサン湾に続く水路に出られる。サウサン湾は中太洋と呼ばれる大海に繋がっていて、胡椒などの香辛料はその海の向こうから来る。ハマームは間違いなくその要衝にある貿易港なのだ。
ハマームを通さずに中太洋に行こうと思ったら、巨大な南大陸を迂回して行かなければならないのである。
しかし幸いにしてハマームの人々の信頼を得たフォルコン号とパスファインダー商会は今回、ターミガンのお友達価格で香辛料を山ほど売って貰えたという。
何という僥倖だろうか。一体誰がどんな細工をしたのだろう。
とにかく私の船には大量の胡椒が積んであるのだが、大事な商品が入ったそれらの箱には全て封印がしてあった。これは船長の私の権限をもってしても開封出来ないという。
懲りない私はジェンツィアーナの青空市場で、高価だが美味そうな、これぞ一流品という牛肉の切れを、厚めのカットで買って帰って来た。
そしてこれを焼くにあたり、船に積んでいる商品の一部を提供して貰いたいとアレクに掛け合っているのだが。アレクは全く首を縦に振ってくれない。
「どうして! 私船長だよ、商会長だよ、何も私が一人で食べようって言ってるんじゃないじゃん、太っちょの分もありますよ!」
「何と言われても駄目! 封印を切ったらガクッと値段が下がるの、それにもう買い手はついてるんだから、コンテナが減ったら迷惑がかかるの!」
胡椒が欲しければ市場に戻って小売りしているやつを買って来いとアレクは言う……何で……胡椒は目の前に山ほどあるのに……私の胡椒なのに……
「ほら、仲買が取りに来たから荷物全部降ろすよ、船長も手伝って!」
「胡椒……私の胡椒……ああああ……」
そしてジェンツィアーナの仲買人は、フォルコン号の貨物を根こそぎ持って行った。大変な金額の証券が何枚も、私の手元に残る……色取り取りの手形も……
うわあ、レイヴン海軍の手形とかあるけど。大丈夫かな……私はレイヴンに恨みはないけど、レイヴンはどうなんだろう。
「さすがに売り上げは凄いけどさ、仕入れ代も思った程安くはなかったよ」
太っちょが売り上げを計算しながら言った。
「ターミガン商人の値段で買えたんじゃないの?」
「ターミガンの人達も香辛料の値段が高騰して困ってる。単に北大陸で胡椒を求める人が急に増え過ぎたんだ。北大陸の人はターミガンが意地悪して品物を止めてると思ってるけどね」
私は結局胡椒なしで焼いたステーキの皿を、半ば嫌がらせのつもりでアレクの前にドカッと置く。味付けは塩だけだ。それに隠し味として、いつかの仕返しでレモン汁をたっぷり振り掛けてやった。
「ありがと、いただきまーす」
勿論私のステーキにはレモン汁など掛けていない。ふふふ。どうだ。
「ん……こりゃ美味いや、船長の料理もなかなかだね、肉もいいなあ」
「まあ、肉はいいと思いますよ……」
だけどアレクは美味そうに食べている……塩だけステーキだよ? いたずらでレモン汁たっぷり掛けてんのよ? そんな美味しい訳ないでしょ。
私の塩だけステーキも、案の定思ってた程美味くない。肉はいいんだけど、なんか味気ないよなあ。ああ。胡椒が欲しかったなあ。
行き掛けの駄賃と言っては失礼だが、開いた倉庫にいくらかの岩塩の樽が積み込まれて行く。ジェンツィアーナのはるか北の高山帯で採れる、質のいい岩塩だ。
この味は私も知っている。ステーキもこれで焼きたかったな……ジェンツィアーナで仕入れられて、どこの港でも悪くない値段で売れる商品だ。他には油漬けのバジルや絹織物などが積まれる。
さて、私がウラドの積み込み作業の手伝いをしていると、波止場を不精ひげとカイヴァーンが歩いて来るのが見えた。海運組合に、金貨一万枚の小切手を取りに行ってもらう仕事だ。
不精ひげ一人だと不安だからカイヴァーンについて行って貰ったんだけれど。ちゃんと帰って来たわね。
「ビアヴァッシ伯爵のじゃなく保険会社の小切手だけど、ちゃんと出て来たぞ」
「うん……ちゃんとした保険会社だよ? 船長」
アレクが小切手を確認してから私に言う。そうなんだ。じゃあ私は本当にランベロウに感謝すべきだったんだな。最後はちょっと可哀想な事したかしら、いつか無事レイヴンに戻れるといいね。
「それじゃあ出発しますよ! 不精ひげ! たまにはビシッと御願いしますよ!」
私は元気を搾り出してキャプスタンを指差し、抜錨の合図を求める。
「抜錨~」
いつも通り不精ひげが間の抜けた声で答えて、フォルコン号の錨を巻き上げる。
私は敢えて黒い長ズボンに白いシャツ、緑のジャケットの真面目の商会長服で甲板に立っていた。既に少し気持ち悪い。昼に食べたステーキが腹に重い。
ぶち猫ちゃんは私の所に近づき掛けたが、私が青い顔をして手を伸ばすと危険を察知して逃げて行った。待って……ちょっと抱かせて……だめ……?
猫に逃げられ、甲板に座り込んだ私の所に、アイリが近づいて来て頭を撫でてくれる。
「今日は船酔い知らず、着ないの? っていうかもしかして船長、あの美少年ごっこの服着るの、やめたの?」
「イリアンソスでさんざん着たから……当分着たくないんです」
ひらひらと帆が開き、フォルコン号はフワリと風に乗って進み出す……やっぱりバルシャ船とは動きが違うなあ。
船長になってから85日目。当たり障りのない商品を積み、空になった第二船員室は空のままで。普通の貨物船フォルコン号は、レッドポーチへと向かう。




