カイヴァーン「別に……泣いてなんかない」アイリ「皆困ってたわよ」
ハマームを包む人々の歓喜の渦。そこにはフレデリクもマリーも居ない。
ヒーローの望みは穏やかな日常だった。
「そんな……嘘でしょう、船長がここで降りるなんて!」
ハマームを慌ただしく出港し、四度の夜を挟み到着したイリアンソスで。私はハーミットクラブ号の水夫達に別れを切り出した。
「元の船に帰らないといけないんだ。皆には本当に世話になった」
退職金を前渡しした日。私は出来れば集めて来て欲しい情報として、ハマームの美味い物の話とか、ハマームに伝わる笑い話とか、くだらない情報に混ぜて、王家の噂話なども集めて来てくれと頼んだ。出来れば戻って来てくれたらいいな、というくらいの気持ちで。
そういう情報も、少しは役に立った面もある。だけどまさか全員船に戻って来るとは思わなかった。
だから今、ちょっと辛い。この海賊おじさん達も、私の為に集まってくれた人達なのに……
いや……違う。この人達はフレデリク君の為に集まった人達なのだ。
だけど私は本当はフレデリク君ではない。もう終わりにしないと。
「そんなあ、ジェラルドの旦那じゃ金に縁が無さ過ぎてまともな航海が出来ませんよ」
「ひでえなぁ、俺は船の金には手を出さねえよ、無くすのは自分の金だけだぜ」
「実際皆に頼みたいんだ、ジェラルドを一人でやるのは不安だから……彼はフェザントに戻るべき人間なんだ、本当は軍艦の艦長なんだから。それにジェラルドならこの船を正当にフェザント海軍に引き渡す事が出来る。君達も海賊ではなく海軍の協力者として恩給に与れるだろうし、今後もこの船を任されるかもしれない」
そして、軍艦から逃走したジェラルドだが、海賊船を乗っ取って帰って来たのなら、ある程度は許されるのではないだろうか。サイクロプス号の情報の事もあるし……こちらはちょっと後ろめたい部分もあるけれど。
そのジェラルドは。難しい顔で目を細め、腕組みをしている。
「旦那、旦那からも言って下さいよ、俺達、フレデリク船長の元で働きたくて戻って来たんですよ」
「うーん……いや、俺もそろそろお別れしようと思ってた所だったんだ。フレデリクが降りねえなら、俺が降りようと思ってたのよ」
私が降りないなら自分が降りる? え、フェザントに帰りたいとかじゃなく?
「ええっ、あの、何か喧嘩でもしたんですかい?」
「いいや? これ以上こいつと一緒に居たら、俺ァ頭がおかしくなりそうでな。そうなる前におさらばしようかとな」
それはちょっと酷いでゴザル。私はそんなに気に障るような事を言ったりしたりしていたのだろうか……様々な冒険を共にして、友達になれたと思っていたのに。
「何だよ。そんなに僕の事が嫌いだったのか」
私がさすがにちょっとむっとして、そう言うと。ジェラルドは妙な表情で目を細めたまま、背中を向けた。
「俺はストレートのフェザントの男だ。間違いなく女は大好物、今まで自分はそうだと思っていたんだが……この頃はどうかすると、もしかして男でもいいのかと思えて来ちまう時がある」
は?
「誰彼なくって訳じゃなく、フレデリク、お前を見ているとだな……こう、背中から抱き着いて頬擦りしてみたくなる時があんのよ」
ぎゃぎゃっ!? 何を言い出すんですかこの男は!
「勿論こんな事でいい訳が無ェからなァ。お前が降りるってんなら丁度いいや、アキュラ号を離れて二週間、今がフェザント海軍に戻れるかどうかの瀬戸際って気もするしな。でもいいのかこの船、本当に貰っても。拿捕賞金で俺の借金が片付いちまうぞ」
とんでもない事をサラッと言わないでいただきたい……身の毛もよだつというか……いや本当はストレートな話なんだけど……だけどほら、セレンギルさん達も引いてるし……こんな話、どんな顔をして聞けと言うのか。
「それは僕も困る話だな。今度こそちゃんと先に借金を払って剣を取り戻せよ? 倍にしてから使おうとかいうのは無しだぞ!」
「そうやって優しく俺の心配をしてくれるのも勘弁してくれよ……船長室の枕についてるお前の髪の毛がまた、えらい細くて綺麗だと思えてな……」
「解った、解ったから! 皆、そいつの事を頼む、じゃあな!」
「おう。次に会う時までにはちゃんと女の恋人作っとくわ。お前もそうしろよ」
こうしてハーミットクラブ号と仲間達は、イリアンソス産のはちみつなどを買い込んで、西へと去って行った。
ジェラルド……最後までワイルドでかっこいいけど隠し事が多くてそのくせ実直でアホでひたむきな奴だった……
最後に疲れた。疲れたよぶち猫ちゃん……って。君は結局ここに戻って来たのね。最後にセレンギルと一緒に連れ戻せて良かったのかな。
フォルコン号を降りてから十一日目。私は無事イリアンソスに戻って来た。
◇◇◇
キャプテンマリーの服は本物の男の服のような臭いを放っている気がした。
私はそれを洗濯しながら、心に固く誓う。これはもう当分着ない! やり過ぎだよ、今回の私は完全にやり過ぎ! 私は実質何回死んだんだろう。
フレデリクは懲り懲りでゴザル。もうしません。ほんとに。
それから……今後、旅客業に手を出すのもやめようと思う。今回、私はこの仕事に全く向いてないという事が解った。
お客さんを乗せる度にこんな世話を焼いていては、命がいくつあっても足りない。
イリアンソスで新しく買った服は、落ち着きのある長いワンピースと小振りで軽いジャケットを組み合わせた、アイリさんが着てそうなお姉さんっぽい服だ。チビの私に似合うかどうかは解らないが、ここ十日の反動で私は女の子で居たい。
海を見下ろす高台の宿も取った。フォルコン号が来ればすぐに解るように。ちょっとお高い宿代も、頑張った自分へのご褒美という事にする。
服装のせいで本来の年齢より大人っぽく見えるのか、単に孤独な金持ちの外国人旅行者と見られているのか、よく暇人に声を掛けられる。
「お嬢さん、少しお時間をいただけませんか?」
「少々御一緒させてくれませんか? 素敵なお嬢さん」
その都度ぶち君が間に入って威嚇してくれるのがちょっと面白い。
そういえば私自身の休暇って久しぶりかもしれない。船乗りになって二か月半か。
新しく買った本を読んだり、テラスでコーヒーをいただいたり。波止場を散歩したり、市場を冷やかしたり……風光明媚でのんびりとしたイリアンソスの街で、私は久しぶりに普通の娘になって、充実した時間を過ごす。
そしてイリアンソス再来から三度の夜が過ぎた九月の一日の午後。私が海辺のビストロのテラスでイカやエビがたっぷり入ったシーフードパスタをいただいている時に、フォルコン号は北東の海上に現れた。
「マリーちゃあぁぁん! 何それ素敵じゃない、どこかのお姉さんみたい!」
波止場で手を振る私に、ボートから降りて一番最初に飛びついて来てくれたのは、やはりアイリさんだった。
「大人しくしてたんでしょうね!? ちゃんとこの街に居たのね?」
「当たり前ですよ、本を読んだり猫と遊んだり、充実した休暇でしたよ」
ええと……ここ三日程は。
「良かった、アイリさんは散々心配しとったんじゃ、大人しく待っておったんじゃな。わしも船長代行は懲り懲りじゃ」
そう言いながらロイ爺ちょっと若返ってない? 肌の張りが良くなってるような。
「お金足りた? あんまり持たせると余計危ないって思って、あれだけにしたけど、不自由してなければ良かったなって」
アレクらしい心配。えーオリーブオイルで意外に儲かって、水夫に退職金払って私が贅沢して、少し黒字が出ました。
「本当はもう少し早く戻って来れたんだが、ハマームでとんでもない歓待を受けてな、三日も足止めされた」
不精ひげ。こいつも何か少し体重増えてないか。さぞや美味い物が食べられたのでしょうなあ。それだけは心残りですよ。
ところでカイヴァーンは居ないの? 寂しがってるかと思ったのに……ああ。舷側の波除け板の向こうから、ちらっとこっちを見た。それだけ。
「カイヴァーンは夜泣きして大変だったのよ、お姉ちゃんが居ないって」
アイリが囁く。それにしては今はけろっとしてますが。
船の上からウラドも手を振ってくれた。カメリアに連れて行かれたりはしなかったのね。こっちも良かったのかどうなのか。
とことこと私の後ろをついて来たぶち猫ちゃんは、さも当たり前のように、ヒョイと飛んでフォルコン号のボートに乗り込んだ。
「お友達?」
「はい、イリアンソスで出来た唯一の友達ですよ」
アイリさんが、私の手をぎゅっと握った。
「さあ、帰るわよ! フォルコン号に……マリーちゃん? 本当に何も危ない事なんかしてなかったんでしょうね?」
私はアイリに手を引かれ、大人しく桟橋を歩いて行く。
「勿論ですよ、私がいつ危ない事をしたんですか」
小さい頃、母に手を引かれて夕焼けの野原から連れて帰られた時の事を思い出す。
帰れる場所があるって、素敵な事だな。
歴史ある海編、終わり。




